第2話 修学旅行へ
十五歳の芽衣は、感情豊かな愛らしい顔が、瞬く間にゆでダコのように真っ赤に染まる。
『ば、バカ兄貴! なんで見んのよ! 目ぇ塞ぎなさいよこの変態!』
芽衣が慌てて胸元を隠しながら、自分のミスを完全にタケルのせいにして怒鳴り散らす。
「お前が勝手に繋いできたんだろ! 見たくて見てるわけじゃねえよ! 大体、胸なんて全然ねえじゃねえか!」
タケルも反射的に言い返す。いつも強気で憎まれ口を叩く妹との、仲のいい笑いながらの兄弟喧嘩だ。
『最低! デリカシー皆無! 南の野蛮人! あんたなんか一生ドローンと喋ってればいいのよ!』
「そっちの不注意だろ! AR越しじゃ触れられもしないのに騒ぎすぎなんだよ!」
『ああもう、朝からうるさいわね二人とも』
玲子がクスリと笑いながら、芽衣の通信カメラをそっとオフにした。
『ほら、芽衣は早く服を着てきなさい。タケルも、女の子に対してそんな言い方しないの。いつまでも子供じゃないんだから』
「……悪かったよ」
タケルは口を尖らせながら、脂っこい肉の塊を口に放り込んだ。
画面越しの家族。温かい会話。
触れ合うことは絶対にできないと分かっていても、この絆だけは確かなものだとタケルは信じていた。
「そういえばタケル」
肉を噛みちぎる隼人が、ふと思い出したように口を開いた。
「来週から、お前の学校で赤道直下のゼロ・シェルへの修学旅行があるんだよな。社会科見学だとか抜かして、壁越しに北の女性を見る観光ツアーに行くんだろ」
その言葉に、タケルの手がピタリと止まった。
「ああ。クラスの奴らは、生身の女が見られるって異常に興奮してるよ」
『楽しみね、タケル。運が良ければ、壁の先の女の子とおしゃべりできるかもしれないわよ』
玲子がAR越しにウインクをする。
「……おしゃべりって、握手もできないんじゃどうせその時だけだろ」
タケルはそっけなく返しつつも、胸の奥底で小さな高鳴りを感じていた。
触れられない壁。
だが、その向こう側には、紙とペンを通じてずっと心を交わし続けている同い年の少女、葉寺優愛がいるのだ。
学校の授業で異性との接し方を習うカリキュラムがあり、ランダムに選ばれた北の生徒である優愛に手紙を書いたのが始まりだった。多くの生徒が一度きりで辞める中、優愛の優しい文字や北の清潔な生活に興味を持ち、タケルは文通を続けている。
(……ふとした瞬間に吹く風や、夕暮れの空の色に、いつもあなたの面影を探してしまいます。言葉にすれば指の間から零れてしまいそうな、この淡い光のような想いを、今はただ手紙に託します)
最後に愛情を伝える文学的な文で締めくくられていた、昨日届いたばかりの手紙。そこから漂ってきた微かな『女の子の匂い』が、タケルの脳裏に蘇る。リアルな女性との関わりに全く免疫がないタケルは、その匂いだけでひどくドキドキしてしまったのだ。
もし、あの壁の向こうに行けたなら。
そんな叶うはずのない妄想を振り払うように、タケルは残りの肉を乱暴に胃袋へと流し込んだ。
+++
数日後。
南半球を縦断する巨大な装甲バスの車内は、むさ苦しい熱気と獣のような雄叫びに包まれていた。
「うおおおおっ! ついに、ついに生身の女が見られるぞおおおっ!」
「画面越しじゃない! ARじゃない! 本物の、動く北の女だあああ!」
御手宮タケルの通う高校の男子生徒たちは、窓ガラスにへばりつくようにして外の景色を凝視し、口々に興奮を爆発させている。今日から待ちに待った修学旅行だ。目的地は、赤道直下にそびえ立つ不可視の壁『ゼロ・シェル』。名目上は社会科見学観光ツアーだが、血気盛んな十七歳の男子高校生たちにとって、そんな建前はどうでもよかった。
彼らの頭の中はただ一つ。この世界を隔てる壁の向こう側にいる、未知の生き物『女性』をゼロメートルの距離で拝むことである。
「おいタケル! お前もちょっとはテンション上げろよ! 一生に一度の修学旅行だぞ!」
隣の席で鼻息を荒くしている悪友が、バンバンとタケルの肩を叩いてきた。
「気が早いっての。お前ら、ヨダレを拭けって」
タケルは苦笑しながら、友人の手を振り払った。がっしりとした重い体を座席に深く沈め、呆れたようにため息をつく。
「だってよぉ! 俺たち南半球には一億人の男しかいねえんだぜ? でも壁の向こうの北半球には、十六億人もの女の子がいるんだ! しかも、運が良ければ同い年の女子が俺たちと同じように修学旅行に来ているかもよ!」
「生身の女子ったって触れられないなら、AR通信で見るのと同じじゃないか?」
タケルは素っ気なく返した。五十年前に起きた『赤道事変』以来、人間だけが絶対に通り抜けられない物理特性を持つゼロ・シェルによって、世界は完全に分断されている。電波や光は通すが、人間だけは弾き返される。それがこの世界の絶対的な理だった。
「お前はロマンってやつが分かってねえな! 同じ空気を吸って、目の前に実物がいるって事実が重要なんだよ!」
友人の熱弁を聞き流しながら、タケルはそっと自分の胸ポケットに触れた。
そこには、北半球に住む同い年の少女、葉寺優愛から届いたばかりの手紙が入っている。学校の授業でランダムに選ばれた異性に手紙を書くというカリキュラムで出会い、今もずっと文通を続けている大切な相手だ。
(……窓辺に差し込む日差しが、今の私の気持ちに似ていて、なんだかあなたに会いたくなりました。私の世界の中心には、いつもあなたがいます。)
紙とペンというアナログな手段で紡がれた、清楚で透明感のある彼女の言葉。そして、手紙から微かに漂ってきた『女の子の匂い』。タケルはその匂いを思い出すだけで、胸の奥がギュッと締め付けられるような、名状しがたいドキドキを感じていた。




