夜想曲 ―間宮にとっての非常に重要な三ヶ月 或いは単なる反実仮想―
Ⅰ
もしも世界が滅んで、僕たち二人だけが生き残ったら。
そんなたとえ話がよくあるけれど、それは状況を単純化しているに過ぎない。愛し合う二人は二人だけの世界で生きている。周りは関係ない。
だとしたら僕はたった一人でこの世界を生きてるのかしら。そう考えると少し寂しい気がしないでもないが、基本的に人当たりの良い性格で友達は多いし、まあそれなりに幸せに暮らしている。
今まで二十二年間人並みに恋愛してきたつもりだが、人並みの恋愛しかしてこなかった気がする。それでもこうして人に迷惑をかけずに生きていればいつか神様が運命の人にめぐり逢わせてくれるような気もする。めぐり逢えない気もする。良くない良くない、神様のせいにするのはあまりに失礼。つまるところ、僕の人生の中で恋愛のプライオリティが低いわけだ。ただそれだけの話。
ところで僕は少し名の知れた大学に通っている。そして、これまた少し名の知れた企業に就職が決まっていて、傍目から見れば頗る順調な人生を送っているわけだ。それはずっと望んでいたことであったし、きっと幸福なことだろう。
加えてルックスも悪くない。ちょっぴり女性にもてる。たまに男にももてる。そんなふうに老若男女問わず好印象を持ってもらえているのは、笑顔とかとか、そんなのから発せられる雰囲気のせいかしら。「人は弱みを隠すように雰囲気を作る」と誰かが言ってたっけ。イエス、僕は大賛成。僕の特技は感情を隠すこと。そうすることで周りと上手くやっていけることを知っている。時代が時代ならきっとスパイとして活躍したことだろう。
そんな妄想が膨らんだところへ隣の部屋からピアノの音が聞こえてきた。ショパンの葬送行進曲。そして僕の意識は冷戦から十九世紀へとトリップ。十九世紀のスパイもなかなかエキサイティングで良いかもしれない。と、いかんいかん。妄想は人間が持つ高い知能の証ではあるが、過ぎると変態以外の何物でもない。
ピアノを弾いているのは僕のルームメイト。名前は三上。一年前に音大を卒業して、今は子供相手の音楽教室でアルバイトをしながらピアニストを目指している。こういうのを世間ではフリーターとも言う。僕が三上に関して知っていることと言えばこの程度。お互いあまり干渉しないことにしているので立ち入ったことまでは知らない。
ああそれともう一つ。三上は素晴らしいピアニストだ。タッチは正確だし、テンポは崩れることがない。ルームシェアなんて疲れるだけだと思っていた僕が未だにこの部屋を出て行く気にならないのは、ただで彼の演奏を聴くことができるというのが大きい。と言っても彼にピアノを弾いてくれと頼んだことは一度もないが。もしかしたらそんなところに彼が燻っている理由があるのかもしれない。聴いていて心地良い音楽を奏でるが、それだけだ。心を動かされたことは一度もない。
そうそう、僕も音楽に関して全くの素人というわけではない。僕はフルートを吹く。まあ三上とは違って単なる趣味だが。プロ志望の三上に聴かれるのが恥ずかしいので彼がいる時はフルートを吹かないことにしている。僕がこの部屋に来た頃、三上に話した記憶があるがきっと彼はもう忘れているだろう。
大学へ行って他愛もない会話を楽しむ。人並みに勉強して人並みに遊んで、部屋に帰ればピアノの音が包んでくれる。そんな穏やかな日々が半年続き、残された半年間の大学生活も同じように過ぎていくに違いない。
ある夜、三上が泥酔して帰宅した。彼には珍しいことだ。僕は彼の部屋のベッドへと運んだ。彼の部屋に入るのは久しぶりで少し躊躇したが、状況が状況なので仕方なく。グランドピアノとベッドでかなり窮屈な部屋。三上のような腕の良いピアニストをこんな狭い部屋に押し込めておくのは少し残念な気がした。
「水持って来ますね」
三上が何か言ったが言葉にはなっていなかった。たぶん礼を言ったつもりだろう。キッチンに向かいグラスに水を注ぐ。買ったころには透明だったグラスも、長く使っているとさすがにくすんでくる。卵の殻で磨くと綺麗になると以前何かで聞いたことがある。今度試してみようかしら。
「どうぞ」
三上は半分眠っていたが、自分で水を飲んだ。
「悪い、もう一杯もらっていい?」
「わかりました」
いつもの冷静さを少しだけ取り戻したように見える。
「あっ、間宮君てさ」
グラスを手に部屋を出て行こうとしたところで呼び止められた。間宮というのは僕の名前。
「誰かのためにフルート吹いたことある?」
驚いた。覚えてたのか。て言うか何だそれ。
「ないですね」
「そっか」
水を持って彼の部屋に戻った時、彼は熟睡していた。
「芸術家」
その夜、ほんの少しだけ考えてしまった。誰かのためと思って吹いたことはない。そんな余裕はないし。そもそも僕は音楽に自分の感情を入れるのはナンセンスだと思っている。音楽に限らず芸術というのは個人の感情とかそういったものを超越した高いレベルに存在すべきもの。作り手のメッセージを作品に込めれば込めるほど、共感する人は少なくなっていく。そういうものだろう。例えば夕焼けを見て綺麗だと誰もが思うように、芸術はそうあるべきだと思っている。
三上はどんな回答を期待していたのだろうか。そんなことを考えているといつの間にか深い眠りに落ちてしまった。
三年間通った高校、次の授業は体育。着替えを済ませ下駄箱へ。はて、僕の靴はどこに入れてあるんだったか。思い出せない。思い出せない。気がつくと隣に女の子が立っている。僕はなんだかとても愛おしくなったわけで。彼女に口づけた。
三上のピアノの音で目が覚めた。ブラームスのピアノコンチェルト第二番。良い曲だ。良い演奏だし。
それにしてもなかなかにエキセントリックな夢を見たものだ。欲求不満かしら。僕に似合わない言葉の筆頭。昨夜の夢の残り香に思いを馳せながら、気付く。三上のピアノの音が以前と少し違うことに。
「誰かのためにか」
そんなことを口に出している自分が恥ずかしい。
数日後の夜、三上から電話がかかってきた。
「今夜家にいる?」
