夕暮れはパンのにおい
ある日の放課後。
窓の外は、いつのまにか本降りの雨になっていた。グレーに滲んだ校庭、ぽつぽつと弾ける雨粒。
初夏の匂いに、冷たさが混じっている。ほのかは教室の窓から外を眺めながら、小さくため息をついた。
「うわぁ……けっこう降ってるなぁ……」
カバンに折りたたみ傘を入れてきたことを思い出して、ひと安心する。
と、そのとき。隣の席ではトーストくんが珍しく愕然としていた。パンの表情が、もう完全に分かるようになっているほのかであった。
「……やべえ」
「え、どうしたの?」
ほのかが尋ねると、トーストくんは、深刻そうに答えた。
「傘、ない」
トーストくんは、湿気に弱い。濡れ厳禁。だから傘だけは忘れてはいけないと、いつも気を付けていたが。忘れる時は忘れるのが人間、いや食パンだ。
「じゃ、じゃあ……一緒に入る?」
自分でもびっくりするくらい、小さな声だった。トーストくんはホッとしたように、あの優しい空気を纏って笑った。
「助かる」
──それだけで、ほのかの心臓は、ありえないくらい跳ねた。
傘を開いて、校門を出る。小さな折りたたみ傘の下、ほのかとトーストくんは、ぎゅっと距離を縮めて歩いていた。ぽつぽつ、と傘に落ちる雨の音。そして、微かに香る、バターと小麦の匂い。
(ち、近い……!!)
ほのかは顔を真っ赤にしながら、必死に歩を進めた。思えば、ここまで近いのは初めてだ。いや小脇に抱えたことはあったけど。
「ほのか」
すぐ隣で、トーストくんが低く呼びかける。
「……ん?」
「いつもさ、ありがとう」
ふわりと、やさしい声。その言葉に、もう、だめだった。顔どころか、耳まで真っ赤になる。
「こちらこそ、いつもお世話になってます……!」
思わず、わけのわからないことを叫んでしまう。でもトーストくんは、照れ臭そうに笑った。
「ふふ。これからも、よろしくな」
ああ、ずるい。そんなこと言われたら、ずっと一緒に居たくなっちゃうじゃん。
学校帰り、いつもトーストくんとは、ほのかの家の近くで別れる。でも、今日は駅近くの朝倉家まで、ほのかはトーストくんを送っていくことした。
「悪いな」
「悪くないよ、トーストくんがふやけちゃったら、私が困るもん」
隣でふよふよと浮いている食パンの、焼き色がちょっと濃くなっている。
雨のしとしとという音だけをBGMに、二人はそれから黙って、しかし幸せな空気を纏って、駅前まで歩いていくのだった。
町のパン職人である朝倉夫妻の所に、一つの命が産まれたのは、今から16年前の事であった。
「あなた、赤ちゃんの泣き声がしないかしら?」
「本当だ。どこからだろう?」
声の出どころは、丹精込めて焼き上げた一斤の食パン。そのパンは精いっぱいに声を上げ、自身の存在を訴えていたのだ。
「この子は長くは生きられません。パンの賞味期限にはカビてしまうでしょう」
「そんな!」
医師から告げられた内容は絶望的だったが、朝倉夫妻はその食パンをうんと可愛がる事を諦めなかった。いつも乾燥剤を替えてくれた母。少しでもカビていないか、まめに拡大鏡で確認してくれた父。そんな両親の姿をトーストは覚えている。
父母の献身のおかげか、トーストはすくすくと育ち、ついには高校生となった。最初の高校は周辺のハトの多さから、転校を余儀なくされてしまうトラブルもあった。しかし転校先では素敵な彼女に恵まれ、パンと見るや襲ってきていたハト達にさえ、今では感謝している。
雨の夕暮れ。灰色の空がうっすらと橙に染まり、駅前の通りは様々な看板が輝き出す。
ほのかとトーストくんは、駅前通りの、間口の小さなパン屋さんの前で立ち止まった。温かな電灯の光が漏れ、店先からは焼きたてパンのいい香りがふわふわと流れてきている。
「俺の、親父とお袋の店だ」
「ここがそうなんだね!」
ああそっかぁと頷くほのかに、トーストくんは、ふわっと笑った。
朝倉ベーカリー。確かに、トーストくんの名字を冠したパン屋さんだ。過去、来たことはあったし、もっと早く気が付いても良かった。パン屋の息子とも聞いてたのに、何で気付かなかったんだろう?かっこいいトーストくんを目で追いかけるだけで忙しかったからかなぁ……。
「俺は、ここの厨房で産まれたんだ」
言葉には、隠しきれない誇らしさと、少しだけ照れくさそうな響きが混じっていた。店のガラス越しに、中で働く二人の人影が見えた。優しそうな中年の夫婦。笑い合いながら、丁寧にパンを並べている。
「そっか……トーストくんの親御さんなんだね」
胸がじんわりとあたたかくなるのを感じながら、ほのかはそっと言った。
「会っていく?」
トーストの問いかけに、ほのかはびくっとした。
「え、え、でも……心の準備が……!」
「いつものほのかで大丈夫だよ。親父たち、きっと喜ぶ」
さりげなく、それでいて、どこまでも自然な声。ドクン、と心臓が跳ねた。顔が熱くなるのを感じながら、ほのかは小さくうなずいた。
トーストは満足そうに頷くと、ふわっと店のドアを押した。小さなベルが、からん、ころん、と優しく鳴る。
「ただいま」
「おかえり、トースト!」
奥から、ほがらかな声が飛んできた。振り向いたパン職人夫妻の顔が、ぱっと明るくなる。
「まあ、湿気ってるじゃないか!大丈夫かい?」
「おや、学校のお友達かな?」
トーストは、少し照れたように──でも胸を張るように──言った。
「……ああ。俺の、大事な彼女だ」
トーストくんの『彼女』発言にキョドりつつ、ほのかは慌てて頭を下げた。
「あ、あのっ、朝霧ほのかといいますっ!トーストくんに、いろいろ助けてもらってて……!」
深々とお辞儀をすると、夫妻は顔をほころばせた。
「おや、トーストにも、こんな可愛い彼女ができたのか!」
「うれしいわ。ありがとう、ほのかちゃん」
にこにこと笑う夫妻。あたたかな空気が、店いっぱいに広がった。
「さ、トースト。ほのかちゃん。できたてのパン、食べていきなさい!」
「ふやけやすい息子を、うちまで送ってくれたそうだね。ぜひ、お礼をさせとくれ!」
夫妻の言葉に、トーストは照れくさそうに笑って、ほのかに向き直った。
「……食ってけよ、ほのか。うちの、最高のパン」
ほのかも、ふわっと笑った。
「うんっ!」
ふたり並んで、あたたかなパンの香りに包まれながら、世界でいちばんおいしい夕暮れを味わったのだった。




