第1話 南の朝
太陽が容赦なく大地を焦がす、旧インドネシアの日本人街。
熱帯特有のまとわりつくような湿気と熱風のなか、御手宮タケルはけたたましく鳴り響く旧式のアラームを叩き切って、軋むベッドから身を起こした。
「あー……今日も暑っついな……」
寝ぼけ眼をこすりながら大きく伸びをする。健康的に日焼けした肌と、厚い胸板、そして引き締まった腹筋。南半球特有のワイルドな環境と、毎日のように食らう高カロリーなジャンクフードによって作り上げられた、十七歳とは思えないタフで筋肉質な体格だ。身長はすでに百八十センチに達しており、同年代のなかでも一際目を引く体格をしていた。
乱れた髪をかき上げながら窓を開け放つと、むせ返るような重油の匂いとともに、街の喧騒がドッと部屋に流れ込んできた。
眼下に広がるのは、むさ苦しくもエネルギーに満ち溢れた、男しかいない南半球の日常だ。
通りの向こう側には、煌々としたけばけばしいネオンサインを掲げた国営の『無料搾精ステーション』が建っている。朝の七時だというのに、作業着姿の屈強な男たちがすでに長蛇の列を作っていた。
ステーションの入り口にはデカデカと『君の一扱き一搾りが、人類の未来を救う!』という標語が掲げられている。この世界では、南の男たちが北へ精子を送ることでしか、人類の命脈を保つことができないのだ。射精された精子は瞬時に凍結され、北半球の特定の人へ向けて送られたり、精子バンクへと保管されたりする。ステーション内では五十年以前の旧時代のポルノ映像が無料で見放題となっており、それを目当てに若者から老人までが血眼になって通いつめるのが、この街の朝の風物詩であった。
列に並ぶ男たちが下品な冗談を飛ばして笑い合っているのを横目に、タケルはふと視線を上へと向けた。
高層ビルの壁面に設置された巨大ビジョンに、突然ノイズが走り、赤道直下の巨大コンサートホール『ツイン・シェル・アリーナ』をバックに世界のトップアイドル、星波キララの姿が映し出されたのだ。
『北のみんなー! そして南の野郎どもー! 今日も元気に生きてるかー!?』
遠くからでも目を引く華やかなオーラと、カリスマ性に満ちた魅惑的なルックス。画面の向こうで彼女が熱烈なウインクと投げキッスを放つたび、街を歩いていた男たちが足を止め、地鳴りのような歓声を上げる。
今から五十年前、全地球規模で発生した謎の現象『赤道事変』。北半球では男性全員が、南半球では女性全員が同時に絶命するという凄惨な出来事によって、世界は完全に分断された。そして緯度〇度の赤道直上には、人間だけが絶対に通り抜けられない不可視の壁『ゼロ・シェル』が出現したのだ。
現在、北半球の女性人口は約十六億人。対して南半球の男性人口は約一億人。男女比は一対十六という、あまりにも歪な世界である。
タケルたち南の若者にとって、女とは決して直接触れることのできない、画面の向こう側にのみ存在する神聖な生き物だった。
「朝から元気なこった」
タケルはアイドルへの狂乱を一瞥したあと、机の上に置かれた無人輸送機、汎用ドローンの整備用パーツを手にとった。指先が油で汚れるのも気にせず、複雑な配線を弄る。
タケルの夢は、南の資源と北の医薬品を交換する自動輸送ルートを支え、分断された世界を裏方として繋ぐドローン整備士になることだった。
「タケルー! いつまで寝ぼけてるんだ、飯冷めっぞ!」
一階から、父親である御手宮英明の野太い声が響く。
「今行く!」
タケルはパーツを置き、急いで階段を駆け下りた。
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ダイニングルームに入ると、すでにテーブルには暴力的なまでに大量の肉料理が並べられていた。分厚いステーキに、山盛りのフライドポテト。南半球特有の、脂が滴るような高カロリーな手料理だ。
テーブルの奥では、八十一歳になる祖父の御手宮隼人が、すでに豪快に肉を頬張っていた。深く刻まれたシワと、達観した鋭くも穏やかな眼差しを持つ彼は、激動の赤道事変を生き抜き、事故処理や大量の死体処理などの過酷な経験を乗り越えてきた歴史の語り部だ。事変前の男女が直接触れ合えた世界を知る数少ない生き証人でもある。
「遅いぞ、タケル。今日は北の母さんたちと繋ぐ日だろうが。肉が硬くなる前に食っちまえ」
英明が目尻にシワを寄せながら、少し不器用な愛情を込めてタケルの肩をポンと叩いた。四十二歳の彼は、南半球の労働の中心である第一次産業の現場責任者として、日々肉体を駆使して働いている。
「悪ぃ、ちょっとドローンのパーツ弄っててさ」
タケルが席につくと同時に、ダイニングテーブルの中央に設置されたARプロジェクターが軽快な起動音を鳴らした。
光の粒子が空中で収束し、テーブルの向かい側に、まるでそこに実在しているかのように一人の女性の姿が立体的に浮かび上がる。
タケルの母である御手宮玲子だ。
両親は事実婚の契約を結んでおり、タケルは国の保育システムを利用せず、英明に引き取られてこの南の家庭で育った。こうしてAR通信を通じて食卓を囲むのが、御手宮家の当たり前の日常だった。
『おはよう、英明さん、お義父さん、タケル』
玲子が穏やかな目元を和ませて微笑む。三十八歳の彼女は高度自動化システムの維持管理者として、北半球のインフラを監視するエリートだ。北の食卓に並んでいるのは、南の脂っこい肉料理とは正反対の、効率的で清潔なバイオ培養食だった。
「よう、おはよう玲子。今日も元気そうだな。そっちの天気はどうだ?」
英明が少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに尋ねる。
その直後、玲子の隣の空間で激しいノイズが走り、妹の芽衣の姿がパッと映し出された。
『おはよー、お母さ……きゃあああああっ!?』
芽衣の悲鳴がダイニングルームに響き渡る。
投影された芽衣は、なんとまだ着替えの途中で、際どい下着姿のままAR接続エリアに入り込んでしまっていたのだ。




