彼は誰の空
僕が砦の西側半分の清掃を終えた時、世界はもう既に夜の最も深い場所に降りていた。道具を背負い灯を手に提げながら、静まり切った連絡通路の上を独り歩いていく。
ここは二階で石の欄干から中庭を見下ろすことができる。暗くて良く見えないが、兵士たちが訓練するにはちょうど良さそうだ。
どれだけ過去に遡ればいいのだろう。僕はここら一帯がまだ森になる前の姿を想像した。
砦は小高い丘の上にあり、全容が見える前から舗装された道の一部や外壁の残骸を見つける事ができる。砦より北東は切り立った大きな崖で、下って行くとその先に川が流れている。
旧砦跡の東側は兵舎のようになっており、兵士たちがそこに生活していたらしい痕跡も僅かに残っていた。
恐らく、砦を建てた勢力は西方面に敵を想定していたと思われる。そして建物の損傷はあまり大きくなく、実際にここで戦いが起きた形跡は見当たらなかった。
ここは戦争のための基地というより、古代の王国が国境の治安維持のために造った砦、僕はそう見当をつけた。
しかし、ここが実はどんな場所であったのかなんてことは僕の問題ではない。僕がプレシュさんに言い付かったのは清掃なのだ。
雑草や蔓、苔に黴、茸、虫は今でも大量に在住しておりまして、鳥等の巣やバラエティに富んだ屍の数々、糞尿に加え得体の知れないゲル状の何かまで、嫌がらせとしか思えない程に夥しく自然がのさばっていたのでした。
だが彼らがたとえ長い歳月をかけて繁殖し広がろうと、ものの数時間で追い払い支配を取り戻してしまえる人間という生き物は我ながら恐ろしい。僕は苦しい戦いの後で満足気に自画自賛していた。
「でも、まだ半分か。明日に持ち越し……いや考えないようにしよう。」
僕の独り言は夜の森の生きた声にかき消された。
・・・・・
ここで時はまだ日が暮れる前の少し前に遡る。それはプレシュさんが何の準備も無いのに、大掃除大会を開くとか、訳のわからない事を言い放った時だった。
「おいこらシンプルタコ野郎。道具も何も無ぇのにどう掃除すんだよ!」
「貴女!頑なに私のこと名前で呼ばないの。なんなの?」
「呼びたくても呼べねぇんだよ!こっちの気も知らねえで喚いてんじゃねぇよ!」
「悪くない!誰も!」
強気な言動とは裏腹に泣き出してしまいそうなレプと、それを見て怯んでいるプレシュさんとに板挟みにされて、僕は必死に両者を庇おうとしていた。プレシュさんも本心からレプを責めていた訳ではないし、自分の言いたい言葉を話せない辛さは彼女にしかわからないだろう。
僕は二人の心を守れるよう僕にできる最善を尽くした。尽くしながら、正直に言うと酷く気疲れしていた。根本的に僕の性に合わないのだろう。こんな事を続けていたら間違いなく身がもたない。とても無理だ。
ともかく、僕の努力によってその場は何とか収まった。
「で、プレシュさん、道具に関してはどうするんですか?」
「ええはい、それについてはあの、問題はないので。」
「実は繊細かよ!」
「何さ実はって。私は普段からそんなにがさつで図太く見えてるっていうの!?」
僕のツッコミによってプレシュさんはいつもの元気な状態へ持ち直した。二度と!ツッコミなんてしない。
「道具なら、ほら良く見てるの。」
彼女は呼吸を整えながら徐に右腕を持ち上げ肩の高さで静止させた。掌は指の先まで綺麗に開いている。
その状態から人差し指を折り曲げると、床に忽然として木製のバケツとバケツ一杯の水が現れた。短い着地の音と共に、水面はにわかに波立ち縁から少量零れてしまう。
「な!魔術、ですよね。初めてなんでびっくり。でも、今のどうやって?」
「おいタ――ぐあッ!プ、プレ、シュ……。何をした?」
レプはまたプレシュさんをタコと呼ばわりそうになる直前、乱暴にも自身の顔を左手で殴り、彼女の名をしっかり口にした。
「レプ~!!!」
プレシュさんは嬉し泣きしながら突進しレプを全力で抱きしめ頬擦りをした。レプは若干苦笑いをしていたが、満足そうだった。
その後レプが何も言わないせいで、彼女が猫可愛がりされるのをただ見守るというだけの時間がしばらくあった。
「プレシュさん?さっきの、バケツの事なんですけど?」
「ああごめんごめん。道具の話だったの。」
彼女は左手でレプの紅色の髪を撫でながら、先程同様に右手を空中に差し出し、五本すべての指を折り曲げた。直後、騒がしい物音がして振り替えると、様々な掃除道具が一通り積み上がっていた。
「はい。こんくらいあれば文句無いでしょ。」
「信じられねえ。どういう力だ。」
「ん?魔術じゃないのか?」
「そうなの。魔術じゃなくて、これは魔法さ。私のね。」
