むしし
長い長い坂道を僕は歩いている。学校へ行くためだ。
一直線にわたるこの坂道を、僕はなんど歩いたのだろう。先を見ても高校は見えない。あまりの暑さで道の先に水溜りがあるような、逃げ水という現象がおきている。
空はかんかん照りだった。蝉の声。入道雲。まさに夏。
道脇にたつ街路樹が小さな木陰を作るけれど、そんなもので暑さが緩和されるわけでもない。さらにこの坂である。僕は毎年この時期になると、学校に着いたときにはワイシャツが汗でびっちょりになっていた。今もおでこに汗が浮かんでいるのがわかる。
一歩一歩、足を前に動かす。
ふと、自分をすっぽりと影が囲った。街路樹ではない。飛行機だろうか。それにしてはずっと僕の上を……。
目を細くしながら空の方向に顔を向けた。案外に僕の近くだった。上空1メートルほどの位置に、それはあった。ムシだ……。厄介なものに憑かれてしまったようだ。羽を生やした少女のような、いや、見た目だけで言えばそれは少女であった。表情はなかった。無表情にじっと僕を見つめている。どこかで見たような、いや、しかしそんなことがあるはずはない。
小さなため息をついて僕は歩を進めた。しかし、考えようにはいい日よけになってくれた。無論暑さは和らがないし、なぜかムシの視線が気になってならなかったが。
「へぇ、ずいぶんと好かれてんじゃん」
高校に着くと早速、廊下で古林くんが話しかけてくる。友達の少ない僕に話しかけてくれるのはこいつか、あとはカナくらいしかいない。小さなグループを作っているように周りからは見られているのか、それとも友達がいない者同士で傷を舐め合う即興グループとして見られているのか。正直興味はなかった。古林くんの隣にはカナがいた。どうやら古林くんと話し込んでいたらしかった。
「おはよう」
僕が挨拶をするが、それに対して誰も返答を返してくれなかった。
「なにそれ」
ぶすっとした表情でカナが問いかける。
「ムシ」
「……見りゃわかるよ。なによそれ」
「だからムシだって」
「……ああもう!」
カナが古林くんのほうをちらと見た。なにかあせっているようだった。
「なんであんたこんなの連れてんのよ?」
カナは僕を睨んで放そうとしない。古林くんに助けを頼もうと目で合図の送信を試みるも、古林くんは古林くんで、なにやら悲しそうな表情をしていた。
なんで連れているか、というのは正直僕もわからないのだ。突然彼女、いやムシが上空にやってきて、そのまま僕の上に居座っている。
「わからないんだよ。僕も。まぁ悪い気配はしないから、仲よくしてやってくれよ」
「仲よく!? は?」
「まぁまぁまぁまぁ」
古林くんがカナを落ち着かせるそぶりを見せる。
「こんな廊下の真ん中で朝っぱらから痴話げんかなんてされたらかまわないぜ」
やれやれ、と古林くんはわざとらしく腕を振った。
「だ、誰が痴話げんかだ!」
と、学校中にカナの声が響いた。
授業開始のチャイムがなる。物理の時間である。担当教師の木村はチャイムに居合わせたことはない。今日も遅れて教室に入ってきた。
「起立!」
日直の声と同時に、生徒が立ち上がる。木村は教壇に立ち、こちらを向いて、さらに目線はムシにいった。
「ちゅうも……」
「待て」
木村が日直の号令を制止させた。
「なんだ、そのムシは」
「……懐かれちゃって」
僕が連れてきたんじゃない。勝手についてきたのだ。
「それじゃお前の後ろの人の迷惑だろうが」
「僕のムシってわけじゃないんですが」
「お前しかなんとかできんだろう! 四の五の言わずにさっさと教室から出してきなさい!」