「はい、いますよ」
「あのさぁ、悪いんだけどこれから人連れて行ってもいいかな?」
驚きはない。人というのは、まあ人ということだろう。最近の三上のピアノを聞いていれば納得の展開。
「あっ、じゃあ僕今夜は友達の家に泊まりますよ」
「いや、やっぱ一緒に住んでるんだからさ、君にも会わせたいのよ」
今度は驚いた。人と、というより僕とこんな付き合い方をするような人だっただろうか。
「わかりました。どうぞお連れして下さい」
きっと三上の考えはどちらかだろう。これからも頻繁に連れて来たいから僕にも親しくさせよう、もしくは同棲するために出て行かせよう。どちらにしても面倒ではあるが、とはいえ三上と衝突する気は微塵もない。流れに身を任せることにしよう。
どうも落ち着かない。結婚を申し込みに来る娘の彼氏を待つ父親ってこんな気分だろうか。そんな下らないことを考えながら小一時間ほどそわそわした後、チャイムが鳴った。
「こんばんは。どうぞ上がって下さい」
平静な振りをするのは得意なはずだが、驚きが顔に出ていたかもしれない。とても綺麗な子。ルックスもそうなんだがオーラとか何とかがすごく。浮世離れしているというか。まあ三上は同性の僕から見ても良い男だし、妥当と言えば妥当か。この二人が街中を歩いていたら、ちょっとした画家ならスケッチでも始めるかもしれない。
「アキちゃんて言ってね、大学の後輩なんだ。今三年生」
僕のグラスにビールを注ぎながら三上が彼女を紹介した。アキは部屋を見回している。きっとルームシェアの部屋が珍しいんだろう。
「大学の後輩ってことは、何か楽器を?」
当たり障りのない質問。
「はい、ピアノを」
予想通りの答え、のはずだった。しかし目が合った瞬間、僕は彼女の瞳に吸い込まれていく気がした。初めての感覚。一目惚れとか、そんなことでは全くもってない。全くもって。
恥ずかしながらその後のことはよく覚えていない。とはいえもちろん表面的には平静を装っていた自信はあるが。
「悪いけど送って行ってもらえないかな?歩きだとちょっと遠いんだわ」
三上の呼びかけで我に帰った。なるほど、自転車で送れということね。
三上は自転車に乗れない。ピアニストにはそんな人がけっこう多いらしい。他に適当な手段が見つからなかったので引き受けることにした。他に手段が見つからなかったのは僕の下心のせいではないと思いたい。三上は僕のことを信頼してくれているのだろうが、ちょっと複雑な気分。
「後ろ乗って下さい」
はい、と言いながら自転車にまたがる。
「よいしょっと」
自転車をこぎ出す時につい声が出てしまった。日頃の運動不足のせいか最近何をするにも声が出てしまう。良くないな。重いって意味だと思われたかも。違います違います、一人で乗る時も声出ちゃうんです。考えすぎか。一応逃げ道を作ることにした。
「軽いね」
「あはは、ありがとうございます」
あまり会話が続かない。無理もないか、この状況じゃ。きっと彼女も戸惑っているのだろう。しかし不思議と気まずさはなかった。僕が沈黙できるということはそれだけ心を許しているということだ。初対面の彼女に。なぜだろう。僕の肩に遠慮がちに手を乗せている彼女も、そうであればいいと思ったりした。
それにしてもこの状況、客観的に見るとそれなりにロマンチック。深夜に自転車の後ろに美女を乗せて走る。「寒くない?」なんて言ってみたりして。この歳になって自転車ってのがまたけっこう良いじゃない。小高い丘の上、輝く星達、遠くに臨むムーディーな夜景。そんな静かな道なら、ちょっとしたアクシデントでも起きたかもしれない。実際に走っているのは深夜でも車通りの多い国道沿いだったけれど。それともう一つ。彼女は三上の恋人だった。僕はとても、そうモラリスト。
「ここで大丈夫です」
「あっ、はい」
ブレーキオン。二十分ほど自転車をこいで来たはずだが僕にとってはすごく短い時間に思えた。彼女はどうだろうか。
「わざわざ、すみません」
「いえいえ、僕に気兼ねせずにまた来てね」
僕がもう少しだけジョーク好きだったら、「ぜひ今度は三上がいない時に」なんて言ったかもしれない。彼女は「ありがとうございます」とか言っている。
「そういえば間宮さんフルートやるんですよね?」
またこの目。こんな綺麗な目をした人がいるんだ。最初に受けた印象はこの目のせいかもしれないな、と思った。トリップするのを堪える。
「うん、まあ」
「いつか機会があったら聴かせて下さいね」
「いや、僕のは単なる趣味だから。音大生に聴かせるような音は」
半分は本心。アキは「そうですか」なんて。
「今日は送っていただいてありがとうございました。楽しかったです」
「いえいえ、おやすみなさい」
アキはマンションの中へと消えて行く。楽しかったですって、三上と三人で話したことがって意味か。
マンションの前で一服させてもらうことにした。僕は部屋では煙草を吸わない。三上と約束しているからだ。煙草の煙は楽器に良くない。特にピアノという精密機械のような奴には。
二本目の煙草に火を点けたころ、マンションからピアノの音が微かに聞こえてきた。聞き覚えはあるが曲名が出てこない。ラフマニノフかなんかかな。きっと弾いているのはアキだろう。音大の近くにある防音設備の整ったマンション。それでも僕には彼女がピアノを弾いている光景が想像できた。
技術という点で言えば三上の方が上だろうか。しかしアキのピアノはきっと人の心を動かす。少なくとも僕を。そしてたぶん三上を。とても暖かい音色だった。
早く帰らないと誤解を生みかねないんじゃ。
三上のことが頭に浮かぶと、少しだけ不安が襲ってきた。僕は煙草の火を消して、来るときよりほんの少しだけ軽くなった自転車をこぎだした。もちろん声は出たわけで。
夜風が気持ち良い。なんとなく昔のことを思い出していた。こんな夜に自転車をこいでいる時、思い出すのは大抵中学生の頃のこと。中学校へは自転車で通っていた。ただそれだけのこと。
