第21話 どうか心の赴くままに
「……っ、わたしの眼鏡さまッ!」
イェリナは条件反射で悲鳴を上げた。
ロベリアに聞き返した時点でこうなることは、わかりきっていたのにも関わらず。覚悟をしていても、やっぱり目の前で眼鏡が虐げられている様を見るのは、心身によくない。
(わたしがしっかり、しなくちゃ。しっかりしなきゃ、取り戻せない)
イェリナは深く長く息を吐き出した。込み上げる涙の気配が、呼気とともに流れてゆく。おかげでイェリナの気が紛れ、冷静さを取り戻すことができたような気がしてくる。
「ほら、観念なさい。コレを無傷で返して欲しいなら、今ここで申請書にサインをするのよ。私とセドリック様のパートナー申請の推薦人という名誉を差し上げるわ」
イェリナは、最愛である眼鏡が置かれている最悪な状況に耐えながら、キリリと眉を吊り上げてロベリアを見据えた。
イェリナが浮かべる表情の意味を勘違いをしたままのロベリアが、耐えきれないというように、ふふふ、と笑い出す。
「ほら、セドリック様もなにかおっしゃって? ……ふふ、喋ることができれば、の話ですけれど」
イェリナはハッとして、ロベリアに話を振られたセドリックの姿を見た。
セドリックの顔色は酷く悪い。青白くほっそりした頬、青黒くくすんだ目元。けれどセドリックはイェリナの視線に気がつくと、静かにそっと微笑んでみせた。そうして震える手で制服の胸元を探ると、淡い光がほんのりと漏れ出した。
「セドリック様、なにをなさって——……?」
訝しむロベリアには応えず、セドリックはただまっすぐにイェリナを見つめていた。
熱でとろけた黄緑色で。瞬く瞬間さえ惜しいと伝わる切実さで。青白い顔も、落ち窪んだ目元も、息を吹き返したように色と熱とを取り戻してゆく。
まさに薔薇色の微笑み。高貴なる大公子息の心からの笑みだ。
それを見て、イェリナの息が一瞬止まった。胸骨の内側で鼓動する心臓の音が、どうしてか激しい。
あって欲しいものはそこにはないのに、イェリナの心の目には美しい眼鏡が視えているような、不思議な高揚感に支配された。
セドリックは、イェリナだけが知っているまあるく柔らかい微笑みを浮かべて、真摯に告げた。
「イェリナ。どうか君の心の赴くままに」
その言葉をイェリナに贈った途端、淡く輝いていたセドリックの胸元から光が消えた。
光の消失と共に、セドリックの顔色が悪くなる。色を失い、熱も遠ざかり、まっすぐに向けられた視線が逸れる。
ほんのひと言だけの奇跡のようだった。
けれどイェリナにはそれだけで充分だった。セドリックの言葉がなにを意味しているのか。イェリナにはわかってしまったから。
イェリナは深く深く息を吐いた。鼻の奥で感じている涙の出番は、今じゃない。
目蓋を一度閉じてから、呼吸を二回。そうしてイェリナは目を開けた。ロベリアを射抜くように凛々しく、強く。
「ロベリア・マルタン侯爵令嬢様。セドリックもそう言ってくれていますので」
「……! じゃあ、サインするのね!?」
喜色に満ちた目を輝かせたロベリアが、思わず、といったように立ち上がる。それを見ながらイェリナはゆっくりと首を振った。縦ではない、横へと。
「いいえ、まさか。サインはいたしません。絶対に、しない!」
薄茶色の目がロベリアを撃つように鋭く光った。イェリナは震える指先を隠すように握り込む。
どうしてだ、イェリナ! というセドリックの叫びが聞こえるよう。信じられないものを見るような目で、セドリックとロベリアがイェリナを見ている。
(いいの、大丈夫)
イェリナは心の中でセドリックに言った。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせ、何度も胸中で呟く。
その間に、文字通りロベリアの手中にある眼鏡がミシリと悲鳴を上げるのを聞いた。イェリナは衝動的にロベリアへ飛びかかりそうになる激情を必死で抑える。
気を緩めれば頬を伝うことになるだろう涙を鼻の奥へと引っ込めて、イェリナは気丈に微笑んだ。そうしてイェリナはアドレーのやり方を参考にして、不遜にもロベリアを怒鳴りつけたのだ。
「ひとの大切なものを質に取って、なにが高位貴族令嬢ですか。もう少し賢く立ち回ってからおっしゃってください!」
以前、ロベリアに言われた言葉をそのまま返した。そしてイェリナは怯むロベリアに、続けて言葉を投げつけた。
「ロベリア様。学院の指針である自由と平等を誰よりも大切にしているあなたが、どうしてこのような真似をするのです。徽章も襟止めも付けていないのは、爵位に関係なく平等にあろうとしたからではないの?」
