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悲しい人たち

「陽介、行くの?」

「うん、悪いけど。真保さんが呼んでるから」

「なんで、そんなのひどいよ」

「ひどいのはわかってる。だから何を言われても仕方ないし、かまわない。もう行くよ」

 涙を流して鞄にすがり付く佳奈を引き剥がして、逃げるようにドアから飛び出す。ドアが閉まりきる前に聞こえた佳奈の呟きが、耳に残った。


 帰宅ラッシュに逆行する上り電車に乗り込むと車内はがらがらで、座席の端に座っている人たちはみなうつらうつらとしていた。自分も同じように座席の端へ、振動をあまり起こさないように静かに座る。

 さっきの佳奈との会話が思い出される。

「私を大切にしない理由は、何?」

 かわいそう、だと思う。まだ佳奈は泣いてるだろうか。近頃は、何もなくても泣いている日がある。それなのに真保さんを優先するなんて、本当に、何なんだろう。ひどいと思う。でも多分、飽きたんだと思う。

 最初に真保さんと会ったのは半年くらい前だ。その頃はよく、大学の授業を終えてから目的もなくふらふらと歩き回っていた。ただ何となくうちに帰りたくなくて、一人きりの家に戻るのがとてつもなく不快で、帰っても素面ではいられなかった。

 あの頃につくった傷跡は多分もう消えない。

 自分がひどく嫌いだった。音楽を爆音で流して、何も考えずに歩いていたら不意に人とぶつかってしまった。小さな悲鳴をあげて尻餅をついた女性に大丈夫ですかと言ってのぞき込むと、彼女はゆっくりと起き上がって今まで見た誰よりも申し訳なさそうにごめんなさいと言った。それが真保さんだった。

 確かそのときも彼女を一目見てかわいい人だと思ったような気がする。その場は一言謝ってすぐに別れたが変な縁があるのだろうか、まさか麻衣の知り合いだとは考えてもみなかった。

 半年ぶりの再会の次はたった一週間しか間をあけないし。何がどうなっているんだろう。どうして真保さんは俺なんかを呼んだんだろう。別に俺でなくとも、いくらでも彼女の話を聞く相手はいるだろうに。

 人の少ない車内は音楽を大きめの音で聴けていい。真保さんに会う前に、なんとなく気合を入れ直さなくてはいけない気になってる。別にいいとこを見せようとか思ってるわけではないんだけど。

 そんなことをなんとなく考え続けていると、不意に目的地の駅名がアナウンスされた。はっとして鞄を抱え、ばたばたと席を立つ。危ない危ない、こんなとこでいきなり失敗しているわけにはいかない。

 待ち合わせの店に着くと、真保さんはカウンターに一人座ってビールを流し込んでいた。

「こんばんは」

 隣の席に鞄を置いて声をかけると、彼女は慌ててジョッキをテーブルに置き、笑えるくらい済まなそうに、急に来てもらっちゃってごめんねと頭を下げた。彼女はいつもこんなふうに謝るんだろうか。

「全然かまいませんよ。呼ばれて嬉しいし」

 カウンターの中にいる東南アジア系の男性店員に中生と軟骨の唐揚げを頼む。了解の意を示す、はーいの声はとてもサービスなんて言葉を考えていないような投げやりな響きで、聞いてるこっちも楽でいい。

「なんか疲れちゃってね、今夜は飲みたいなって。近くに住んでる友達に連絡してみたんだけど忙しいみたいでさ、誰かいないかなって携帯の画面をひたすら見てた。そしたらこの前椎名君と飲んだの思い出してさ、楽しかったなーって。本当、迷惑かけちゃってごめんね」

「いや、本当に迷惑とか全然ないですよ。ちょうど俺も飲みたいなって思ってたところだったし。むしろ、真保さんと飲めるのは光栄だし」

 真保さんの横顔を盗み見ると、話を聞いているのかいないのかよくわからないような無表情でジョッキを傾け、ぼおっとしている。それを飲み干すと中生とサラダを頼んだ。何を話したいんだろう。頬は赤く、もうそれなりの量を飲んでいるように見えるけど、大丈夫かな。

「なんかさ、時間がたつとみんないなくなっちゃうよね」

 彼女の周りだけ、空気が冷えて重くなったような気がした。何も言えずにいると、店員が俺のところに中ジョッキを運んできた。それを見て、真保さんは乾杯とだけ言ってこつっとグラスを当てる。

 俺がどう返そうか考えているうちに、彼女はそう言えばさと切り出して話題は変わってしまった。映画の話、音楽の話、友達の話。

 どんどん酒が進んでいって、いつの間にか丁寧に話すことも忘れて酔いに任せて饒舌になって。真保さんが笑っている姿は、妙にこちらのテンションを上げる。

 そのうちにトイレに行きたくなって、席を外した。用を済ませて鏡に映った赤ら顔の自分は、油で鼻が光っていたりして、ひどく汚い。本当に何でこんなのを真保さんは呼んだのだろう。彼女は何がしたかったのだろう。それだけは、聞いておきたかった。