悪くない思い出。先生や友達にも恵まれていたし、悩みなんてなかった。実際はあったかもしれないが思い出せないということはその程度だったってことだ。穏やかな日々。まあそれは今も同じだが。僕は何か変わっただろうか。すぐには思いつかない。あまりに大人だった。今が子供だという指摘は置いておく。変わったことと言えば持っている仮面の数が増えたことぐらいか。経験を積んできたということだ。僕は新しい環境に入る時、その都度仮面を作ることにしている。僕の顔の形に似せて精巧に作られていて、そう簡単にはマスクだと気付かれない。
中学二年の時、僕を好きだと言ってくれた女の子がいた。いい子だった。僕の初めての相手。緊張はなかった。その代わり快感もなかった。初めてセックスをした次の日は世界が輝いて見えたと言っていた友人がいる。そんな感性、ぜひ欲しいものだ。本当に。
マンションの駐輪場に自転車を止め、三階まで階段を上る。一応エレベーターも設置されているが、なんとなくそんな気分。スイッチ。ドアノブに手をかける。
三上はソファーで眠っている。ん、起きたか。
「おかえり。悪かったね」
寝起きのせいか、本当に悪かったと思っているようには聞こえない。いいけど。
「いえ、思ったより近かったですし」
三上はキッチンで水を飲んでいる。
「不思議な子だろ」
「そうですか?」
手札はたくさんあるに限る。必要ないときにカードは使わない。
「いや、あの目に見られると何か全部見透かされてる気になるというかね」
「まあそう言われてみればそんな感じだった気もしますかね。三上さんの彼女っていう前提で見てたから、あまり気にならなかったのかも」
それらしいことを言ってみる。観察眼が乏しい振りをするのは自信がある。観察眼が鋭い自信もあるが。本当は三上に全面的に賛成したい気分。
「あっワイン残ってんだ。飲んじゃおうか」
三上がアキを連れて来る時に買ってきたものだ。無理もない。僕はあまり飲まない。アキもそうらしかった。ただ、珍しい三上の誘いを断るのも気が引けたし、今夜はすぐに眠る気分ではなかった。
「付き合いますよ」
三上とこうして話すのは久しぶりだった。もしかしたら初めてかもしれない。と言っても僕は聞き役に徹していたけれど。
彼は自分のことをいろいろ話した。父親がピアニストで、物心つく前から厳しい音楽教育を受けていたこと。音楽には素人だった母親は、彼が子供の頃に家を出て行ったこと。今でもちょっぴりマザコンだということ。中学生の時、初めてピアノをやめようとしたこと。音楽科のある高校に通っていて、周りは全員敵。楽しい高校生活の思い出はあまりないということ。大学に入ったら体が楽になったということ。成績は優秀、プロを目指したこと。大学を卒業した時、再びピアノをやめようとしたこと。今も、ずっと将来について悩んでいること。
シャワーを浴びて自分の部屋に戻った時には四時近かった。
三上はもう寝ただろうか。「君が羨ましい」彼はそう言っていた。僕らが歩いている道には分かれ道が多い。僕は常に一番広い道を選んできた。三上は音楽のためだけに。結果、僕は広い道を歩いている。一方で彼はとても狭い道を。聞き流したがきっとそういうことだろう。大差はない。そんなことを考えながら目を閉じる。
アキはきっと、僕や三上には見えない道が見えるんだろう。そんな気がした。
Ⅱ
三上がピアノ教室のバイトをやめたと聞いたのはそれからちょうど一週間後だった。なんでもプロを目指して本気でピアノに取り組むつもりらしい。
僕はと言えば、この一週間毎日レンタルビデオ屋に通った。綺麗な映像を見たい気分だった。旅行はちょっとめんどくさい。ラブストーリーは好きじゃないが、綺麗な画と言えばそんなジャンルしか思い浮かばなかった。
僕は映画やテレビドラマを見る時必ずノートを取ることにしている。良い点と悪い点。その昔映画監督に憧れて始めた。今でもそれが癖になっている。四日目にやめた。ペンで映画は撮れない。もっとも、今となっては映画を撮るつもりはないが。
レンタルビデオ屋通いもやめることにした。今日は一日中隣の部屋から聞こえるピアノの音を聴く。ノートは取らずに。
その日の夜、アキが家に来た。一週間ぶりに会った気はしない。当然と言えば当然。日夜僕の脳内で展開される物語に登場するキャラクター。わりと重要な役どころで登場シーンも多い。
二言、三言挨拶を交わして僕は部屋を出た。今日はそんな気分。さてどこへ行こうか。と言っても急に行って泊めてくれる友人は一人しか浮かばない。歩いて行くか。近くはないがそんな気分。
線路沿いを歩いて行く。ちょっとした上り坂。歩きを選んだ一つの要因。目的地に到着。チャイムを鳴らす。反応はない。五回チャイムを鳴らしたところで、留守だということを確信する。
「三十分以上歩いて来たのに」
独り言。
仕方ないのですぐ近くにあるネットカフェに行くことにする。確か朝までいても千二百円くらい。そのビルのエレベーターのボタンを押したところで、どこかの街のこんな店が焼けて人が死ぬという物語を思い出した。エレベーターに乗った。
昔好きだった漫画を読む。うん。人の嗜好は十年かそこいらじゃ変わらないようだ。主人公より年を取ってはしまったが。
僕は自分が主人公の物語を生きている。みんな同じ。この漫画の主人公ほど波乱万丈ではないが、僕の物語もそれなりにおもしろい。同じだけの物語を世の中の人がみんな持っていると思うと想像力を掻き立てられる。人ごみなんかを歩くと少し気持ち悪い。
リクライニングを目一杯倒して眠ることにする。残念ながらここには僕の読みたい物語がない。
きっかり五時半に目覚めた。六時までに出なければいけない。女性ファッション誌を眺めながらサービスのコーヒーを飲む。僕は不味いコーヒーにはミルクをたくさん入れることにしている。こういう飲み物だと思うと結構おいしい。もはやコーヒーの味ではないが。
伝票とファッション誌、それとコーヒーだか何だかわからない沈殿物を残した紙コップを持ってブースを出る。紙コップはゴミ箱に、雑誌は本棚に、伝票はレジに。エレベーターを降り、肌寒い空気に触れる。ごみ置き場では、三羽のカラスが袋を突いていた。