教室は静かだった。みんなが僕の方向を横眼で見ているようで、視線が痛かった。仕方なしに僕は教室を出た。入口を閉めると、「礼!」の合図が聞こえた。なにかムシをつなげておける紐のようなものが、あればよかったのだが、学校の廊下にそんなものが都合よく落ちているわけもない。走ってもムシはぴったり付いてくるし、振り切るすべもない。さぁどうするか。……今日の授業は出られないかもしれない。歩を屋上へと進めた。道中誰にも出会わなかった。
近年の学校では安全のためとかで屋上の開閉はしていない。この学校もその例外ではない。ではなぜ僕が屋上を出入りが可能かといえば、僕は天体気象部に入っているためだ。部、といっても部員は現在僕しかいない。僕が入る前までは部員は一人もいなかった。そんな部活を僕は探していたのだ。別に夜空の星々が好きなロマンチストなわけではない。
こんな広い空間を学生が使えないというのも、なんとも酷なことであろう。むろん僕が一人占めできるのはうれしいことだったが。
屋上の真ん中で大の字に寝る。まさに特権だった。いつもそうやって空の青さだとか、雲の流れだとか、そんなものをぼんやりと眺めていたのだ。が、今日の視線の先には、ムシがいるのだった。相変わらず表情は変わっていなかった。そして僕のほうをじっと見つめている。不気味ではなかった。しかもなぜか、彼女、いやムシの顔に懐かしさというか、よくわからない感情がこみあげていた。
「なぁ、なんか話せないのか」
ムシに問いかけるが、なにも反応を見せようとしなかった。
しばらくそうしていた。じっと見つめてくるムシを、同じようにじっと見つめた。なにかアクションが見てみたかった。しかし何分なっても変わらない。待っていても無駄かと、僕はやはり眠ることにした。
「おい、おきろ」
目を覚ますとムシ、ではなく、カナの顔が近くにあった。
「どうしてここ……」
「鍵あけっぱ」
「ぐあ」
別に入られたら悪いわけでもないけど、一応がっかりしておく。
古林くんは「あいかわらず好きだねー」といって腕を伸ばしたりしている。そのまま校庭を眺めながらフェンスをつたって歩いていった。
「ねぇ、あんた」
カナが突然ひそひそと話し始める。
「なんだよ」
「……ムシとなんかしてた?」
「……ハァ?」
「いや、なんもしてないならいいのよ……」
「するわけねーだろーが」
「そうよね……」
だが、カナは浮かばぬ顔をし続けていた。
「なんだよ」
「いやね見間違いだろうと思うんだけど」
耳元で手をかざしながら、誰にも聞かれぬように言った。
「私たちがあんた見たとき、ムシがあんたの横でなんかやってたように見えたんだ」「……そんな馬鹿な」
「うん、だから、たぶん見間違い」
ムシはずっと浮かんでいたはずだ。だってそうだろう。最初から最後まで微動だにせずにじっと浮かびながらこちらを見ていたのだから。
すくっと立ち上がりカナは、古林くんに声をかける。
「おい、帰るよ」
おう、と遠くから古林くんの返事が聞こえる。
「あんたはどうすんの?」
「あぁ、今日はいいや。もう帰るよ、こいつがいたら、みんな迷惑だろうしな」
「そ……。気をつけてね」
「うん」
そう言って、僕らは別れた。しかし、何に気をつけろと言うのか。僕はムシのほうを見上げた。相変わらず同じ格好。一体何をしたいのか。まさか本当に僕の隙を狙ってなにかしようとしているのか? だが、彼女には、なぜか安心感みたいものを感じていた。
長い長い坂道を、僕は下っていた。そして、屋上で見た夢について考えていた。たしかあれは、昔の思い出だったように思う。しかし思い出そう思いだそうと、記憶の糸を手繰れば手繰るほど、本質から遠ざかっていくような感じがした。断続的な、少女の面影が見えた。ピンクのワンピースをきて、麦わら帽子を被って。だけど、それしか思い出せなかったのだ。
「あんた……」
家に帰ると早速母親がリアクションを見せてくれる。
「ムシ」
「違う! いや、それもだけど……」
