始まりの月光
対岸の木が小指の爪程しかないくらい遠くまで澄み渡る湖に、月明かりが美しく映っている。僕は生まれた時からこの景色が好きだった。それは覚えてる。でも僕は何のために生まれてきたのか忘れてしまった。何か大切な生き甲斐があった気がするのに。
どうして、両目から涙が溢れてしまうのだろう。どうして、この涙の止め方も忘れてしまったのだろう。
何かが横切り、風が当たって右の頬が冷える。その何かが大きな月を隠すまで高く跳ねて、湖に飛び込んだ。水しぶきで僕の湿っぽい顔は更にびしょ濡れになった。
「あはは!アーネストラトスくん!君も来なよ。夜の水浴びは気持ちいいの。」
至極当然の事のように、彼女は僕をそう呼んだ。
「プレシュ、さん。僕を元気付けようとして……。さすがに冷えますよ。」
「風邪なんてひかない。そんなやわじゃないもん。私は人間じゃないからさ。」
白金色の髪は濡れそぼって月光をより怪しく反射している。白いレースで雪の模様をあしらったドレスも、水を吸収して重そうだ。けれど彼女は夏真っ盛りの子どものように元気に水遊びをしている。両手で作った水鉄砲を僕に向けてかけたり、両手で掬った水の塊を僕に対して投げたり、その度に笑顔を咲かせて水面を叩いたりしている。
今はどちらかと言えば冬に近い時期なのに、寒さなど意に介さず無邪気に僕を水洗いしている。もうそろそろ僕も、彼女のやってることが嫌がらせだと気付いて、水の届かない所まで避難しようと歩き出した。しかし、振り向き様に背面をやられ、僕は全身綺麗に潤ってしまった。
「いやぁ、やっぱり水浴びは最高なの!」
「うう。何だか僕、凄く惨めな気分です。」
水浸しの僕の隣にプレシュさんが腰をおろしてすり寄ってきた。素肌に張り付く不快感が僕の気を重くする。仲良く並んで座っていると、まるで僕も湖から這い出てきたみたいに見えてしまう。僕は頭と両膝を抱え込んで泣き出しそうになった。
「大丈夫さ。惨めでも、生きているだけで偉いんだから。」
「生きているだけで偉いって、僕に、一体何があったんですか?」
「それは教えてあげなーい!」
彼女は僕の記憶から生まれた人らしい。いや正確には人ではなく、人間の精神を糧に肉体を形成するお化けなのだそうだ。彼女は僕の生まれてから今の今までの生活史を吸い取って、肉体を得たらしい。
どう考えても普通なら信じられる話ではないが、僕は彼女のことを信じることにした。初対面の彼女――記憶が無いので実質初対面、に対して妙な安心感と親近感を覚えてしまうのは、彼女の身体が僕の記憶で構成されているからと思うと納得してしまった。
かくして、彼女が僕の半身と言うべき存在である事を整然と考えてみたが、肝心の答えは一向に得られない。尋ねても教えてくれないのだ。
「何故ですか?」
「だーかーら。君はこの記憶を捨てたがってたの!自分の内に持ってるのが堪えられなくて吐き出した毒なの!バイ菌なの!爆弾なの!もし、教えちゃったらさ。」
「教えちゃったら?」
プレシュさんは顔を極限まで近付けて、僕を優しく脅迫するように言った。
「君、死んじゃうの。わかった?」
僕は相当厄介な物を抱えていて、この少女はそれを肩代わりしてくれたようだ。彼女の言うことが真実ならば。
「この話、実は二回目なんだけどさー。一気に記憶抜けちゃうと反動で頭が混乱しちゃうみたいなの。まだ本調子じゃないのさ。」
「ごめんなさい。」
「謝ることないって!で、私たちの今後の目標は覚えてる?」
「いやあ覚えてる……。」
僕とプレシュさんの、今後の目標?そういえば、記憶を失って、それを取り戻すこともできない僕は、今後どうやって生きていけばいいのだろう。
記憶の無い僕に生きる意味なんてあるのか。もう死んでしまおうか。でもどうせ死ぬならその前に、何故僕がこんな事になったのか思い出してから死にたいな。
「あの、記憶有っても無くても僕もう死ぬので、記憶を返してもらえませんか?」
「ばっかもーーーーーーーーーーーーーーーーーん!」
「うるさ。」
「かもーーーーーーーーーん!」
彼女の大声があまりにも張り切り過ぎていたので、対岸に反響して、僕は二度渇を入れられた気分になった。
「あのさぁ、簡単に死ぬのねぇ君って。死んで悪い事無いけど、良い事もないの。ていうか、そんな安い命なら買い手がいるんだから売っちゃいなさいな。死んだら0ルビンでしょ?」
「ルビン?」
「流通貨幣も忘れちゃったの?」
「ああいや、大丈夫。覚えてる。」
彼女はとんでもなくわざとらしい溜め息を吐いた。僕は何故呆れられなければならないのか。僕がこうなったのは彼女のせいでもあるというのに。
「私たちはこれから大公国首都、ゲネトスギルトに行くの。」
「たいこうこく?」
「ウルムウェイン大公国!大陸で二番目に大きい国!ってことになってるけど、私は地理は詳しくない!」
「そこに行って何をするんだっけ?」
「ロストの研究室を強襲して、【ティアーズ】を取り返す!あれは元々君のお母さんの物なの。あ、言っちゃった。」
「え?」
「と、とにかく、あれを手に入れないことには何も始まらないから、君はその事だけに集中していればいいの!」
「ロスト、ティアーズ?」
何やら僕は犯罪の片棒を担がされそうな予感がするけれど、僕はその魅力的な響きに抗えなかった。その色も、形も、それが何なのかさえわからないけれど、僕はそれが欲しくて堪らなくて居ても立っても居られなかった。
この先に何が待ち受けているのかわからない。でも、今夜の月は、
「そんなの関係ない!心に従え!」
と言って背中を押してくれているような気がした。だから僕はびしょ濡れのままで一歩踏み出すことにした。
これはきっと、僕の再生の物語だ。