坂を下る時、歩いて来たことを少し後悔したが、マンションに着く頃にはすごく後悔していた。最善の選択だと思ったことが最善の結果を生むとは限らない。みんな知ってる。
階段を上りながら不安になった。まだいるかもな。時間は、まだ七時前。ドアに耳を当てたりしながら少し悩んでチャイムを押した。返事は、ない。鍵は。うん、閉めてある。また少し悩む。寒い。自分で鍵を開けることにした。
ゆっくり扉を開けて中を覗く。女物の靴はない。一安心。しかし、アキだけでなく三上も部屋にはいないようだった。これはちょっと、何とも言えない。僕が早く帰ってくることを予想して気を遣ったのかも。そう思っておく。
シャワーを浴びる。バスルームには甘い香り。シャンプーの香りに違いない。さっと済ませた。涼しくなってからやたらガス代がかかる。
ベッドに寝転がると急激に眠気が襲ってきた。無理もない。椅子で少し寝ただけだ。アラームは設定しないことにしよう。早く眠るには何も考えてはいけない。ただ体が宙に浮き上がるイメージで。
玄関のドアが開く音で目が覚めたが、またすぐに意識が飛んだ。次に気付いた時は昼の一時。三上はいない。もちろんアキも。リビングのテーブルに置手紙を見つけた。彼は、どこかの有名なピアニストのレッスンを受けに行くとのことだった。なかなかの頑張り屋さん。お腹が空いた。今日はまだ何も食べていない。確かカップラーメンがあったはず。お湯が沸くまでの間、呆っとする。お湯を注いで三分間、また呆っとする。
麺がすぐになくなる。少し悩んでスープを捨てた。
僕の部屋では、レコードプレーヤーの隣でフルートのケースが埃を被っている。約一年分。もはや趣味とも言えない。ケースを開いて眺めてみる。それにしても単純な造りの楽器だ。吹いてみようか。三上に影響を受けたわけではない。アキの社交辞令を真に受けているわけではもっとない。機会なんてないだろう。
頭部管を両手で持って唄口に息を吹き込む。予想していたよりずっとまともな音が出た。素直にうれしい。フルートを組み立てて、指は高音のD、息は低音のG。タイミングを計って左手人差し指を下ろす。合格。A、B。合格。オクターブ上のBへ。不合格。一年振りじゃ無理もない。B、C、D、Es、F、G、A、B、C、B、A、G、F、Es、D、C、B。これは悪くない。アーティキュレーションとスケールを変えながら音階を吹く。
今度は本棚から譜面を引っ張り出して曲を吹いてみる。だめだった。イメージはある。頭の中では今より少し幼い僕が美しい音色を奏でている。しかしその音は出せない。いつもそう。何度この状況で楽器を片付けただろうか。それでも今日は吹く気になれた。
ロングトーン。テンポは六十。中音Hから半音ずつ下げる。あるいは上げる。七拍吹いて一拍でブレス。衰えた頬の筋肉が痙攣する。夜までロングトーンを繰り返した。飽きはしなかった。
二週間そうしていた。もう三上に聞かれることに抵抗は無くなっていた。二週間顔を合わせてはいないが。大きく息を吸って長く吐く。ただそれだけを繰り返した。生きるってこういうことかしら。少し疲れた。十一月も近いというのに今日は九月中旬の気温だということだ。もしかしたら僕の責任かもしれない。
髭を剃って顔を洗った。スイッチ。外は眩しい。自転車をこぎ出す。空は青い。
十五分ほどで楽器屋に着く。小さい店。ギターで埋め尽くされた一階を素通りして階段を上る。ピアノとエレクトーンのフロアを通り過ぎ、奥の狭いコーナーへ。管楽器のショーケースの中ではアルトサックスが光っている。その隣の書棚。品揃えは悪いがそれでいい。銀座には不要なものが多すぎる。失敬。僕には不要なものが。一時間近くフルートの楽譜をパラパラ見ていた。時間はある。
店員という名前のおばちゃんと目が合ってしまった。商品を持ってレジに向かうことにしよう。ソロフルートのためのクラシック・バラード。似合っている。何もかも。
二週間ぶりの外の空気は爽快だ。きっと帰還した宇宙飛行士はこんな気分だろう。子供の頃宇宙飛行士に憧れたものだが、そう考えると羨ましくはない。地球の外に出ること。家の外に出ること。同じこと。
ふと大学のことが頭に浮かんだ。もう二週間以上行っていない。世の大学生なんてそんなものかもしれないが。これまでわりと真面目な学生生活を送って来た僕にとってはちょっとチャレンジング。行くか。良い天気だし。
途中までは本当にそのつもりだった。ゼウスに誓える。しかしなぜか音大にいるんだが。その音大だ。音大というのは音楽大学の略称なのだから決してゼウスを冒涜しているわけではない。ここに来るのはこれで二回目。大学一年のころ学生オケのコンサートを聴きに来たことがあった。すぐ近くに住んでいると言っても、他大なんてそんなもんだろう。サンクチュアリ。
ベンチに腰掛けて煙草に火を点ける。ちゃんと灰皿は用意されている。退屈はしない。校舎の外でアンサンブルをしているグループがいくつかある。ほとんどは管楽器。きっと弦楽器は日の光に弱い。自然とフルート三重奏に目が行く。吹いているのは知らない曲ばかり。一曲だけ聞き覚えがあったが曲名はわからない。当然みんな僕より上手い。訂正。僕よりすごく上手い。そして幸せだ。一緒に吹く人がいる。
プロを目指している三上。音大生がみんなプロを志しているわけではないだろう。プロって何だろうか。そんなことを考えていたら煙草がなくなった。もう日は傾いて、さっきまでのフルートアンサンブルは平凡な大学生三人組に変身していた。その少し奥のサックス四重奏はまだ粘っている。
「間宮さん?」
世界一美しい音。もう二時間以上ここにいる。全く期待していなかったと言えば嘘になるわけで。幸運だ。ゼウスは心が広いらしい。
「あっ、どうも」
きっと良い笑顔をしている。いつも通り。
「どうしたんですか?」
そりゃそうだ。コンマ一秒。「君に会いたくて」却下。コンマ二秒。
「散歩」
何じゃそりゃ。
「歩きだとけっこう遠くないですか?」
同感。
「あー、自転車で来たんだ」
とはにかんでみる。
