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オータム・グッドバイ

作者: 赤木 ミル

 田舎へ帰るたびに幼なじみと入る居酒屋は決まっていた。なぜなら、小さな店だったが、地元の新鮮な食材を仕入れているらしく、とくに魚の料理は大変おいしいものがそろっているからだ。秋はさんまが美味しい。塩焼きも、蒲焼きも美味しい。ビールと一緒に食べる、かんぱちの刺身も好きだ。都会でこんな料理を食べようとしたら、いくら払わないといけないか分からない。お店のおかみさんは、ふくよかな体に着物を着てわたしたちを出迎えてくれた。きれいに化粧されているがやや疲れぎみの顔に、笑顔は少ない。しかし体中から滲み出すような包容力を感じる。時々わたしたちがお店を利用することを知っているのか、「いらっしゃい」の声が身内を迎えるような優しい声だ。着ている和服が上品に全体の雰囲気を引き締めている。いかにも、この人の出してくれる料理なら間違いなく美味しい、と思わせるような出で立ちである。粛々とおかみさんは部屋へ通してくれた。部屋には、茶色くなったたたみがあり、ふすまがあり、ざぶとんが敷かれている。とりあえずビールをたのむ。近所の年配の客が多く入っているようで、色々な方向からお酒が入った中年男性の大きな笑い声が聞こえる。おかみさんが、大きな体を揺らしながら、忙しくあちらこちらへ料理を運んでいた。


 その夜は半年ぶりに幼なじみと会った。わたしは都会で売れないイラストレーターをしており、半年ぶりに少し長い休暇を取って実家に帰ってきた。幼なじみの千春ちゃんは、地元で就職し、とある中小企業で事務をしている。この幼なじみは、昔から古風で上品な顔立ちをしている。デニムシャツの上に薄いグレーのスウェットというカジュアルな恰好をしていても、どことなく品がある。特別なことをしなくても真っ直ぐだという黒髪が、肩の少し上くらいに切りそろえられ、さらさらと揺れている。ひさしぶりに過度の気遣いをすることなく人と会話をした。会話の内容は他愛のないものだ。最近見ているテレビ番組、最近作った料理、冬が近づくと部屋の中では何を着ているか、今年は雪がたくさん降るのか…。

「ねえ、綾ちゃん、テレビでやってたの。鶏肉のミンチに、レンコンのすりおろしたのを入れて丸めて、鍋に入れると美味しいのよ。柚子胡椒も入れて。」

「千春ちゃんはそんな凝った料理を作るの?お母さんと一緒に食べるために?わたしは一人暮らしを始めてから、一度も食べ物をすりおろすという動作をしてないよ。」

「まあ、一人分だけ料理を作るのがおっくうなのは分かるけど。そのうち誰か一緒に食事を食べてくれる素敵な人が現れたらどうするの。もう、わたしたちももうすぐ30歳で、いい歳なのよ。」

「ほんとうに、誰か素敵な男の人が道に転がってたらいいのにね。」

 二人ともいつもよりたくさんお酒を飲んだ。とても楽しい夜だ。



「みづきさ、死んじゃったらしいよ」

 お酒の入った幼なじみが、ぽろっと口にした。素面では話しづらい話題だったのだろう。

しかし、わたしはその名前に聞き覚えが無かった。いったいどこの誰のことかと問い返すと、

「みづきって、ほら、同級生の、中学校のときに同じ学年だった、中川実月のこと。」

名前は聞いたことがあるような気がした。しかし、顔は苗字を聞いてもはっきりと思い出せない。通っていた中学校はわりと大きな学校だったし、私の場合同級生の大半は名前を聞いてもピンとこないだろうと思う。しかも私自身、そんなに社交的な人間ではなかったので、関わりのある人間が多くいるわけでもなかった。

「中学のときから、背が高くて、モデルみたいなきれいな子だったよ。都会で就職して、事務の仕事をしてたんじゃないかな。一人暮らしをしていたらしい。それが、自宅で、栄養失調になって死んでるところを発見されたんだって。」

 ……栄養失調??

