カフェ・エスメラルダ
ミランがクリスティーヌに恋をしたのは、二年と半年前のことだ。
彼女は、ミランがウエイターとして働くカフェ『エスメラルダ』に毎朝やってくる常連だった。
ノートルダム大聖堂の裏通りに面するそのカフェは、朝の八時からオープンする。
ミランの一日は、カフェのオープン支度から始まるのが決まりだった。まだ辺りが薄暗い時間に家を出て、朝一番に店に立ち、焙煎された珈琲をお客のテーブルに運ぶのが仕事だ。ランチタイムのピークが過ぎるまでが彼の勤務時間で、そのあと夜にかけては画家の師匠のもとでアシスタントの仕事をしていた。
そんな単調な生活が繰り返される中で、ミランがクリスティーヌのことを気にし始めたのは、彼女が『エスメラルダ』に来るようになってすぐのことだった。
クリスティーヌは、まだ店内のお客がまばらな早い時間帯にやって来る。
恐らくミランと同い年か、それより年下に見える彼女は、いつも綺麗なショコラブラウンの巻き髪を一つに束ねている。朝の静かなテラスで、目の前のサンルイ橋を眺めながら本を読むのが日課らしかった。
「お待たせしました」
ミルクをたっぷり注いだ熱いカフェ・オレに、焼きたてのクロワッサン。
彼女のテーブルに温かな朝食を運ぶときだけ、ミランはいつも緊張してしまう。一日のうちで最も気恥ずかしく、心が躍るような瞬間。
「ありがとう」
そのときまだ名前も知らなかった彼女は、必ず手元の本から視線を上げ、ミランにきちんとお礼を告げてくれる、めずらしいお客だった。
メルシー・ボク。
とても澄んだ声でこぼれ落ちる、その言葉。ミランの朝をいつも幸福な時間に変える、魔法の言葉だと、彼は思う。
○●○
「いい女なのか?」
画家の師匠であるカミーユは、相変わらずそんな質問をミランにしてきた。
午後のアトリエでデッサンの仕事をしながら、ミランが初めてカミーユに彼女の話をしたときだ。
「そういうふうに見たことはないけど……」
「なんだ、いい女じゃないのか」
「いや、だから、」
ミランは呆れて苦笑してしまった。ぶしつけに言葉を投げてくる女好きの若い師匠に、この話をしたのは間違いだったかな。少しだけ後悔する。
「彼女のこと誘ってみたらどうだ? おまえ結構モテるし、いけるよ」
「違うんだ。そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて? なんだ?」
パレットの上で油絵具を混ぜ合わせつつ、カミーユがつまらなそうに首を回した。
アトリエの窓から、表通りを行きかう車のクラクションが聞こえる。路上に反響するパリの雑踏。
カミーユのアトリエはパリの北側に位置するモンマルトルにある。この辺りは無名の画家たちが集まって露店を開く場所としても有名だった。ミランも学生時代はよくモンマルトルの広場で似顔絵を描いていたのだが、あるとき、パリの人気アーティストであるカミーユに拾われ、以降このアトリエでアシスタントとして働いている。
「確かに彼女を好きだとは、思うんだけど」
「やっぱりそうだろ」
「なんとなく、前に見たことがある気がするんだ」
「前に? どこかで会ってるのか?」
「いや、会ったことは多分なくて」
よくわからない、といった顔で、カミーユが怪訝そうにミランを見つめた。
ミランはさっきから彼女の笑顔を思い出している。どこかで見覚えのある、あの可憐な笑顔を。
「ほら、僕、毎週のように美術館に行くから」
実は毎週休日にはパリ市内の美術館に足を運んでいる。幼い頃から絵画のアーティストを目指すミランにとって、パリは芸術の宝庫だ。この街では数えきれないほどの芸術品に触れることが出来るし、そこには限りない感性の刺激があふれている。
「美術館、行くから?」
「その絵の中に、彼女に似た女の人がいたのかな……と」
それを聞いた瞬間、カミーユが噴き出した。
「なんだよミラン。おまえ、絵の中の女に恋したのか?」
「恋をしたのは、絵画じゃなくて彼女にだけど」
なんだか自信満々にこんなことを言っているのも可笑しいけれど。
ミランには確信があった。どこかで彼女に似た絵を見たことがあると。そしてその絵は、一度しか見たことがなくても、忘れられないくらいに鮮明な、惹きつけられるような、美しい絵だった、とも。
だけど、それをどこで見たのかが、思い出せない。
「おまえらしいな」
カミーユはやれやれとオーバーにため息をついて、キャンバスにナイフで油絵具をのせた。