「それは散歩って言わないですよ」
だから大学まで自転車で来て、構内の散歩をしようかと。やめた。アキがベンチに座る。そんなことがうれしい。
「三上さん、有名な先生の所にレッスンに行ってるらしいね」
共通の話題と言えば三上のことしかない。音楽を共通の話題と呼ぶのは不適切だろう。
「けっこう大変みたいですよ。すごく厳しい、と言うか怖い」
「そうなんだ。まあでも、三上さんは大丈夫でしょ。ねえ。目指してる目標があるわけだし」
「彼の技術はプロと比べたって遜色ないですよ」
「でも?」
「簡単な世界じゃないですからね」
そうだろう。簡単な世界なんてものがこの世に存在するのかという疑問はあるが。
「そういえば三上さんとは何で親しくなったの?」
何だかちょっと暗いムードになってしまったので軽い話題を振ってみる。
「担当の先生が同じで、私の練習を聴きに来たんですよ。彼が四年で私が一年。良いピアノを弾く学生がいるからって言われたみたいで」
平凡な物語。二人がピアニストだということと二人のルックスをエッセンスに加える。なんて綺麗なラブストーリー。
「知り合いの先輩って他にいなかったから、昔からピアノのこと相談したりしてたんですよね。卒業した後もよく先生を訪ねて大学に来てたし。それで」
こうなった。嫉妬はする。三上にではない。二人が生きている世界に。僕とは交わることのない世界。
「もし良ければ、その素晴らしいピアノを聴かせてもらえないかな?」
よく言った。実際聴きたい。
「いいですよ。この時間なら部屋空いてると思うし、弾いて行くつもりでしたから」
今日のゼウスは機嫌がいい。
アキがピアノを弾いている。マンションの前で聞いたのと同じ曲。ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』という曲だということがわかった。
「どうですか?」
何と言ったものだろう。実際感動した。彼女の手が心に触れている感じがした。でも僕は、その気持ちを表現する言葉を持っていない。
「ブラボー」
と手を叩いてみる。アキに笑われてしまった。
「間宮さんて、彼と似てますよね。初めて会った時、彼も同じこと言ってました」
「そうかな?」
認めよう。それは僕も思っていた。三上の部屋には仮面のコレクションが掛けられていることを僕は知っている。ただ彼にはピアノがある。僕にはない。
「あんまり長居すると邪魔になっちゃうと思うから、そろそろ帰るね」
心からそう思っている。
「そんなことないですよ」
聴いてくれる人がいたほうが良いピアノが弾ける。そんな声が聞こえた。
「いや。聴かせてくれてありがとう。練習がんばってね」
防音の重い扉を開ける。閉める。同じ曲が小さく聞こえてきた。その音を聴きながら廊下を歩いていく。良い音色だった。
外はもう真っ暗だった。それに寒い。さすがにサックスアンサンブルも撤収したようだ。自転車置き場に真っ直ぐ足が向かう。ただし、車輪は真っ直ぐ家には向かわなかった。コンビニへ。煙草を買う。キャメル。いつか友人にキャメルは親父臭いと言われたことがある。妙に納得して別の銘柄に買えたが一週間後にはキャメルを吸っていた。吸うのは僕だ。コンビニの前で一本吸って、再び自転車をこぎ出した。今度は家に向かって。
部屋に入ると何やらとても良いにおいがする。
「おかえり」
新妻がエプロン姿で味見をしている。嘘。
「カレー作ってんだ。食う?」
三上が料理をするなんて珍しい。そりゃそうだ。自転車より包丁の方がよっぽど指を怪我するだろう。
「いただきます。昼も食べてないんですよ」
スパイスの香りが空腹を刺激する。もちろんちゃんとしたスパイスなんて使っているわけはないが。
「良かった。こんな味のもん明日の朝まで食いたくなかったのよ」
笑っている。
「いただきます」
僕も笑うことにした。
思っていたよりはマシだった。食べる前に最高のスパイスを入れておいたから。よく言う。空腹が云々。
「意外とおいしいですよ」
「間宮君は良い旦那さんになるね。もうちょっと余ってるけどおかわりどう?」
三上は笑いを堪えている。
「あー、遠慮しときます」
最高のスパイスは売り切れてしまった。三上は皿に半分ほど残ったカレーライスと格闘している。訂正しよう。ライスはもうほとんどない。
「それにしても何で急に料理なんか?」
これを料理と呼んで良いかという問題は横に置いておく。
「何でだろうな。自分でもよくわからん」
少し間があって答えが返ってくる。
「まあそんな気分だったってことよ。きっと間宮君が最近よくフルート吹いてるのと同じような感じかな」
答えになってはいないが、少しだけわかった気がした。
「そういえば今日アキさんに会いましたよ」
二人だけの秘密にしておくというのもドラマチックではある。ただし当然、両者が望まなければそんなドラマは生まれない。どちらにせよ明日か明後日には秘密でも何でもなくなるのだ。
「そうなの?どこで?」
「今日音大に行ったんですよ」
「うちの?何で?」
三上は本当に不思議そうにしている。いいじゃないか近いんだから。
「まあそんな気分だったってことですよ」
「なるほど」
三上は笑った。
「彼女何か言ってた?」
「何かって何ですか?」
「いや知らないところで悪口とか言われてたら恥ずかしいじゃない」
同感。
「まさか。彼女そういう人じゃないでしょう。初めて会った時のことなら聞きましたけど」
「平凡でしょ。彼女のピアノの音は衝撃的だったけどね」
カレーはまた半分になった。
「でも嫌いになった」
「え?」
「彼女のピアノ聴くのがさ。嫌いって言うか。しんどくなった」
「と言いますと?」
「俺には弾けない」
なるほど。同じような話を聞いたことを思い出した。かつて習っていたプロのフルーティストから。彼女の夫はヴァイオリニストでどこかのオケのコンサートマスターだった。二つの才能が引き起こすディレンマ。僕とは交わることのない世界。
「まあ今はけっこう好きだけどね」
「どうしてですか?」
「俺にとって彼女は、ピアニストじゃなくなったから」