「え・い・よ・う・失調、だって」

わたしはもう一度問い直したが、彼女の返事は同じだった。

 はたして、現代の日本で、しかもわたしと同じ都会暮らしの30歳ちょっと手前の女性が、栄養失調で死んでしまうなんてことが、ありえるのだろうか?目の前に置かれている新鮮なかんぱちの刺身とビールは、わたしたちの話題ととんでもなくちぐはぐしている。


 先日中川実月の葬儀があり、学生時代につきあいのあった千春ちゃんはそれに参列したのだそうだ。わたしは同級生の死、しかもわたしと同じ都会で一人暮らしをしている女性の死、という事実がうまく飲み込めないでいた。30歳前に亡くなる人はそう数多くはないのだろうか。同級生が亡くなったという話は、わたしが初めて耳にする種類の話題だった。

「ダイエット食品ばかり食べていたらしいよ。それで体がだいぶ弱ってたんだろうって。」

葬式には、ほっそりとしたきれいな顔の女性の写真がかざられていたそうだ。

「やせる必要なんてなかったのにね」

千春ちゃんが、ため息まじりにそう言った。

 中川実月が一人暮らししていた部屋の中には、ハーブの入った石けんやら高級化粧品やらが山ほどあり、みづきの母親が使って欲しいとのことで知り合いや友人に遺品をくばっているとのことだった。

「これあんたも使ってあげてよ。たくさんもらったから。」

千春ちゃんは、石けん3個と香水を1個、私の前に置いた。

「わたしは香水を使わないの。よかったら綾ちゃんが使って。」

中川実月と同じ年の女性がこれを使うことで、みづきの母親も少しは気持ちが安らぐのだろうか……?それは、確かに中川実月という人間がこの世に生きていて、香水をつけ、日々の仕事をし、日常の雑務をこなしていた、という証拠であり、それがここにあるということは、今はもう、その人はいないという証拠であった。

 さすがに無言になった。彼女のことは良く知らないけれど。



 実家に帰って、少し休み、風呂に入った。タオルを体にまき、髪を乾かし終えたときに、今日香水をもらってきたことを思い出した。

 香水をひと吹き、手首につけてにおいをかいでみたが、ほとんど香りはしなかった。手首を鼻にくっつけてもほとんど香りを感じなかったので、相当に香りが薄くなるように作ってあるようだった。これでは、香水をつける意味はあるのかしら。

 何故、都会で栄養失調にならなければならないのだろう?食事ができるお店なら山のようにある。お金を出せば、スーパーでだってコンビニでだって食べ物は買える。お金がなかったわけではない。都会に食べ物が無いわけでもない。むしろあふれるくらいにあるのに。

 こんな香りの無い香水をわたしは使わないだろうと思った。立ち上がり、噴出し口が斜め上向きになるようにして持ち、何度も部屋中に香水をまいた。そこまでするとさすがにかなり香りが立った。


 ……気がつくと、わたしは都会のマンションに一室にいた。オートロックの新しいマンション。小さいミニチュア・ダックスフンドがしっぽをふっている。帰宅が遅くなるのだろうか、犬の夕食は、決められた時間がきたら一食分を自動ではき出してくれる電化製品に任せられている。掃除も、丸いロボットが自動で行っている。一人暮らしでは持て余すのだろう、広いフローリングの部屋には、大きなテレビと白いソファとソファテーブルが置かれており、あとはがらんとしている。

 そして、目の前にはモデルのような体型の中川実月がいた。お風呂上がりのみづきは、淡いピンクの下着の上につるつるしたベージュのキャミソールを着ている。服から伸びる長い腕にはしみ一つ無い。美容院で手入れされた、胸の辺りまである茶色の光沢のある髪は、まだ少し湿っており、みづきは肩に白いタオルをかけている。お風呂場には、たくさんの石けん。ハーブの香りがするものや、海外で作られたらしいものや、マーブル状にオイルが練りこまれているものなどなど。