僕は階段を上り、さっさと自分の部屋にいってしまおうとする。ちょっと待ちなさい、といいながら母親が僕の手首をがっとつかんだ。
「なんだよ」
「……」
母親が僕をじっと見た。久しぶりに見る恐ろしい形相である。たかがムシだろう、みんなそこまで驚くことはないだろうに。
「もういい?」
僕は母親のつかむ手を振り切り、階段を上る。母親は何も言ってこなかった。
部屋に入ったところで、特に何もすることがないのに気づく。ギターを弾こうか、漫画を読もうか、勉強をしようか。考えておいて、最後のはないな、と思った。とりあえずごろんと横になる。ムシをちら、とみた。何を考えているのだろうか。彼女はつまらなくないのだろうか。
「おい」
また話しかけてみる。しかしやはり反応はなかった。
「ゆうはん!」
どこの萌えアニメだ! と突っ込みをいれようかと考えような妹の声に起こされる。……結局また寝ていた。
テーブルにはすでに、家族全員が座ってた。僕が座ると、こちらも向かずにさぁ食べようかと父親が言って、すぐに食べ始めた。テーブルを凝視していた。夕飯はコロッケだった。ムシのことは完全に無視だった。
「食べたらお風呂はいっちゃってね」
母親が、コロッケに視線を送りながら言った。雰囲気で僕にいっているのだと分かった。
コロッケを一口ほおばる。近くの肉屋のコロッケは、割と御近所で評判だった。
脱衣所で服を脱ぐ。彼女に見られていると思うと、ちょっと恥ずかしかった。彼女は服を脱がなかった。風呂はどうするだろうか。
風呂場に入って彼女をみると、全裸になっていた。目を見開いた。全裸を見るのは母親と、妹と、その後の三人目であった。つっ、と目をそらす。ガラスにうつる自分の顔が真っ赤だった。反応がないとはいえ、なにか、見ているというのは恥ずかしかった。一体このムシは何がしたいのか。湯船に入って、ちらと彼女を見た。今度はじっと見つめてみた。触ってみたかった。あまりに美しかったのだ。お湯の中の僕のアレは、完全にかたくなっていた。
歯磨きをしていると、彼女の調子がおかしいのに気づいた。寿命だろうか。ムシの一生は短いと聞く。
自分の部屋にと向かうも、彼女のスピードは明らかに遅くなっていた。出会ったときはぴったりとくっついてきたのだ。振り返ると彼女の飛んでいる姿を見ることができるほどだった。
布団を被り、彼女のほうを見る。飛んでいる高さが明らかに低くなっていた。姿勢も悪かった。手がぶらんと下に垂れさがっている。心配だった。見るからにつらそうなのだ。気にせぬようにと僕は目をつむろうとするも、眠ることはできなかった。昼間寝すぎたのだろうか、それとも彼女が心配なのか。
僕は外の散歩に出ることにした。眠れぬ夜は、昔からそうしていた。
玄関を少し出たところで振り返ると、彼女がぐったりとしながら僕の後をついてきた。僕が立ち止っていると、彼女がゆっくり近づいて、僕の背中にコツンと当たった。彼女自体は気づいていないようだった。僕はそのまま彼女をおんぶして、散歩をすることにした。
彼女は驚くほどに軽かった。背中に当たる胸のふくらみがなければ、彼女を背中におぶさっているということなど忘れてしまいそうであった。
学校の反対側の道を進むと、ちょっと緑の茂る公園があって、そこから見える星空が格別なのだ。
彼女は一体なんなのか。なぜ僕にとりついたのだろうか。公園に至るまで、ずっとそのことを考えていた。答えはやはり出なかった。
開けた場所に出る。空には満点の星空。星そのものは好きではなかった。それらが作り出す、空の景色が好きだった。
「よかった……」
誰かと思った。背中のムシだった。
「……もう一度きみと、この星空が見れて、よかった」
「……」
気づくと、僕の手は彼女の足を持っていなかった。背中に当たる胸のふくらみの感触はなくなっていた。僕の目から一筋の涙が流れた。