問われたロベリアの額から、ひと筋汗が流れ落ち、つつつと頬を伝うのをイェリナは見た。
高位貴族の代表格ともいえるマルタン侯爵家の令嬢であるロベリアは、制服のどこにも家門をあらわす紋章や徽章、襟止めをひとつも身につけていない。セドリックでさえ、家門を示す徽章をつけているのに。
「……あ、あなたの……か、勘違いではなくて? 私はあなたやサラティアの悪い噂を流したのよ」
返すロベリアの目が泳ぐ。罪悪感で滲む目、尻すぼみに消えゆく声。高位貴族然としたロベリアの姿は、もうどこにもない。ここにいるのは年相応のひとりの少女だ。
「噂がなんだというのですか。別に家業に害があったわけでもなし。ロベリア様。あなたを支持する学生を集めてみんなの前でわたしを貶めることもできたのに……どうして呼び出して話すことを選んだの? どうして今、わたしの無礼を許しているの?」
畳み掛けるようなイェリナの言葉にロベリアはとうとう言葉を失った。はくはくと声なく動く薄紅色の唇が、イェリナに反論することはない。
放心しかけているロベリアの後ろで、セドリックもまた驚きによって目を瞬かせている。
「噂以外でわたしの生命に関わる嫌がらせは、眼鏡さまを持ち出されたことくらいですね。まあ、それが致命的だったのですけれど。自分でもビックリするくらいよく効きました。今だって、こう見えて怒っているんですよ、ロベリア様。あっ、ロベリア様とお呼びしても?」
イェリナはカラリと笑って申し出た。きっと今のロベリアはこの気安い名呼びを許すだろう。イェリナには確信があった。
「……構わないわ」
ロベリアはしばらく迷いをみせたものの、結局は予想通りに許された。
流れは確実にこちらに来ている。大丈夫だ、やれる。と自分に言い聞かせ、誰にも悟られないように深呼吸をひとつ。イェリナは息を吐き出して、それから吸った。
にこやかな笑顔の盾を顔に貼りつけて微笑みを浮かべながら、緩みがちな背筋をピンと伸ばして一歩前へ出る。
「ありがとうございます。あっ、もうひとつよろしいですか? ロベリア様、本当は婚約者の方にひと言、物申したいだけなのでは?」
途端に客間の空気がひりついた。単刀直入に斬り込んだイェリナの問いが、ロベリアの美しく整った顔を蒼白にさせている。
「どう、して……わかった、の……」
「少し考えればわかります。ロベリア様の立場とご婚約者様が誰なのかに気づくことができれば、答えは簡単です。逆にどうして今まで、誰も気づかなかったの?」
イェリナの無遠慮とも取れる言葉に、ロベリアの顔が歪む。何度もイェリナの言葉に揺さぶられた紫色の瞳が涙色で滲みつつあるのが見えた。
その一方で、震えるロベリアの手中にある布に包まれたイェリナ眼鏡がカタリと鳴る。
イェリナ自作の眼鏡には、握られたくらいで音が鳴るような部品はない。レンズの枠である玉型と鼻当てを繋ぐクリングスは、難易度が高くて付けることができなかったから。
(ごめんなさい、眼鏡さま。永遠に愛しています)
イェリナは心の中で祈ってから、さらに一歩、前へ出た。
「ですから、こうしましょう。ロベリア様、ご婚約者の方に抗議するんです。仕事もいいけど、わたしを見て、と」
「そんな……そんなこと! できっこないわ! リリィだってできなかったのに!」
「できますよ、ロベリア様。セドリックや皆様を巻き込んでまで、ご婚約者様の関心を得ようとしたのでしょう?」
自信満々の笑みを浮かべて、更に大きく一歩、ロベリアとの距離を詰める。
ここまでジリジリと距離を詰めて、あと、三歩。
三歩の距離で手が届く。イェリナは手負いの獣のように「ちがう、ちがう……」と首を振るロベリアから、決して目を背けなかった。
「ご婚約者様をお慕いしておられるのでは?」
「心を寄せているに決まっているじゃない! あの方は私のすべてよ! でも、私の意思は関係ないの! 賢く振る舞っても愛してもらえない! 高貴を体現しても無関心! 婚約破棄を狙って傲慢に振る舞ってみてもお咎めはない! 幼稚なことをしている自覚はあるわ! でも、いつだって蔑ろにされているのに、今更、なにを言えっていうの!」
ついにロベリアが金切り声を上げた。心の底から力の限り絞り出したであろうロベリアの言葉には、客間の空気をビリビリと振るわせるほどの力があった。
だから。
——パキ。
勢い余った強者の力が弱者を呑み込み被害をもたらしてしまうのは、この世の理か。
ロベリアの手中にあった脆弱な眼鏡が、その叫び声と共に呆気なくへし折られたのである。




