第3話 境界線
バスが目的地に到着すると、そこにはタケルの地元のような石炭の匂いが漂う荒々しい街並みとは全く異なる、世界で最も繁栄する大都市、赤道経済圏のメトロポリスが広がっていた。
見上げれば首が痛くなるほどの超高層ビル群が立ち並び、空には無数の無人輸送機、ドローンがひっきりなしに飛び交い、北の医薬品と南の資源を運んでいる。
しかし、どれだけ街が発展していようと、その中心には必ず『それ』があった。
緯度〇度の赤道直上を走る、目に見えない巨大な境界線。ゼロ・シェルだ。
「さあさあ、南の未来を担う若者たちよ! こちらが世界を分かつ絶対防壁、ゼロ・シェルでございます!」
拡声器を持った胡散臭いツアーガイドの男が、大げさな身振り手振りで案内を始めた。
「皆さんの目の前にある何もない空間。試しに石ころを投げてみてください。ほら、向こう側へ飛んでいくでしょう? 光も音も風も通す。でも、人間だけは決して通さない。これが神の与えた試練の壁です!」
ガイドの説明を聞きながら、生徒たちは恐る恐る何もない空間に手を伸ばし、そして「うおっ!」「硬え!」と声を上げた。目に見えないのに、まるで分厚い鋼鉄の壁があるかのように手がピタリと止まるのだ。タケルは集団の後ろからその様子を見て、(やっぱり壁は存在するんだな)と、壁を実感した。
「そして皆さん! あちらをご覧ください! 赤道直下にそびえ立つ、あのひときわけばけばしいネオンの建物!」
ガイドが指差した先には、赤道を跨ぐようにして建てられた巨大な施設があった。
「あれこそが、赤道直下ならではのアンダーグラウンド文化の極み……北と南にそれぞれ扉がある一室で、ゼロ・シェル越しにお互いの自慰行為を見せ合う施設、通称『ラブGホテル』でございます! 精液を壁越しに発射して女性がお股で受け取り受精する、究極の贅沢空間!」
「うおおおおおっ!!!」
その瞬間、男子高校生たちのボルテージは最高潮に達した。地鳴りのような歓声が上がり、「俺も大人になったら絶対に行く!」「中はどうなってんだ!?」と鼻息を荒くして身を乗り出している。
欲望むき出しで大騒ぎする同級生たちから、タケルは一人だけそっと距離を置いた。
騒乱から少し離れた静かな場所へ歩み寄り、再び目に見えない壁の前に立つ。
タケルは胸ポケットから優愛の手紙を取り出し、そっと鼻を近づけた。北の清潔でノイズのない生活を思わせる、ひどく心地よいフローラルな香り。
(優愛も……この壁の向こう側の、どこかにいるんだよな)
タケルは手紙を握りしめたまま、見えない壁の向こう、北半球の近代的なビル群を見つめた。
この世界では、異性とは決して触れ合えない。それは生まれた時から刷り込まれてきた常識だ。直接異性に触れた経験を持つのは、八十代以上の高齢者のみなのだから。
それでも、手紙を通じて心を通わせる優愛の存在だけは、タケルにとって画面越しのARアイドルよりもずっとリアルで、大切なものになりつつあった。
「会ってみたいな……」
タケルは誰に聞かれるでもなく、ポツリと呟いた。
もしもこの壁がなかったら。彼女の手を直接握ることができたなら、一体どんな感触がするのだろう。
そんな叶うはずのない願いを胸に抱きながら、タケルはゆっくりと、不可視の壁を疎ましく睨んだ。
+++
タケルが透明な壁を見つめていると、不意に背後から鼓膜を破るような歓声が上がった。
「おい、見ろよ! あっちにも修学旅行生がいるぞ!」
友人の一人が、見えない壁の向こう側を指差して絶叫した。タケルが視線を向けると、そこには自分たちと同じくらいの年齢の、十代の少女たちの集団がいた。おそらく彼女たちも、北半球側の学校行事でこの場所を訪れているのだろう。
彼女たちの姿は、汗と土埃と機械油にまみれた南半球の男子生徒たちとは対極にあった。最新のバイオ繊維で作られたであろう、シワ一つない清潔で洗練された制服。透き通るような白い肌と、綺麗に切りそろえられた艶やかな髪。高度に自動化され、泥臭い肉体労働が一切排除された北の社会で育った証だった。
少女たちもこちらに気づいたようで、壁の向こう側でキャアキャアと黄色い声を上げている。音や光はゼロ・シェルを通過するため、彼女たちの弾むような声はタケルの耳にもはっきりと届いていた。
「ねえ見て、南の男の人たちよ! 本物の高校生!」
「なんか、すごくガッチリしてる……それに、ちょっと野蛮っていうか、脂っこい感じがするね」
「でも、ARで見るよりずっと迫力ある! 筋肉すごっ!」
物珍しそうにこちらを観察する北の女子たちに対し、南の男子たちはすでに理性を失いかけていた。
「うおおお! 生身の女子高生だ! すげえいい匂いがしそう!」
「おい、誰かアピールしろよ! 俺たちの男らしさを見せつけるんだ!」
そんな中、クラスで一番のお調子者である友人が、意気揚々と壁の最前列へと飛び出した。彼は満面の笑みを浮かべながら、壁の向こうにいる一人の女子生徒に向かって、大きく手を振りかざした。ジェスチャーでハイタッチを要求したのだ。
女子生徒は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにクスリと悪戯っぽく微笑み、友人の手のひらに合わせるようにして自分の小さな手を壁へと押し当てた。
ドンッ、という鈍い音が響く。
二人の手は、不可視の絶対防壁であるゼロ・シェルに阻まれ、空中でピタリと止まった。物理的な接触は一切ない。それでも、ゼロセンチの距離で異性の手のひらと重なり合った友人は「うひょおおおっ!」と奇声を上げて歓喜し、女子生徒も笑顔で両者いい雰囲気を楽しんでいる。
「すげえ! 俺、今、北の女の子とハイタッチしたぞ! 感触はただの硬い壁だけど、マジで最高にエモいぜ!」
友人が鼻息荒く自慢するのを見て、他の男子たちも我先にと壁に群がり始めた。
騒ぎの輪から少し離れていたタケルは、自分の中の好奇心が抑えきれなくなるのを感じていた。
(ハイタッチ、か……)
タケルは胸ポケットに入った優愛からの手紙越しに、自分の鼓動が早くなるのを感じた。手紙の文字だけで恋い焦がれていた、見知らぬ異性という存在。その実物が、たった数センチ先で笑っているのだ。
タケルは無意識のうちに足を踏み出し、誰もいない壁のスペースの前に立った。
目の前には、少しおとなしそうな、ボブカットの女子生徒が立っていた。彼女はタケルの健康的に日焼けした精悍な顔つきと、がっしりとした体格を見上げ、ほんの少しだけ頬を赤らめる。
タケルはゆっくりと右手を持ち上げた。
初めて壁に触れるタケルも、友人の真似をしてハイタッチのようにお互いの手を合わせようとしてみる。
女子生徒もコクリと頷き、タケルの大きな手に合わせるように、白くて華奢な手を伸ばしてきた。
タケルの指先が、不可視の壁に触れる。
その瞬間だった。
「パチン!」