 彼女にはわたしが見えないようだった。

彼女は携帯で電話をしている。白いソファに深く座り、ゆっくりと細い脚を組む。形のよい唇が動く。みづきはぼそぼそと低い声で、ゆっくりとした調子で話している。

「…そうあの新入りの子、ほんとうに仕事遅くって…、あんなミスしないでよね、尻ぬぐいしないといけないのはこっちなのよね。」

みづきはねっとりと絡みつくような声で話を続ける。顔は無表情だ。

「今日も、ちょっとくらい体調が悪いからって、熱も無いのに会社休むなんてあり得ないわよねえ。空気読めないっていうの?ほんとうに具合悪かったのかしらね。明日は多分、色んな人から「大丈夫?」なんて言われて、ちやほやされて、いい気分でしょうね。あの子なら、ちょっと同情をひくようなことするかもね、わざと咳き込んでみたり、頭が痛そうにしてみたり…。

ねえ、それにしてもあの子がいつも着てるあの濃いピンク色のコート…ねえ、おかしいわよねえ、どういうセンスなのかしら。男性社員に媚び売ってるんじゃない?

私、明日は部長と一緒に出張に行かないといけないの。とてもおっくうだわ。気を遣って肩が凝るわよね。まずお荷物をお持ちして、新幹線の中では飲み物を準備してお出しして、話題にも気を使うわよね、最近のニュースから当たり障りのない話を出してきて和ませて…なるべく、仕事について意見は出さないほうがいいわね。あの人、ちょっとしたことですぐ機嫌が悪くなるじゃない?

 …え、嫌よ、ほんとうはあんな人と一緒に出張なんて行きたくないわよ。尊敬しているわけでも無い。でも、あの人に嫌われたらこの会社に残ることができなくなるじゃない。わたし、あの新人みたいに、会社で悪目立ちするようなことはしないのよ…。」


 …そして彼女は立ち上がり、クローゼットへと向かう。広いクローゼットにはたくさんの服がしまい込まれている。みづきはその中から明日の服を選びだす。長い指が服の上を動く。爪には濃いベージュのマニキュアが塗られている。その中から彼女は、オフホワイトのブルゾン、ネイビーのタイトスカート、茶色いレザーのショルダーバッグを取り出す。


 彼女は、ほんのわずかの香りを身にまとい、人から浮かないように、人から好かれるように、細心の注意を払いながら生きている。

 彼女は、身のまわりを隙なく、上品なもの、清潔なもの、人から価値があると認められるもので固め、あか抜けないものや甘えるもの、汚いものを排除している。それで彼女の周りのだれもが彼女は満足している生活を送っていると思っているのだ。もちろん、彼女自身も。



 ……気がつくと、わたしは自分の部屋にいた。

 どうやら、横になったまま寝てしまい、夢を見ていたようだった。


 見慣れた実家の部屋を眺める。ふすまには穴の開いた箇所があり、上からガムテープが貼られ、一応隠されている。仰向けになり、天井を見ると、あちらこちらにしみのようなものが出来ている。ぼんやり眺めていると、木目が人の顔のように見えてくる。もう今日は、起きていることはできないようだ。ふとんにもぐり、分厚い掛けぶとんをかぶる。ふんわりと洗剤の匂いがする。

 私は再び目を閉じた。

 …そして、半分寝ている頭で考える。


 彼女の周りには、近所でとれたばかりの魚を出してくれるお店も、太ったおかみさんもいなかった。そしてそれは、おそらくは彼女自身が注意深く遠ざけてきたものなのだ。

そうして彼女はあっさりと、30を目前にして、栄養失調で死んでしまった。


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