魔術とは技術であり、魔法とは能力だ。魔術が歌や泳ぎなら、魔法は単なる声や筋肉の収縮といった関係だ。ただ同じ歌い方ができても、同じ声は出せないように、魔法は個体に固有の物である。
そして魔法には二つの原則がある。変換と干渉だ。
「まさか実在するとはな。下手すりゃ二個持ちよりレアだぜ」
「さすがレプ!勘がいいの!」
「なんだそれ?好きな物を創れちゃう力とか?」
「いいやそんなんじゃねえ、こいつのは多分、できない事をできるように変換しちまう力だ。」
不可能を可能に変換する。それだけ聞くと何か途方も無い力のように聞こえるが、それはそもそも魔道全般に言える事ではないか。
「究極の変換能力、超魔法なんて呼ばれてる。そいつの何がえげつねえのかって、できない事の範囲に際限がねえところだ。つまり絶対に、何が何でもできちまうってことだ。」
超魔法、そんな大仰な名前で言われてもまったくピンとこない。そもそも魔術や魔法すらもいまいち良くわかってないのに。
「そうそう!その通りなのさ!私の魔法は何でも掴む力。掴めない物も掴めるようにする力なの。」
「掴む?」
「ああ!?そこは呼び出すとかじゃねえのかよ!」
さすがのレプも具体的にどんな力かまではわからなかったようだ。確かに、何でも掴めるというのと、道具を出現させるというのは、どうも結び付かないように感じる。
「私のは掴む力。だから手を使うんだけど、例えばこれらの道具って手が届かなくて掴めない物なの。そこで私の魔法を使うと、実際に触れてるわけじゃないんだけど、掴んでるって状態になるのね。さてここからちょっぴりややこしくなるんだけど、何でも掴めるってだけで、投げたり握り潰したり、自由に持ち運べる訳じゃないの。物によっては掴めるだけで何もできなかったり、掴めたけどすぐに離しちゃったりするのもあるのよ。だけど逆にそれができちゃう物もあるってこと。そしてそういう物を掴むのに指だけで十分だったりするのさ。
まあ要するに、今ここにある十一個の道具は右手だけで掴んでるの。わかった?」
「わかんねえよ!!!」
「プレシュさん相変わらず説明下手だな」
彼女の力は超然としていて言葉に直すのは難しいのかもしれない。今の説明を聞く限り魔法を使うには手が必要で、掴むの定義は実際に手で持つか魔力で捉えること、だろうか。捉えた物が例えば極端に重い場合は動かせないけど、軽い場合は動かせるとかそんな所だろう。
それにしても雑な説明だ。
「掴んでるっつうことは、離したらあの道具は消えんのか?」
「ええ。ルミナータのどっかの物置きに戻るの」
「あの町の物かよ!山賊と変わんねえぜ。」
「失敬な!ちゃんと許可とったしこれは借りてるだけなの。まあそういう訳だから壊したら弁償ね。」
「壊さないよ。」
掴めないを掴めるに変換する超魔法か。それは形の無い物もきっと掴めるのだろう。例えば、僕の記憶も。レプは気にしていないようだけど、プレシュさんは今右手しか使っていない……。いや、考え過ぎか。
「魔法は魔力を持つ者なら誰しもが持っている力なの。それを扱えるかは人それぞれだけどさ。」
僕は魔法を使えない。忘れているからではなく、扱い方を知らないから。人によって、生まれた時から使える者、努力を重ねて漸く使える者、それでも一生使えない者と十人十色だ。いつか僕に魔法の才が目覚めるなら、僕は、誰かを守るために使いたい。と、なんとなく思った。
アイテムも揃い、いつでも始められる態勢に入ったが依然としてやる気は起きなかった。日も傾いて大分経つこの時間から、民家の何倍もある大きな砦を一人で掃除してこいだなんて鬼畜の所業だ。
「あの、やっぱり僕の労力だと一日かけても微々たる成果しか上がらないと思うんですけど。」
「いや、アーネストの労力は異常値だぜ。規格外にも程があんぞ。」
「レプ!アーネスト君の名前まで!でもあんまり無理はしノァっ!」
またもや抱擁を強要しようとするプレシュさんを「調子に乗んな」と押し退けた。
「レふのいうとおりアーれストは身らいろうろく高めらの。んしょ。だから西側半分の清掃を頼もうと思ってさ。」
高めと言われてもいまいち基準がわからない。町民たちに比べたら、腕っぷしは強いかもしれないが、精々山賊と互角くらいだ。その上、今求められてるのは諸々の掃除スキルであって、体力だけで片付く訳ではない。
「西側半分?」
「うん。旧砦跡を大きく分けたうちの西側の方ってことさ。今居るのが東側なんだけど、主にこっちを生活の中心にしようと思って。」
「じゃあ西側要らないんじゃないですか?」
「要るの。これだけ広い城だもの余す所なく有効活用しなくちゃね。」