いつかの彼の言葉を思い出していた。
翌日は朝からフルートを吹いた。昨日買った楽譜を見ながら一通り曲を吹いてみる。二週間ひたすら続けた基礎練習のおかげでかなり感覚が戻っている。
悪くはない。だが良くもなかった。何だかあまり曲を吹く気になれなくて。結局昼過ぎまでロングトーンを続け、音大に向かった。
昨日と同じベンチに座って楽譜を取り出す。原本じゃなく。途中のコンビニでいくつかの曲のコピーを取った。その音符を眺めながら、思いつくままを譜面に書き込む。特に発想記号には気を遣って。もうそれが演奏者のエゴだとは思わなかった。よく書き込んだのはespressivo。そんな言葉。
書きたいことを全て書いた。一時間ほど夢中になっていた。煙草を吸いながら周りを見渡す。昨日のフルート三重奏のグループはいないようだった。少し残念。仕方がないので楽譜に目を落とし、頭に音楽を流す。さっきよりは良いフルートを吹けそうな気がしてきた。リピート。そこにピアノの音が重なった。それは聴いたことのある音。僕を動かす音。いつの間にか、その音の鳴る校舎へと引き寄せられていく。
扉の前に立ち、小窓から中を覗いてみる。
連弾だった。
アキの隣でピアノを弾いているのはもちろん三上。とても美しい世界に生きている二人。きっとその世界には美しい音しか存在しないんだろう。ピアノの森では小鳥が愛の歌を歌う。僕がいつの間にか手に入れたいと願うようになっていたもの。それを三上は持っていた。
中には入らずに、僕はその場を立ち去った。左手に握った楽譜をごみ箱に捨てて。
Ⅲ
その後、一つの曲だけを吹き続けた。ショパンのノクターン。こんな曲を吹いていること自体、僕の変化の表れだろう。そして、僕の頭の中では伴奏のピアノが流れている。
そのピアノは暖かい音。
そのピアノは濁りのない音。
そのピアノは心を動かす音。
そんなアキの伴奏に合わせたノクターン。そんな綺麗なノクターン。
長いことノクターンだけを吹き続けた。隣ではいつもアキが伴奏をしてくれた。妄想だが。
長いことノクターンだけを吹き続けた。ある日雪が降った。
「今夜三人で鍋やろうぜ。寒いし」
「いいですね。あけておきますよ」
「二人で材料買って七時くらいに帰ってくるよ」
「じゃあ代わりに僕が料理しますね」
「鍋なんて料理の内に入らんだろう」
「どういう意味です?」
「誘っておいて悪いから俺がやるよって意味。鍋なんて材料切って入れるだけなんだから」
「カレーも材料切って入れるだけですよね」
「お願いしよう」
今朝三上と交わした会話。意味のない会話。意味のある会話なんてあるのかは知らない。ただしアキが七時に来ることになっていて、今はその十分前だ。そして僕は意味もなくそわそわしているわけだ。意味もなくそわそわしながら、意味もなくクリーニングペーパーを使っているわけだ。ペーパーは乾ききっている。
「あれ。鍵開いてんじゃん」
玄関から三上の声が聞こえた。ここのところ僕は毎晩予定がない。鍵を開けておきますよ。僕は部屋を出た。
「いらっしゃい」
いつも通りの笑顔でアキを迎え入れる。もう戸惑いは感じなかった。
「何か久しぶりですね」
言葉には意味がない。
「また一段とお綺麗になって」
言葉には意味がない。
「もう少しでできますからね」
良い香りがする。
「本当に私何も手伝わなくて良かったんですか?」
アキの申し訳なさそうな声が聞こえた。
「ピアニストに料理をさせるわけにはいかないでしょう」
僕の答えを聞いて三上が笑う。アキは不思議そうにしている。本心を言えばアキが料理をするところは見てみたかった。彼女が野菜でも切ったら、きっと包丁と俎板が美しいハーモニーを奏でたことだろう。大真面目にそう思う。
「できましたよ」
鍋をテーブルへと運んで行く。テーブルの上には箸が三膳と取り皿が三皿、それにビールを注いだグラスが三つ。
「乾杯」
鍋は大好評だった。アキは料理を教えてほしいとしきりに言っていたし、三上は、少し酔った三上は、いつかピアニストとして大成功したら家のシェフになってくれなんて言っていた。
三上がピアニストとして大成功することがあっても、僕が料理人になることはないだろう。
深夜、僕はよく眠れなくて目が覚めた。ちなみに隣の部屋では三上とアキが寝ている。今夜はなんだかすごく楽しくて、僕も酔ってしまったので。
しばらく天井を見つめながらノクターンを頭の中で流していたが、眠れなかった。煙草とライターを持ってリビングに出る。外に出ようかとも思ったがベランダで吸うことにした。
ベランダに出て気付いたことが三つある。一つ目は雪が止んでいるということ。二つ目は雪が積もっていないということ。三つ目はいつ雪が止んだのかを僕は知らないということ。息を吐く。煙草の煙と白い息。
煙草が半分の長さになった時、アキがベランダに出てきた。
「寒いですね」
彼女が隣に立つ。
「眠れない?」
星が光った。雲はない。
「自分の家じゃないと何か」
アキはそう言ってピアノを弾き始めた。彼女の世界ではベランダの手すりが鍵盤になる。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。よく響く、とても綺麗な高音。
あなたの伴奏でフルートを吹きたい。そう心の中で願いながら二本目の煙草に火を点ける。
「けっこう吸うんですね」
煙草一本分だけ二人でいられるから。そんなことを思ってみる。
「あっごめん、寒かったら気にせず中戻っていいよ」
言えるわけはない。伴奏をしてほしいということすら言うことができないのだから。
「ごめんなさい。そういう意味じゃないですよ」
星が光った。彼女のピアノに合わせて星達が歌を歌っている。そんな気がした。
僕はゆっくり煙草を吸った。
何度も伴奏を頼もうとした。
何度も。
根元まで灰になった。
お互い部屋に戻った。すぐに眠れた。
なぜかよく眠れた。起きた時には十時を回っていた。僕には珍しいことだ。三上とアキはもういなかった。少し残念。コーヒーを淹れてリビングで飲んでいると、三上が帰宅した。
