ミランとクリスティーヌ
訳もわからず、ミランは前を歩くクリスティーヌの背中を追いかけた。
空には夕暮れから夜に移り変わる綺麗なグラデーションが広がっている。
エッフェル塔の全身が見える橋に辿り着いたとき、クリスティーヌは足を止めた。そして今度は鞄の中から、おもむろに一枚の紙を取り出す。
とても大切そうに見えたその紙を見て、ミランのある予感は確信へと変わった。
それは、ミランが描いたクリスティーヌの絵だった。
もうずっと前。学生だったときにエッフェル塔のメリーゴーランドで描いた、彼女の似顔絵―――。
「私、あなたに絵を描いてもらったことがあるの。そのときから、あなたに憧れてたわ」
「僕のこと、知ってたんだね」
「うん。だって、とっても評判だったよ。エッフェル塔のメリーゴーランドには、似顔絵を描くのが上手な男の子がいるって。しかも格好良いって有名だったんだから」
くすくすと笑い出す彼女に、ミランは驚きを隠せなかった。気恥ずかしくて顔が熱くなる。
「警察に注意されて、あなたはすぐにいなくなってしまった。だからパリ中を探したのよ。そして偶然あのカフェで見つけた。奇跡だって思ったわ」
ノートルダム大聖堂の裏側にあるカフェ『エスメラルダ』に彼はいた。何故かウエイター姿で。
それからクリスティーヌは毎朝カフェに通うようになった。
ミランはその話を、狐につままれたような気分で聞いていた。夢でも見ているのではないかと。作り話なのではないかと。疑ってしまうけれど、全ては本当の話なのだ。
なにしろ、ミランがさっきスケッチブックに描いていたのは、彼がずっと美術館で探し求めていた絵、そのものだった。
どこかで見たことがあると思っていたのは、他の何でもない、昔自分が描いたクリスティーヌの似顔絵だったのだ。
「あなたにまたこうして、似顔絵を描いてもらえて幸せだった」
ウィーンに発つ前に、クリスティーヌはそれをミランに伝えたかったのだろう。
全てを知ったミランは、今やっと彼女の想いの切なさを感じ取る。
「僕は……」
「うん?」
「カフェで君のことがずっと気になってたんだ。でもその理由が今やっとわかった」
「ごめんなさい。今まで黙っていて」
「いいんだ。君を思い出すのに、こんなに時間がかかった僕が馬鹿だった。でも、これだけははっきり言えるよ。僕は今まで沢山の絵を描いてきたけど、君の似顔絵だけは、ずっと忘れられなかったと思うんだ」
エッフェル塔の下にある、トロカデロのメリーゴーランド。
そこでミランはクリスティーヌと出逢った。もうずっと昔に、だ。
「メリーゴーランドの前で、君を描いたときから惹かれてた。僕はどうしようもなく、君が好きだ」
クリスティーヌは微笑んだ。ありがとう、と、小さく声に出して。
もっと早く巡りあえていれば、二人は一緒にいることが出来たのに。わかり合えた途端に、また別れがやってくる。クリスティーヌはもうすぐウィーンへ行ってしまう。
「君のこと、待ってるよ」
「二年も離れるのよ?」
「構わないさ。僕は待ってたいんだ」
震えるくらい強くそう思った。
もうこの想いのやり場なんて、どこにもないとミランはわかっている。
「……もし、本当にそうなら、」
本当に私を待っていてくれるなら、次に会ったときは―――
最後に泣きそうな顔でクリスティーヌは言った。
切なさを紡ぐように、一つの約束をミランに残していった。
エッフェル塔の美しい明かりが心に沁みる夜。
始まることのなかった二人の恋が、パリの夜空に儚く消えていく。
月の光が、とても悲しい。