プレシュさんを説得するのはどうも不可能らしい。だがまだ僕の中では若干めんどくさいが勝っている。
「でもどうせ最終的に魔術を使って完成させるなら、あまり意味は無いと思うんですけど。」
「そんなに嫌なら無理強いはしねえだろ。な?」
「まあ、そんなに嫌なら、うん。」
薄々わかっていた。初めからやる以外に選択肢は無いにだと。酷く他人行儀な二人の真顔にどこか傷ついてる自分がいた。
「僕に、任せてください。」
「よ~し!レプ、動けない貴女には知恵を貸してもらうの。この城を安全かつ快適な行動拠点にするために、壊れた部分は修復して、外観も間取りも改造したいし、あと色々な効果の結界もいっぱい!張り巡らせておきたいから、魔術式の構成やら計算やらをお願いしたいの。」
「命令すんなタコ。」
「ええ……。あ、オッケーってことなの?わかりづらいわね。」
なんか大変そうだな。でも楽しそう。
僕は一人黙って道具を抱え、抱え切れない物は背負い、西へ向かって歩いていった。二人の声が段々遠ざかっていく。僕は早く無心になりたいという一心で、現場を目指して半ば急いだ。
・・・・・
記憶を失って間もない頃は、頭が混乱していて常に眠たい感覚に襲われていた。しかし今は逆に、妙に目が覚め切っていた。
と言っても昨日は宿屋で十分睡眠をとったし、別におかしな所はない。ただ、僕にはその前の記憶がない。眠くないというのが、妙に新鮮なのだ。
僕は壁に凭れかかって冷たくざらついた廊下に座り込んで小休憩していた。低くない天井の弱い明かりに縁取られたそこだけを、ぼうっと眺めていた。一つ断っておきたいのは、決して迷子になどなっていないという事だ。
その気になればすぐにでも二人の元までたどり着ける。と、思いながら、慣れない労働で疲れた身体を休ませている間に、その気になる事は無かった。
「いっそここで寝ちゃうのも、ありなんだけどなぁ。」
僕の目は冴え渡り、天井の模様にも満たない極僅かな起伏の陰影を観察していた。
「キッ!」
「ん?」
物音か鳴き声か判別し難い音に、僕の体は過敏に反応した。暗闇に目を凝らしていると背後がやけに寒くなった。
「二人が待ってるか。道具は、もうめんどくさいからここに置いてまた明日取りに来ようかな。」
僕の独り言に返事をするように箒の一本が倒れ、僕の体はまた過敏に反応した。なんとなく、もう二本の箒も、ゆっくり倒して寝かせておく。
僕は灯をかざしながら、下へ降りるための階段を探していた。実は途中、二つほど階段を見かけたのだが嫌な予感がしたので他のものを探すことにした。決して怖くなどはない。ため息を吐こうとした刹那、あの感覚が去来する。
塔の螺旋階段で一階に下りたあたりから、意識が不明瞭であると自覚する。地下。一つの戸を開く。急勾配の階段を降りている。嫌な予感がしている。両方の手首に痛みが走ると、落下する。
気が付くと、僕は真っ黒な底に、うつぶせになって倒れていた。前と同じ記憶の混乱だろうか。足を踏み外して転がり落ちて気絶でもしていたのか。兎に角、意識は回復したようだ。
すべてが闇で何も視ることができない。ふと見上げると微かな光が漏れていた。足先が何かに当たり、それが階段だとわかると、僕は手探りで一段ずつ登っていった。
光が強くなるにつれて、違和感も強さを増していった。そしてとうとう頂上に着いた時、僕は絶句した。
「よお。」
そこは夜明けの空の上だった。はるか遠い下方に雲海や大地を見下ろせる。天高い塔の頂きだった。
「ここは、現実じゃない。」
円形の塔の縁に繋がっている腰掛けに、男が二人いた。一人は小綺麗な衣装を身に纏った紳士風の男で、反対側に座るもう一人の男は、襤褸布を縫って頭や腕を通すための口を切っただけのような、服というにはあまりに雑な装いだった。
僕はさっきまで夜の旧砦跡に居たのに、気が付くと人類には到底到達できないような高度にある謎の空間に立っている。一体これは何だ?
「明晰夢というやつだ。」
紳士風の男が言う。
「いいや違うね。死後の世界ってやつさ、ここは。あんたやおれと同じように、あのガキもとっくに死人だよ。」
雑な男が言い返す。
僕が死人というのはあながち間違いではない。僕という人格は記憶の欠けた器の上に成り立っているものだ。今まで生きてきた本来の僕は、死んだと言ってもいいかもしれない。
僕はこの二人の男の声を知っている。正確には覚えている。少し年老いた彼は、レプを大切にしていた記憶の持ち主の声と同じだった。そしてもう一人は……。
「ここは地獄かもな。だってよぉ、あんたもおれもあのガキも皆、同類だ。なあ人殺し。」
彼の愉快そうな嘲りには隠しきれない憎悪があった。