第18話 星祭りまであと二日
アドレーは生まれて十八年目にして、はじめて敗北感を胸に抱いていた。
出会ってまだ数日というイェリナ・バーゼルでさえ、アドレーのサラティアへの想いに気づいたというのに、まさかサラティアにまったく気持ちが通じていなかったとは。
このままでは、サラティアに認めてもらえない。
セドリックに今までのことを謝罪して、名誉挽回しなければ。それが、傷心のアドレーが思いついた最優先事項である。だからこそアドレーは、恥を忍んでカーライル大公邸にセドリックを訪ねていた。
「アドレー。彼女は元気?」
セドリックは意外にも快くアドレーを迎えてくれた。
アドレーがなにをしたのか、そのせいでイェリナがどんな目に遭ったのかなんて、わかりきっているだろうに。
「サラがお嬢さんを……イェリナ嬢を立ち直らせた。今頃イェリナ嬢はサラと宵の淑女会をして笑っているところだろうさ」
「そっか。それならいい」
セドリックは薄っすらと疲労感が漂う白い顔でそっけなく言うと、アドレーを来客用の応接間へと通した。
普段なら自室へ通すところを応接間とは。顔には出さないがセドリックはアドレーの所業が相当頭にきているらしいことが読み取れた。
やはり、そう上手くセドリックとの関係を修復できるものではないのか。サラティアの将来の生活を理由にして主人の意志を聞かずに独断専行したのはアドレーだけれど。
アドレーがますます萎れて頭を垂れると、静けさが支配する応接間にセドリックの冷たい声が響いた。
「……ところでアドレー。君、いつから彼女のこと名前で呼ぶようになったの。僕としては認められないのだけれど」
「サラには許しているのに?」
「ビフロス令嬢は別。彼女の友人だから。ではアドレー。君は、なに?」
セドリックの神秘的な黄緑色の目がスッと細まった。セドリックから突如として湧き出した圧に、アドレーは自分の主人に余裕のなさを見た。
今思えば、セドリックとロベリアは、性格的に相性が悪いのだ。そんな二人を一緒にさせようとしていたなんて、どれほど周りを見ていなかったことか。アドレーはピリピリと肌が粟立つのを感じながらも、セドリックへの気安さを失くしたりはしなかった。
「その理屈は……心が狭すぎるんじゃないのか、セドリック」
「それはアドレーの自業自得。君の主人として君の尻拭いを僕が今している」
「……すまない」
アドレーはばつが悪そうに項垂れて、セドリックの深く長いため息の音を聞いた。
元はといえば、アドレーが独断でロベリアと手を組み、中途半端にロベリアを切り捨てたのが悪い。
アドレーがロベリアに近づいたのは、すべてサラティアのためである。
将来、サラティアと結婚してセドリックとともに不毛の地セーリング領に行くことが決まっていたアドレーは、少しでも領地での暮らしが豊かなものになるように、と豊富な財源を有するマルタン侯爵家の令嬢ロベリアに近づいた。
娘を溺愛しているならば、不毛の地での生活をなに不自由なく送らせるためにセーリング領の領地開拓に大金を注ぎ込んでくれるだろう、と。
領地が暮らしやすくなれば、サラティアに辛い思いをさせずにすむ。
「まさか、こんなことになるとは思わなかったんだ。イェリナ嬢が大事にしている物が学生寮の金庫にある、とロベリアに話して持っていったのは俺だ。それと引き換えにロベリアと縁を切った」
「その結果がこれだ。アドレー、もし君がビフロス令嬢を奪われたらどう思う。それほどのことを、君はした」
「本当に、すまない……」
「アドレー、君の謝罪は受け入れない。君が謝るべきなのは僕ではない。彼女が許すなら僕も許そう」
そう告げたセドリックは、言葉とは裏腹に柔らかい表情でアドレーを見ていた。
アドレーは知っている。セドリックが本当に心を許した人間を簡単に切り捨てられないことを。それに甘えて好き放題してしまった自分の愚かさを。
アドレーは手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握ってセドリックの言葉を待った。