「おはよう。今歩きで送ってきたんだよ」
少しお疲れ。
「それはお疲れ様です。起こしてもらえれば、自転車出したのに」
本当はそんな気分ではなかったが。
「いや、悪いし、それに昨日の雪で道路凍ってるとこもあるからさ」
なるほど。それは確かに怖い。
どこにも雪が積もっていなくてつまらなかったとか何とか、どうでもいいような話をしながら、三上は自分の分のコーヒーを淹れている。その後姿を眺めていたら、僕は何だかとても悲しくなった。
「そうだ、三上さん」
「何?」
カップがテーブルに当たる音。三上がコーヒーを置いた。
「今度フルートの伴奏して下さいよ」
今度フルートの伴奏して下さいよ。そんな言葉。
別の相手に言うはずだった。そんな言葉。
「いいよ」
三文字。
「突然すみません」
「突然ね。ノクターンだろ?」
突然。
「ええ。忙しいのにありがとうございます」
本当にそう思う。
「いや俺も好きな曲だし。それに、あんだけ聴かされれば指も勝手に動きますわ。予習バッチリ」
三上は予想外にうれしそうな顔をしている。
「それは良かったです」
「代わりと言っちゃ何なんだけどさ、実は俺も頼みがあるんだよね」
「何ですか?」
「あー、自転車の練習付き合ってくんないかな」
三上は恥ずかしそうに言った。
翌日の早朝、マンションから五分ほどの所にある公園に三上と向かった。
初めは犬の散歩をする人が僕達を見て笑っていたが、三十分ほどで気にならなくなった。僕は子供の頃を思い出していくつかアドバイスをした。
その後また三十分ほどで誰も気に留めなくなった。人並みとまでは言えないが、三上は自転車をひとまず乗りこなせるようになっていた。
マンションへの帰り道、三上が自転車を押して歩いている。
「ありがとな」
「いえ、大したアドバイスできませんでしたし」
「いてくれただけで十分だよ。一人じゃ恥ずかしくてね」
何で急に自転車なんか。練習が終わったら聞いてみようと思っていた。でも三上の清々しい顔を見て、その必要はなくなった。「君が羨ましい」いつか三上がそんなことを言っていた。あの時考えたことが半分しか正解していなかったことに気付いたわけで。彼は変わった。
昔々あるところに一人の少年が居りました。少年はピアノを習い、その類稀なる音楽的才能を開花させていきました。しかし、その少年には音楽以外に大好きなものがありました。それはフットボール。少年はゴールキーパーとして活躍しました。その少年の名前はヘルベルト・フォン・カラヤン。そんな話を思い出した。
「今夜フルート付き合うよ」
カラヤンが言った。
僕はこの音が嫌いだ。
メトロノームの音を聞いていると精神を病みそうな気がしてくる。便利な道具ではあるが、この機械的な音は耳障り。ベートーベンが聴力を失ったのはこいつのせいかもしれない。
相変わらずのロングトーン。と言っても音は相変わらずではないが。少し前の僕が聴いたら何て言うだろうか。きっと褒めてくれるだろう。お前に褒められても嬉しくはない。
三上は例のピアノの先生の所へ行くと言っていた。
少し曲を吹いてみたがすぐにやめた。曲を吹いていると考えることが次から次へと浮かんでくる。
もういいんだ。そういうのは。もういい。
代わりにアキのことを考えることにした。
きっと今もどこかでピアノを弾いているアキ。
僕は、彼女のことをあまり知らない。初めて会ったのはついこの間。交わした会話は、数えるほどしかない。
僕は、三上の百分の一も彼女のことを知らないだろう。でも自分のことはよく知っている。僕は、鎧を着けた僕は、僕の生身の体に触れてくれる人を求めている。
彼女の瞳は、僕の鎧を溶かすことができる。彼女のピアノは、僕の心に触れることができる。
それをきっと恋とは呼ばない。それをきっと愛とも呼ばない。
名前はいらない。
名前には意味がない。
「やろうぜ。チューニング付き合うよ」
八時前。帰って来るなり三上が言った。
よく考えてみると、彼がピアノの前に座っているのを近くで見るのは初めてだ。なかなか似合うもんだ。そりゃそうか。それにしても狭い部屋。
「さて、と。音は?」
「何でも良いですよ」
ソロだしな。それに音程には自信がある。
「はいよ」
B
F
C
A
B
F
Es
A
B
クリア。
「バッチリだね。驚いた。こんな感じでいい?」
顔は驚いていなかったが。三上はピアニストだ。
「ええ。ありがとうござ」
僕の言葉をチャイムが遮った。
「僕出ますよ」
早歩きで玄関に向かった。ドアを開ける。
アキだ。
「こんばんは」
アキだ。
「俺が呼んだんだ」
そうなんだ。
「聴きに来ました」
そうか。
「聴かせて下さいって」
うん。
「いつかそう言ったの覚えてます?」
覚えてるよ。
「聴きたくて」
ああ。
「せっかくやるならギャラリーいた方がいいだろ」
そうだな。
「一人だけですけど」
十分だよ。
「聴かせてくれますか?」
もちろん。
狭い部屋。僕はもちろん、アキも座る場所なんてない。
「でも、ちょっと来るのが早かったかな」
三上がアキに言った。
「俺達まだ一回も合わせてないからさ。どうする?」
ああ僕か。
「僕がソリストです」
「俺はピアニストだよ」
わかってくれたみたいだ。
「好きなように吹いてくれ。完璧に合わせる」
語気は強いものの、三上の顔はずいぶん楽しそうだ。それにアキも。
よし。深呼吸。アイコンタクト。一、二、三、四、五、六、七、八。九、十、二拍でブレス。十一、アインザッツ。アフタクト。
Ⅳ
ああ。いい音だ。
甘美な旋律。ノクターン。
ずっと思い描いていたもの。ずっと恋焦がれていたもの。
ああ。ここにある。
三上がピアノを弾いている。
それでいい。声が聞こえる。ああ。僕か。いつかの僕。
譜面はいらない。
何も考えない。
伴奏すら気にする必要はない。
ああ。三上は圧倒的だ。
完璧に合わせてくれる。寸分の狂いもない。
だから僕は君のことを考えている。
指も、唇も、腹も、僕の体は動く。
ああ。だから僕は君のことを考えている。
誰かのためにフルート吹いたことある?
