エピローグ
あの日から、二年が経った。
ミランは休日になると相変わらず美術館に通い、セーヌ川沿いで絵を描いている。カフェ『エスメラルダ』のウエイターは半年前に辞めた。カミーユのアシスタントの仕事が本格的に忙しくなったからだ。おかげで最近は、ミランの絵が出版物に載ることも増えてきた。
ミランは毎日ドビュッシーのピアノ曲を聴いている。
『月の光』、二つのアラベスク、『亜麻色の髪の乙女』、『喜びの島』……あらゆる名曲を聴きながら絵を描くと、とても穏やかな気持ちになれるのだ。
クリスティーヌのことを、いつも考えていた。
二年経っても、彼女を好きな気持ちは一つも変わっていない。むしろ待つ時間が長ければ長いほど、ミランはこの恋に夢中になってしまう。愛しさは募っていく一方だった。
○●○
ウィーンから二年ぶりに帰国するクリスティーヌと再会の約束をしたのは、エッフェル塔の足元にあるトロカデロのメリーゴーランドで、だった。
その日、ミランは仕事を早めに片付けてアトリエを出る準備をしていた。いつになく落ち着きのない様子の弟子を見て、カミーユは「この街には色んな恋が落ちているのに、おまえはもったいないよ」と、楽しそうに言う。
「本当に二年間、彼女を待ってるとはな」
「彼女以外考えられないなんて、どうせ馬鹿だと思ってるんだろう?」
「俺は褒めてるんだよ。会えない女を待ち続けるなんて、なかなか出来ないさ」
確かに何かが吹っ切れたような、妙な清々しさがミランにはあった。この二年は決して短いものではなかったけれど、自分の心は常に一人の女性に注がれて、枯れることなどなかった。
○●○
アトリエを後にしたミランは、待ち合わせの時間まで夜のパリを散歩することにした。エッフェル塔へ続くセーヌ川沿いを、ゆっくりと歩く。川面にくっきりと映し出される月の光。両岸には歴史的建造物やモニュメント、アレクサンドル三世橋が美しくライトアップされている。きらきらと輝くオレンジの灯。その光と影の幻想的な景色が、パリを世界一ロマンティックな場所に変えてくれる。
恋をするにはぴったりの都だ。
この街でクリスティーヌに出逢ったミランは、心苦しいまでに恋に狂ってしまった。
どんなときだって、クリスティーヌのことばかり考えていた二年間だったと思う。ドビュッシーを聴くときも、絵を描くときも、食事をするときでさえも。
パリが、彼をそうさせるのだ。こんなにも切なさと甘美な喜びで満ちあふれているから、ミランは魔法にかかったように恋に乱れた。
エッフェル塔の真下に辿り着き、メリーゴーランドの前のベンチに座る。
約束の九時まで、あと三〇分。時間を持て余すミランは、通り過ぎる恋人たちを眺めたりしてぼんやりと考えた。
一体、何から彼女に伝えようか?
伝えたいことは山ほどある。この二年間の出来事も、積もらせてきた想いも。
あれを言おう、これも言おう。様々な言葉が止めどなく湧き上がった。そんなふうに、ミランが俯きながら迷いを巡らせていると。
突然、彼の視界で小さな足が目の前に立ち止まった。
ミランは驚いて、そっと顔を見上げる。
「こんばんは」
思ったとおり、そこには二年越しに見るクリスティーヌが立っていた。
あの透き通る声が降ってくる。ボンソワール、と。
ミランは思わずその場から立ち上がった。
「クリスティーヌ……」
「久しぶり、だね。ミラン」
「ああ、久しぶり」
まるで出逢った初めの頃のように、ミランは一気に焦り出す。久しぶりに会ったクリスティーヌはシルクのような肌をしていて、少し大人っぽくなっていた。
彼女に話したいことが幾つもあったはずなのに、いざ本人を前にすると何から話せばいいのかわからなくなる。
言葉が詰まってしまったミランを見て、クリスティーヌは可笑しそうに笑った。
「もしかして、緊張してる?」
「うん、ちょっとだけ……」
ミランは恥ずかしげに頭を掻く。
そのとき、時計の針が九時ちょうどを差した。
―――瞬間。二人の頭上に伸びるエッフェル塔が、シャンパン・ゴールドに煌めき出して。
クリスティーヌが「あっ」と小さく感嘆した。
「きれい!」
エッフェル塔は毎時ごとに五分間だけ、この演出が行われるのだ。まるで眠っていた星たちが一斉に輝きだしかのように、ゴージャスに彩られる。
意表を突いたイベントにミランも思わず表情を緩めた。自然と、それまで緊張していた心の糸がじんわりと解けていく。
「クリスティーヌ。あの約束、覚えてるかい?」
「約束?」
「二年前、君は言ったよね。"もし私のことを待ってくれたなら"って話」
クリスティーヌは驚いた顔をした後、嬉しそうに笑って、だけど少しだけ涙を浮かべて、「もちろん覚えてるわ」と言った。
「"次に会ったときは、手をつないで、歩こう"」
「ええ」
「セーヌ川沿いも、シャンゼリゼ通りも、ルーヴル美術館も」
「……うん」
「今度こそ、恋をしようって、僕たち約束した」
何年経っても、この恋の微熱が消えることはなかった。
だからもう、二人には空白の時間なんて、要らない。これからは寄り添って、一緒に日差しを浴びたり、同じものを感じたりしながら、この街を並んで歩こう。
「君を待ってたよ」
誰よりも好きだと誓える。
だからミランとクリスティーヌはまた、この場所で巡り会った。
そして二人の恋が、今、ようやく始まるのだ。
ふと見上げた夜空には、散りばめられた冬の星座。
パリの美しい月が、二人の愛を優しく祝福していた。
勤めていた会社を辞めて、念願だったヨーロッパの旅に出たのは、今年の10月でした。
フランスのパリは、泣きたいくらいに美しくて、ロマンティックで、どこをとっても絵になるような景色の街です。
バスから眺めた街並みを見て、「私もこんな素敵な街で恋をしたい」という羨望を抱いたのは、そのときでした。
ミランは、私と同じ24歳。芸術家になる夢を追いかけている美しい青年です。
憧れのパリで恋をする。その願いを彼に託すかのように、私はこのお話を書き出しました。
毎日忙しくて、夢があって、好きな人がいて。
それが24歳なりの、憧れだと。私は思います。
パリで生きることは出来ないけど、私も日本で、こんなふうに素敵な24歳を過ごしたいです。
ちなみに、このお話に出てくるパリの名所は、ほとんどが実際にある場所です。
例えば、ミランが働いていたカフェ「エスメラルダ」も、実際にノートルダム大聖堂の裏通りにあるお店です。(私は行ったことありませんが・笑)
その他の場所に関しても、とのまりこさん著書「散歩しながら買い物したい人のためのパリを旅する本」を参考にさせて頂きました。
最後に、いつもこの作品を読んで下さっていた方々に感謝の言葉を。
本当にどうもありがとうございました。
私の中でこのお話は、パリの思い出を繋ぎ止めてくれる作品になると思います。
大好きなドビュッシーの「月の光」とともに。
2011.12.08 // YOZAKURA NAO