 席に戻ったら、彼女の二の腕の辺りを軽く叩いて振り向かせてみた。何、という顔をしている彼女は少しだけ目がとろんとしてきている。何、と聞きたいのはこっちなのに。

「真保さん、あのさ」

 最初からずっと何かが引っかかっていた。本当に、そう思ってるのかと。声を大にして反論したかったのかもしれない。

「みんながみんな、いなくなるわけじゃないよ。ずっとあなたの側にいたいと思ってる人だって、ちゃんといると思うんだ」

 真保さんは馬鹿馬鹿しいというように首を振った。

「そういうもん? 私にはよくわかんない。それに、みんなそれぞれやることだってあるのに、私なんかと一緒にいて時間を無駄にしたとか思ってほしくないし。寂しいとか、ずっといてほしいなんてのもさ、結局は私の我がままでしかなくて、うざったい話なんだよ」

 それは、違うと思った。

「少なくとも俺は、あなたがこうやって飲んでくれるのとか、時間の無駄なんて思うどころか嬉しいことだし、あなたの歌をこれからも聴きたいと思う。あなたは自分を価値のない人間だと思ってるかもしんないけど、俺からしたら、めちゃくちゃ価値のある人間だよ」

 真保さんはふふっと笑う。

「椎名君は優しい人かと思ってたら、私のことを価値のある人間だなんて、ちょっと変わった人だったんだね」

「そうかもしれない。俺、ひどい人間だし、欠落してると自分でも思うよ」

 真保さんはこちらを見もせずに黙って聞いているだけで返してくれない。

「でも、あなたが誰かいないかなって思ってこうやって俺を見つけてくれるんなら、来るよ。あなたが寂しいと思って沈んでんなら、俺もちゃんと一緒に同じところまでいって、それから引き上げてあげるよ。上から口だけ出したって、そんなものがどんな助けになるんだって俺は思うから。自分だけは安全な場所から他人を救おうなんて、無理だと思うし。そりゃもちろん、俺はあなたと違って何も持ち合わせちゃいないけど。具体的にどんなことが出来るのかなんて聞かれたってやってみないことには答えようがないけどさ」

 一気にまくし立ててビールをあおる。ちゃんと話すのはこれで二回目なのに、本当に何を言ってるんだか自分でもわからない。けれど止まらなかった。

 真保さんが答えるまでにあいてしまう間が怖くて、思わずそろそろ行きましょうか、なんて言ってしまった。彼女は何も言わずに頷いた。

 店の外に出ると寒さに身震いがした。鳥肌がたった二の腕を無意識にさすってしまう。時計を見ると時刻は十一時過ぎ。

「まだ終電まで時間あるから、送っていきますよ。けっこう飲んだから一人で帰すのも心配だし」

 自分でも言い訳くさい台詞だと感じて、吐き気がする。お決まり過ぎる。

「いや、悪いからいいよ。椎名君こそだいぶ飲んだでしょ。送ろうか?」

「わざわざ電車に乗って? 面白いこと言うね、真保さん。でも今日は俺に送らせてよ。すぐ帰るから」

「やっぱ椎名君は変わってるなあ。私と一緒にいたって何の得もしないのに」

「俺の勝手でしょう。行こう」

 そう言って先に歩きだすと、真保さんは特に何も言わずに付いてきた。タチの悪い振る舞いをしている自覚はあるけれど、今の自分にはそれが限界だった。

 店から真保さんの家までは十分もかからない。酔っ払いの足取りでもあっという間だった。アパートが見えたとき、ぼんやりと次会えるのはいつなんだろう、そもそも次なんてあるんだろうかということが頭の中をぐるぐる回っていた。

 アパートの入り口にたどり着いて、それじゃあと言いかけると、真保さんに鞄の端を掴まれた。

「まだ時間あるなら、もう少しだけ付き合ってくれないかな。実は飲み足りないんだ。うち、ワインとかあるからさ」

「そんなの、断るわけないよ」

 ついこの間来たばかりなのに、今日もまたここに入ることになるとは思わなかった。変なの。

 真保さんはパジャマを持って洗面所に入る。その間俺は一人がけ用の小さなソファに座ってぼおっとしている。

「どうしたんですか。今日も中に通されるとは思わなかった」

 洗面所から顔も出さずに、そう言うなら帰る? と彼女は言った。化粧でも落としているのか、水の流れる音が聞こえる。

「まさか」

「でも、迷惑だったらすぐに帰ってくれていいからね。なんか、さっき椎名君に言われたこと、ちょっとびびっちゃったけど、やっぱり嬉しくってさ」

 洗面所から出てきた真保さんは部屋のパソコンの電源を入れると部屋の光量を落とした。ぼんやりとした明かりの中に、色々なものが埋もれる。

 強い明かりの中にいなくていいと思うと、気が楽になる。できればこのまま眠ってしまいたいくらいだけど。

 真保さんが二脚のグラスをテーブルの上に置いて、ワインを取りに台所に戻る。パジャマ姿になってリラックスした真保さんは、外で見るよりも身近に感じる。肩のラインとか、素足とか、そういうものにとても親しみを持ってしまう。

 グラスにワインが注がれた。既に眠気と酔いで意識がもうろうとしている中に乾杯の言葉が響く。真保さんは起動を終えたパソコンを操作して、音楽を流し始めた。

 いつでも気軽にこの人と飲めて、こうしてぐだぐだできたらいいのに。この部屋には音楽が満ちているし、本が沢山あるし、何より真保さんは柔らかい。

「ねえ椎名君、君は本当に何処へも行かないかな」

 夢現の状態で、真保さんに手を取られたような気がした。

「あなたから離れる理由がないです」

 何かが唇にそっと触れたのを感じた。けれど、意識が保たれていたのはそこまでだった。

 

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