わからない。まだわからない。
でも今は、君のために吹きたいと思う。
この音は、哀しいほどに美しいこの音は、ただ君に。
ただの音じゃないんだ。
ああ。ここは。狭い部屋。たった一人の観客。
かつてとは違う。部屋も。僕も。
それでいい。また声がする。
アキ。僕を変えてくれたアキ。ピアノを弾いて下さい。
君のピアノは心を動かす。
三上も僕も信じていなかったもの。
存在しないはずだったもの。
それが今は、二人そろって君のために。
ああ。それは存在するのか。
聴いてほしい。
存在してほしい。
こんな音。君が聴いていてくれないなら、何の意味もない。
君のためだけの音だ。
だから綺麗なんだ。
ああ。聴いてほしい。
君が変えた僕たちを。
世界一綺麗な音がある。
きっと選ばれた人間しか聞くことのできない音。
聴かせてほしい。僕が鳴らすことのできない音ならばせめて。
アキ。僕を変えてくれたアキ。
これでいいんだ。この音は間違ってない。
ああ。ありがとう。
恋とは呼ばなくても。愛とも呼ばなくても。
君に会えて良かった。
ありがとう。僕はここにいることができる。
八連符。
甘美な旋律。ノクターン。
一本の細い線。とても細い線。今にも切れてしまいそうな。
僕はそれを辿っていく。
クライマックス。
ああ。このノクターンはもうすぐ終わる。
今の僕にはこれしかできない。
終わらないでくれ。
忘れたくない。
きっと、この曲が終わったら。夢から醒めるように。
醒めてみればあっけない。
ああ。終わらないでくれ。
僕は涙を堪えよう。
ただ音楽はそのために。
アテンポ。
ああ。優しい音。
穏やかだ。
そして、最後の一音はシャボン玉。
屋根より高く上がっていって。
優しく割れて、今度は音が、降ってくる。
アキは少し泣いていた。なぜかはわからない。でも。ありがとう。三上は、三上も涙ぐんでいるように僕には見えた。もしかしたら涙ぐんでいるのは僕の方かもしれない。
もう何だかよくわからない。でも。もう今は、それでもいい。
「ブラボー」
アキが言った。声になっていないほどの声で。四回手を叩きながら。それを見て三上が立ち上がる。そうか。僕と三上は、たった一人だけの観客に向かって頭を下げた。
そうした後、なかなか顔を上げられなかった。
Ⅴ
その後一週間ほどで、三上はいなくなった。例のピアニストに付いて、しばらくベルリンに行くという。本当に突然だった。弟子も芸術家なら、師匠も芸術家だ。僕には真似できない。
三上がいなくなってからも、しばらく一人であのマンションに住んでいたが、やはり僕も出て行くことにした。一人で家賃を払うのが厳しかったし、それになんだか、あの部屋に一人でいるのは寂しかった。
そうそう。あれから、アキはもちろんこの部屋に来てはいないし、会っていない。
三上とアキ。そんな人間は存在しなかったんじゃないかという幻想に駆られる。
幻想を残して、僕は部屋を出た。
一人暮らしを始めた。元々三上とはあまり干渉し合わない関係だったのだから大した変化はない。ピアノの音が聞こえないのは少し残念だが。ピアノの音どころか、隣の部屋からは毎晩ベッドの揺れる音が聞こえる。まあそれはどうでもいい。
僕は、しばらくサボっていた大学に最近はきちんと行っている。大学へ行って他愛もない会話を楽しむ。人並みに勉強して人並みに遊んで。そんな穏やかな日々。何も変わらない日々。
ある日、前のマンションに行った。管理人に呼び出されたのだ。郵便物を受け取りに来てほしいとのこと。
「あの部屋ね、最近音大生のカップルが住み始めたんだよ」
「へえ。そうなんですか」
それにしてもおしゃべりな管理人。個人情報がどうのと最近よく言われているけどいいんだろうか。お茶なんかも出されて一時間近く歓談してしまった。僕の人当たりの良さは相変わらずらしい。そうそう、その新たに入居したカップルというのは、例の音大に通う学生で、彼氏がピアノ専攻、彼女がフルート専攻だということだ。ほんの少しだけだが、運命なんて感じてしまう。
「で、何で来てくれたんだっけ?」
おいおい。
「だから郵便物を」
「あっ、そうだそうだ。えーと。これだね」
十通以上あった。呼び出されるわけだ。まだ郵便局に住所変更を届けていない。
「なんか海外からも来てたよ」
驚いた。海外って言ったらまあ一人しか浮かばない。ビル・ゲイツ。嘘。
「ありがとうございます」
マンションを後にして、自転車の練習をした公園に向かった。公園では老人達がゲートボールに興じている。悪くない。長閑だ。
ベンチに座って郵便物を確認する。あった。もちろん三上からの手紙。
「うわー、マジかよ。なんか、取り残されちゃったな」
笑った。
三上は、三上さんは、何でもベルリンの格式高い有名なピアノコンクールで優勝したということだ。
「僕は、遅かれ早かれこうなると思ってましたよ」
独り言。ただ。早いな。
「あれ?」
写真が同封されていた。たぶんコンクール後の受賞パーティーか何かでの写真だろう。誇らしげな笑顔で写っている三上。うむ。相変わらずのルックス。一緒に写っている人がいる。中年の日本人、これは、たぶん例のピアノの先生だろう。やたら鼻が高い外人、あっちの先生か。それともう一人三上の隣にいた。アキ。
「そっか。幸せそうじゃない」
強がりではなくて。本当に。二人ともすごく良い顔をしていたから。
「ん?」
気付いた。写真はもう一枚ある。
その写真を見て、僕は笑いが止まらなくなった。
「ブラボー」
写真の中では、三上がベルリンの街を疾走している。
子供みたいな顔をして。もちろん自転車で。