「いいかい、アドレー。よりによって君は彼女の魂に等しいメガネを売り渡した。……それは決して、許されるものではない。僕が取り戻すまでアドレーには彼女を支えてもらう。僕だと思って仕えて欲しい」
「承知した、……が。メガ……メガネ、だったか。そんなに凄いモンなのか?」
「少なくとも彼女はメガネを愛しているよ。僕じゃなくてね」
「いや……それは……」
それはないだろう、と言い切る前に、セドリックが沈痛な面持ちでアドレーの言葉を遮った。
「……時々、君にも熱っぽい視線を送っているときがあるんだけど、気づいてた?」
「はぁ? そんな覚えはないぞ!」
「だろうね。アドレーはサラティア嬢しか興味がないから」
「なんだって、そんな……イェリナ嬢は気が多いのか?」
「そんなことあるわけないでしょ。理由もわかってるから許してるだけ。僕だけを見て欲しいけれど、そんなことをしたら彼女の魅力が損なわれるから。……それでアドレー。君は僕の元へと戻り、彼女を認める、ってことでいいんだよね」
どうやらアドレーはセドリックにからかわれたらしい。急に真面目な顔で真剣な声を発したセドリックに、アドレーは神妙な面持ちで頷いた。
「ああ。イェリナ嬢こそ、未来のセーリング子爵夫人だ」
イェリナに自覚があるかどうかは置いておいて、彼女はセドリックを真剣に慕っている。それに、イェリナといるときのセドリックのほうが、ロベリアといるときよりもいい顔をしているのだから、どちらを選べばいいかなど明白だった。
「そう。ならアドレーにも教えておこう。今の君になら教えられる。君にも少なからず関係のあることだよ」
セドリックの黄緑色の目がキラリと光った。
「カーライル家の血のことだ」
アドレーがハッと息を呑む。
何代か前にカーライル家の姫がローズル家に嫁いでいる。薄くはあるけれど、アドレーにもカーライル家の血が流れていれるのだ。
セドリックはアドレーの目を真っ直ぐ見つめてこう告げた。
「アドレー。我らがカーライル家の血は呪われている。……その呪いを祝福に変える鍵となるのが……彼女であり、メガネなんだ」
§‡§‡§
「サラティア様……アドレー様はどうされたのでしょうか……」
翌日。アドレーはあの後、カーライル大公邸から戻ることはなく、今朝も連絡が来なかった。
昨夜はビフロス伯爵邸にお世話になったイェリナは、ビフロス家の馬車でサラティアとともに学院へ向かっている。
正面に座るサラティアは、イェリナの心配をよそに涼しげな顔をしていた。
「あのひとが大事なときに連絡を寄越さないのは、いつものことなの。わたくし、思い出しましたわ」
だからいつも通り、大丈夫なのだ、とサラティアは凛々しく微笑んだ。せっかく昨日はとても可愛らしい反応をしていたのに。
イェリナは少しもったいないな、と思いながら口を閉じ、サラティアの表情をそっと窺った。サラティアは本当になんでもないように背筋を伸ばして、窓の外を見ている。その表情は穏やかなものだった。
ヤキモキしているのはイェリナだけ。サラティアはアドレーの婚約者だ。セドリックの腹心であるアドレーの。
(サラティア様にとっては、本当にこれが日常なんだわ……)
これが高位貴族の在り方なのか。将来を共にする婚約者と連絡が取れなくなった際に、こんなに落ち着いて待てるだなんて、田舎の男爵家で育ったイェリナには馴染みのない感覚だ。
今まさに連絡が取れず、どうしてロベリアと行動を共にしているかもわからないセドリックを思って、イェリナは奥歯を噛み締める。
やがて馬車は学院の敷地に入り、正面口にある馬車止めで停車した。
馬車から降りたイェリナは、サラティアに手を貸しながら辺りを警戒するように見渡した。これでもイェリナは、自分が学院でどのように噂されているのか自覚がある。
そんなイェリナの不安は、周囲を見渡した途端、一瞬で別の感情に塗り替えられた。
「凄い……これが星祭りの装飾」
「二日後には、学院中が星の海のようになりますのよ」
学院が星祭りの準備に入ったようで、それはそれは見事な装飾があちこちに施されていた。
