新学期!ほのかと運命の食パン
光が柔らかく差し込む通学路を、少女朝霧ほのかは全力疾走していた。
「うわぁぁぁ、完全に寝坊したぁぁ!!」
風光る、4月の朝。高校2年生の新学期。昨日までの春休み気分が抜けず、ほのかは盛大に寝坊をしてしまった。
「キャー遅刻遅刻!間に合え!間に合え……ッ!」
紺色のスカートが風をはらみ、可愛らしいスクールバッグが跳ねる。曲がり角に差しかかったそのとき──
ポフンッ!!
「きゃっ!」
勢いよく衝突し、ほのかはよろめいた。そして、目の前に立っていたものを見上げる。
そこにいたのは──目も鼻も口もない、ただただ完璧なフォルムの食パンだった。きれいな長方形。きめ細かな表面。焼き加減も芸術的。それなのに、なぜだろう。この食パンは、間違いなく──「イケメン」だった。そう表現するのが、何故かしっくりとくるのだ。
(な、なにこれ!?なんでこんなにイケメンオーラすごいの!?)
固まるほのかに、どこからともなく、ふっと声が届く。
「おっと、悪い。大丈夫か?」
目の前の食パンから、その声は発されていた。きつね色の焼き目が付いた、一斤の食パン。彼の声は優しくて、どこか少年っぽく、軽やかだった。
「えっ、えっと、だ、だいじょうぶ……です……」
ほのかは動揺を抑え、おずおずと答える。食パンは楽しげに、ふわっと揺れるように笑った……気がした。
「そっか。ならよかった。……ま、ぶつかってきたのお前さんだけどな?」
くすぐったそうな声音。でも、責めるようなニュアンスは一切ない。
(な、なにこの、絶妙な生意気さ……!!)
「でも、走ってる姿、結構よかったぜ」
「へっ……!?」
思わず変な声が出た。頬が一気に熱くなる。えっ相手食パンなのに!?
「そろそろ行かないと、ほんとに遅刻するぞ。──ほら、行こう」
柔らかく、でも自然に。あたりまえみたいに、食パンはほのかの隣に並んで滑るように進み出した。
(……隣に並んで歩いてる、いや、並んで漂ってる!?)
(っていうか、なんでこんなに自然体なの!?パンなのに!!)
戸惑うほのかをよそに、食パンは朝の光を受けて、まぶしく輝いていた。
無事、校門を滑り込んだほのかは、心臓をバクバク言わせながら教室へ向かっていた。
「は、はぁ……ギリ……セーフ……」
頬を押さえて、ぐったりするほのか。──ふと気づく。隣に、あのイケメン食パンが、当たり前のように並んでいることに。
(えっ、えっ、なに!?なんでまだいるの!?)
「おい、急げ。チャイム鳴るぞ」
からかうような声。食パンはさらっとほのかの前を滑っていく。
(もしかして、学校が同じなの!?)
混乱しつつ教室に駆け込むと、すでに半分くらいの生徒たちが席についていた。ざわざわと、春の空気に新しい期待が混じる教室。
「みんな、席について〜!ホームルーム始めるぞ〜」
担任の水野先生が入ってきた。やや眠そうな声で、黒板に「転校性の紹介」なんて書き出しながら、さらっと言う。
「えーっと、今日から転校生が来てる。入ってきてー」
ポフン、と教室のドアを触る音。そして、現れたのは────完璧なフォルムの食パン。
(……また出たぁぁぁ!!)
教室中が、ざわっ……とざわめいた。
「えっ」
「パン……?」
「え、食パンだよね!?」
生徒たちの困惑をものともせず、食パンは堂々と教壇の中央に立った。というかふよふよと漂いながら、やってきた。
「桜丘学園に転校してきた。……よろしくな」
短い挨拶。でもその声音は、どこまでも自然で、どこまでも「普通の転校生」だった。
「えっと……名前は?」
水野先生が尋ねると、食パンは一拍置いて、こう名乗った。
「俺は、朝倉トーストだ」
(名前もパンなんかーい!!!)
心の中で全力ツッコミを入れるほのか。
「じゃ、朝倉くんは……朝霧さんの隣、空いてるからそこな」
「了解」
空中を滑るように席へ移動するトーストくん。──そして、当然のようにほのかの隣へ座った。というか、隣の席の机の上に、一斤の食パンが置かれた状態になった。
(……いや、隣って!!!)
