恋の都の芸術家たち
彼女を待つ時間が好きだ。カフェ『エスメラルダ』の店内から煎りたての珈琲の香りが漂う朝。
テラス席に立って空を仰げば、ノートルダム大聖堂のシルエットが視界に映える。あの聖堂の鐘の音が鳴り始める頃、彼女は店にやってくるだろう。
「ボンジュール」
カフェの扉から、彼女の澄んだ声が聞こえた。
ボンジュール。ミランは素早く入口へ向かい、心待ちにしていたお客の来店を迎え入れる。
今朝の彼女は黒のツイードワンピースをコートの下に着こんでいた。いつも一つに束ねていた巻き髪もめずらしく下ろしていて、普段と印象がだいぶ違う。
見慣れないシックな装いにどきっとしつつも、ミランは彼女をテラス席に案内した。
「いつものをお願いします」
彼女の注文に、ウイ、と小さく返事をした。そのまま足早に店内に戻り、店主にオーダーを伝える。
本当は今日こそ名前を聞くぞと意気込んでいたミランだったのだが。今朝の彼女の様子を見たら、そんな気もすっかり消沈してしまった。それどころか、今まで秘められていた彼女の魅力を見た気がして、ミランは内心ひどく焦っていた。
ほんの少しでも彼女の新たな一面を知っただけで、ミランの心は面白いように浮きだってしまう。それほどまでに、ミランは彼女の一挙一動に夢中なのだ。
○●○
その日の夕方、アトリエで仕事用の資料整理をしていると、一本の電話がかかってきた。電話の相手は、仕事の打ち合わせで外出しているカミーユである。
「アトリエに忘れ物をしたんだ。デスクの上に小包があると思うんだが」
「わかった。すぐ届けに行くよ」
場所はシャンゼリゼ大通りにある高級レストラン。
パリの人気アーティストともなると、打ち合わせに使う場所も違うな……。なんて思いつつミランがデスクに目を向けると、そこにあったのは明らかに女性用のプレゼントらしき小包だった。
(仕事、じゃなかったか……)
師匠の女癖の悪さは今に始まったことではない。
確かにカミーユはハンサムで女性が放っておかないようなタイプの人間だ。だけど、その私利私欲な行動のために、自分を使い走りにする癖だけはなんとかしてほしい。上司の権限を横行させるカミーユに疲弊しながらも、ミランは小包を持って渋々シャンゼリゼへと向かう。
○●○
シャンゼリゼ大通りはいつ来ても人が多い。世界中から観光客が集まる地域なだけに、一流ブランドの店や映画館、華やかなアーケード、有名カフェなんかが集まっている。ミランは正面に構える凱旋門を横目に、群衆の流れに沿ってゆるやかな坂を歩いていく。
指定されたレストランに入店し、ウエイターに頼んでカミーユを呼んでもらった。
「おお、ミラン。わざわざ悪かったな」
「カミーユ。もうプライベートのことは、これっきりにしてくれよ」
わかってるさ。そう適当に相槌を打つ師匠に、ミランは疑いの念を抱かずにはいられない。一緒にどうだ、と食事に誘われたが、さすがに逢引している女性と師匠の間に入るのは気が引ける。ミランは当然断り、カミーユと別れてレストランを出ようとした。
そのとき、中央に設置された壇上でピアノ演奏が始まった。
―――月の光。
印象主義音楽のフランス作曲家クロード・ドビュッシーの、あまりにも有名すぎるピアノ曲だ。そのまろやかで切なく、どこか凛とした美しい音色に、ホールにいた誰もが聞き入っている。
ふとピアノを奏でる女性を見て、ミランははっと息を止めた。
「信じられない……」
演奏者の椅子に座っていたのは、毎朝ミランが『エスメラルダ』で待っている、愛しの女性だったのだ。
今朝見たばかりの黒いツイードワンピースに身を包み、しなやかな指先で『月の光』を奏でている。
見間違いかと思った。でも確かにその人は、彼女、だった。
曲が終わり、一斉に拍手が沸き起こる。彼女は椅子から立ち上がり深々と一礼すると、いつもミランに見せてくれるあの可憐な笑顔で、人々の温かな拍手を受けていた。
「どうして彼女が……?」
ミランは唖然としてその場に立ち尽くしていた。
するとそんなミランに気付いたのか、彼女がこちらに視線を止める。ミランと同じく彼女もまた目を大きく見開いた。毎朝カフェで顔を合わしているウエイターが、ホールの隅でぽかんと突っ立っていたのだ。とても驚いたはずだろう。
けれど彼女はすぐに表情を緩め、そっとミランに微笑みかけた。
(う、わ……)
その瞬間、ミランは思わず胸が詰まってしまうくらいに、彼女に恋焦がれてしまった。
そんなの、今に始まったことではないけれど。こんなに胸が高鳴ることなんて、今まで経験したことがない。と、ミランは、思った。
「こんばんは」
「こんばんは。こんなところで会うなんて奇遇ね」
「僕も驚いた。君、ピアノ弾くんだね」
壇上から降りた彼女に、精一杯勇気を振り絞って声をかけたミラン。彼女は自然とそれに応え、ええ、と照れくさそうに笑う。
そのとき二人は初めてオーダー以外の会話を交わした。シャンゼリゼ大通りにある高級レストランの片隅で。
「素晴らしい演奏だったよ」
息を吸うのも忘れてしまうくらいに、素晴らしかった。
「ありがとう。嬉しいわ」
クラシカルな空間の中にいても、彼女の笑顔は何一つ変わらない。
伝えきれない想いがミランの胸中を渦巻く。まさかの展開に戸惑いながらも、ミランは眩暈に似た感覚に酔いしれそうだった。
「君の名前、聞いてもいいかな?」
「クリスティーヌよ。あなたは?」
「僕は、ミランだ」
クリスティーヌ。心の中でもう一度、つぶやいてみる。
ようやく聞けた彼女の名前。
ミランが恋する女性の名前、だ。