馬車止めから学舎まで続く道の植え込みに等間隔に植えられた樹木は、星祭り用の色彩豊かな星飾りで彩られている。魔法が込められた石を飾られている庭木もあった。陽が落ちると点灯し、美しい夜間発光が見られるらしい。
(わたしはもう、踊れないけれど)
星祭りの舞踏会参加に必要な保証人と推薦人は、もう大丈夫。けれど肝心のパートナーだけが、ここにはいない。
それまで意識的にセドリックのことを考えないようにしていたのに、駄目だった。ぽっと湧き出た思いが渦となって、イェリナの心を濁らせる。
セドリックと、踊りたかった。幻覚眼鏡を抜きにしても、踊ってみたかった。あの美しい黄緑色の目に見つめられて。
イェリナの中では、セドリックとはもう踊れないことが確定していた。だって仕方がない。セドリックが選んだのは、ロベリア・マルタン侯爵令嬢だ。
貴族としての家格も淑女としての経験も、断然ロベリアの方が上。イェリナが敵うことなんて、眼鏡への想い以外になにひとつとしてない。
暗く沈みかけたイェリナの心にとどめを刺したのは、聞き覚えのある声だった。
「あらぁ? 往来が騒がしいと思ったら……田舎娘と裏切り者は、道の端にでも控えてくださらない?」
棘のある声にイェリナがサラティアとともに振り返る。
そこに佇んでいたのは、淡く輝く白金色の髪をふわりと緩く後ろでまとめてなびかせた女子学生と、女子学生に寄り添うように腰に手を回して支えるセドリックだった。
今朝もイェリナの眼鏡を基準とした記憶のポンコツ加減は絶好調だ。
もう何度も顔を合わせ、嫌味を言われ、セドリックまで奪われているというのに、イェリナたちを呼び止めた女子学生の名前が出てこない。イェリナを目の敵して悪意を剥き出しにしてくるような他人の顔と名前など、急に一致させることなんてできやしない。
(あっ。わたし……眼鏡がないからこの世界のひと達の顔と名前を覚えられなかったんじゃない。眼鏡がないことを言い訳にして、覚えようとしてこなかっただけなんだ)
イェリナが、白金色の女子学生に蔑むような視線を向けられている中で、少しも彼女を気にせず過去を振り返っていると、険しい表情を浮かべたサラティアが、スッと一歩、前へ出た。
「ロベリア様……」
サラティアがまるでイェリナを隠すか庇うかのように前へ出る。凛と張る背の後ろで、イェリナは、セドリックに腕を絡めている女子学生が、ロベリア・マルタン侯爵令嬢であることをようやく理解した。
隙のない笑顔を浮かべたロベリアが、サラティアにたおやかな手をそっと差し伸べた。
「サラティア、おはよう。……ねぇ、サラティア。今からでも遅くはないわ。あたくしの元に戻ってこない?」
「結構ですわ、ロベリア様。わたくし、自分の友人は自分で選べますのよ」
「……ふぅん、そう。あたくしよりも、そんなにその田舎娘がいいの。……ねえ、セドリック様。あんな小娘のどこがよろしいんですの?」
それがロベリアの挑発であることは、わかり切っていた。誘いに乗ってはいけない、と思う一方で、イェリナは信じたいと思うひとの、取り戻したいと思うひとの名を呼ぶ。
「…………セドリック」
「……………………」
セドリックはイェリナの呼びかけに、なにも反応を示さなかった。無言無表情で視線を合わそうともしない。
俯き加減の表情は、イェリナの位置からではよく見えない。
けれど、そこにあるべきものがない。強烈な違和感とともに、セドリックの美しい顔の白さが際立ち、血の気が失せているように思えた。
だから、無視されたことで湧き起こったセドリックへの不信はいくらか柔らぎ、不安ばかりが募ってゆく。
(どうしてしまったの、セドリック……)
そんなイェリナの心情を知る由もないロベリアは、上品な微笑みの上に嫌味を乗せた口を開いた。
「あら、取り乱したりしないのね。貴女の想いは所詮、その程度だったというわけなのかしら。なぁんだ、残念。せっかく貴女の大事な大事な宝物をいただいたのに張り合いがないわ。こんなに簡単に諦めてくれるなら、はじめからそうしていればよかったわね」




