ほのかと食パンの授業
ある日転校生としてやってきた、謎の食パン。イケメンと評するのがしっくりと来る、一斤のパン。
彼、朝倉トーストくんは、一枚切りサイズの逞しい厚切りトーストである。
通学路でぶつかってきた少女、朝霧ほのか。その身体をポフンと受け止めた時、ほのかはトーストくんに恋をしていた。
トーストくんは何をやってもお見事で、朗々と国語の教科書を読み上げ、数学の証明を黒板にスラスラと書いてみせた。
体育のサッカーでは見事なハットトリックを決め、学校中の女子の黄色い歓声を集めたが。トーストくんの活躍ばかりに眼を瞠る周囲とは違い、ボールで凹んでしまった四角いフォルムを、ほのかは真っ先に心配してくれた。
食パンを小脇に抱えて保健室に駆け込むほのかを、保健の先生は胡乱に見つめていたが。トーストくんも、いつも優しいほのかの事が、結構好きになっていた。
「先生!朝倉くんが打撲なんです!」
「そ、それより朝霧さん……」
「あれ?朝倉くん、いつもより焦げてない?」
トーストくんは照れた時に、焼き色がちょっと濃くなってしまうのだ。その違いはまだほのかにしか分からない。
小脇に抱えた食パンと謎の会話を始めた女生徒に、保健の先生は大層戦慄していた。
トーストくんは全く普通の男子高校生であった。とっても優しくて、でもちょっと生意気で、いたずらっぽく笑う。そして意外と照れ屋さん。
「ほのか」
「トーストくん!」
通学路はいつも一緒。お弁当もいつも一緒。彼といるととても楽しくて、ほのかは彼が食パンである事を半ば忘れかけてさえいた。
そんなある日。家庭科の調理実習があった。
三時間目の家庭科室。カウンターの上に並べられた材料と、まぶしいほどの白いエプロン。ほのかは、緊張で手が震えていた。
「えっ、パン作るの!? 本人目の前にいるのに!?」
眼の前の小麦粉とトーストくんを、思わず交互に見てしまうほのか。家庭科の先生である坂下先生は、楽しげに説明していく。
「今日は、グループで協力して『オリジナルパン』を焼いてもらいまーす。生地からこねて、焼いて、盛り付けまで自由!」
(……これ、めっちゃメンタル試されるやつじゃん!!)
心の中で悲鳴をあげながら、ふと横を見れば──
「ふふ、面白そうだな」
朝倉トーストは、いつもの通りふわっと自然体。いや、パン作りの授業で自然体な食パンって、どういうこと!?
「ほのか、お前、生地こねたことあるか?」
「な、ないけど……やったことないけど……がんばる……」
ぎこちない返事に、トーストはやさしく笑った(ような気がした)。
「大丈夫だ。俺にまかせとけ。──パン屋の息子だからな」
ドヤ顔っぽいその声に、つい噴き出しそうになる。
(ちょっとだけ、楽しそうかも……)
そして始まったパン作り。エプロンを身に着け、手に粉をまぶして、生地をこねる。トーストくんはというと──
「よっと。……このくらいだな」
とても手慣れた(というか手がないのに器用すぎる)動きで、さらさらと小麦粉を量り、ぬるま湯と合わせ、ボウルの中で生地をまとめていく。
「えっ、パンのプロ!?」
「……まあ、自分のルーツみたいなもんだし?」
涼しい声で答えるトーストくんに、周囲の女子たちが騒ぎ出す。
「キャー!朝倉くん、かっこよすぎ!」
「まじでプロだよ〜!」
「自分のルーツって……尊い……」
ほのかは、そっと自分の手元の粘土のような生地を見た。
(べたべた……全然まとまってない……)
すると、彼がすっと近づいてきた。そして、自分の端っこ──つまり「耳」の部分を、ふんわりと彼女の手の上に重ねた。
「……大丈夫。コツ、教えてやるよ」
まるで魔法みたいだった。彼に教えられる通りに力を入れて、生地を押して、折って──繰り返しているうちに、不思議と生地がやわらかく、まるくまとまっていった。
(あったかい……なんか……あったかいよ……)
その瞬間、ほのかの心の中に、ふわっと何かが膨らんだ。──まるでパンの発酵みたいに。
「ほのか。焼き上がったら、交換しようぜ。お前のパンと、俺のパン」
「うん……!楽しみにしてる!」
その日の家庭科室には、焼けていくパンの甘い香りが漂っていた。焼き立てのパンよりも熱くなった頬をどうにか冷まそうと、ほのかは挙動不審になっていたが。トーストくんも、やはり普段よりもこんがりとした色になっていたのだった。