混乱するほのかをよそに、朝倉トーストはふわっと柔らかな香りを漂わせながら、破顔した。……パンの形がふにゃっと動いたので、そう見えた。
「──さっきぶり、だな」
くすっと、からかうように言う。顔がないのに、絶対今、笑った。ほのかは、どうにか言葉を絞り出す。
「……よろしくお願いします……」
「おう。よろしくな、朝霧さん」
──新学期、隣の席のクラスメイトは、イケメンすぎる、優しくて生意気な食パンだった。
最初の授業が終わり、教室は一気にざわつき始めた。休み時間、春の光がまぶしい昼前の教室。ほのかは、席に座ったままノートを片づけながら、こっそり隣を見た。
──朝倉トーストは、すでにクラスの中心にいた。
「朝倉くんって、結構厚切りだよねー!」
机を囲む何人かのクラスメイトたち。男子も女子も、楽しそうに笑っている。
「そうか? このくらい、普通だろ」
食パンの彼は確かに、結構厚切りのトーストでもあった。一枚切りサイズのトーストというか。一枚切りサイズのトーストって何?
……トーストくんは、相変わらず顔もないのに、まるで涼しい顔で、自然に受け答えしている。
「いや〜いいよいいよ!なんか頼りがいありそう!」
「しかも全粒粉っぽくない? 身体に良さそう!」
「うわっ、ヘルシー! いいなあ〜!」
クスクスと盛り上がる輪。クラスメイトたちの言葉に、トーストくんは軽やかに返す。
「ま、俺、素材には自信あるからな」
どこまでも自然体。そして、どこか誇らしげなその声音。ともすれば、隣の席には普通の男子が居るように錯覚しそうだ。
(な、なんか、すっごい馴染んでる……!)
ほのかは、ノートの角をぺたぺたと指で叩きながら、胸の奥に、ちくっとした小さな痛みを感じた。
(べ、別に、いいんだけど……)
(別に、嬉しそうにしゃべってるトーストくんに嫉妬してるとかじゃ、ないし……)
もやもやしたものを抱えたまま、顔を伏せる。心臓が、変にドキドキしている。
そんなとき。ふわり、と隣からあのやさしい香りが漂ってきた。
「なあ、朝霧さん」
顔を上げると、トーストくんが、当たり前のように自分の机に寄りかかっていた。
「今日の弁当、一緒に食わないか?」
「えっ?」
トーストくんの誘いに、ほのかは顔を紅く染め、首をぶんぶんと振って頷いていたのだった。
昼休み。春風に誘われるように、ほのかとトーストくんは屋上のベンチに座った。
桜がひらひらと舞い、世界はほんのりピンク色に染まっている。隣にいるのは──まぶしく輝く、完璧なフォルムのイケメン食パン。
(これ、どう考えても現実じゃない気がするんだけど……)
ほのかはそっとお弁当袋を開いた。中には、お母さんが作ってくれた卵焼き、唐揚げ、ブロッコリーにミニトマト。彩りもよくて、ちょっとだけ誇らしい。
「いい弁当だな」
トーストくんが、ふっと言った。
「え、えへへ……ありがとう……」
照れながら蓋を開けたほのかの目に、ふと、隣でトーストくんが広げる弁当が映った。それは銀色に光る、大きめのお弁当箱。二段式になっていて、上の段には、綺麗な焼き目の付いたホットサンド。下の段は色とりどりの断面も美しい、フルーツサンドが詰めてあった。苺、バナナ、そして爽やかなキウイ。それぞれが、きれいに、まるで宝石みたいに並べられている。
「俺、基本これなんだ」
トーストくんは、どこか誇らしげに言った。
「か、かわいい……」
思わずこぼれる感想に、トーストくんはふわりと笑った……気がした。
「なあ、最初のおかず、俺にくれよ」
まただ。さらっと、とんでもないことを言う。
「……う、うん……」
緊張で指先が震える中、ほのかは卵焼きをひとつつまみ、そっと差し出した。すると、顔?を近づけたトーストくんの表面に、卵焼きはしゅるんと吸われていく。
「……うまい」
シンプルな一言。それだけで、胸が、ぎゅっとなる。
(な、なにこれ……!)
食パンに卵焼きを食べさせる。そんな不思議で、でもやさしい時間。
ほのかはそっと、自分のお弁当箱を見下ろした。そして隣に並んだ、アルミのお弁当箱からふわりと漂う、あまいパンの香りを吸い込む。
──ああ、なんか、幸せだな。そう思ったとき。トーストが、おもむろに自分のホットサンドを持ち上げて、ほのかに差し出してきた。
「お返し。食ってみろよ」
「えっ、いいの!?」
驚きながら、ほのかはホットサンドを受け取った。そっとかじると、サクッと心地よい音がして──
「おいしっ!!」
思わず、笑顔がこぼれた。ほんのり甘いバターと、ふわふわのパン生地。それから、とろけるチーズのやさしい塩気。ほのかは胸いっぱいに、あたたかい気持ちを感じた。そんな彼女を見て、トーストくんは満足そうに笑った。
「お前さん、いい顔すんだな」
「……えへへ」
自然と笑い返してしまう。
春の昼下がり。朝霧ほのかと朝倉トースト。少女と食パンの、世界でいちばんやさしいお昼休みが、こうして過ぎていったのだった。