港へ
レジアの島から乗って来た舟は少し流されていたが、幸い壊れていなかった。
ライガルトはその舟に再び乗ると、シュリーディアの案内でキュラの港を目指す。
やがて、水平線の向こうに陸が見えて来た。あの陸がどこであれ、人間がいればその先はどうとでもなる。
「ライ……あたし、人間には見付からない方がいいわよね」
陸が近付いてくると、シュリーディアは泳ぐスピードを落とした。
「そうだね。たぶん、大騒ぎになる。人魚を見たことがあるって船乗りもいるだろうけど、そんな人は一握りだろうしね」
港には、船乗りと船に乗る客、荷物を運ぶ商人やその使用人など、たくさんの人々がいる。速く泳ぐことのできない人間がいくら捕まえようとしたところで、人魚のシュリーディアがそう簡単に捕まることはない。
だが、港が大騒ぎになるのは目に見えた。
「ありがとう、シュリーディア。俺の運が余程悪くない限り、ここからなら港へ戻れるよ。きみは仲間の所へ戻って」
「……うん」
シュリーディアは海からライガルトを見上げる。潤んだ青い瞳に見詰められると、ライガルトはこのまま時間を止めてしまいたい、と本気で思う。
だが、それはどんな魔法使いにもかなわない。
ライガルトは舟から身を乗り出し、シュリーディアの額にキスをした。
「それじゃ」
ずっとここにいても、何かが変わるものでもない。ライガルトは強くオールを握りしめた。
次第に離れて行く魔法使いを、人魚は海面に浮かんでじっと見詰めている。
その姿が遠くなって、ライガルトにそれがシュリーディアだと認識できなくなってきた。何となく影がある、という程度だ。それでも、彼女はそこを動かなかった。
ライガルトは舟をこぎ続け、近付く陸が見慣れた港だと確認する。間違いなく、そこはキュラの港だ。
連絡船が停泊している場所は避け、少し離れた砂浜へ上がった。舟を下りて足下に地面を感じ、無事に戻れたのだと安堵のため息をつく。ようやく自分の居場所へ帰って来られたのだ。
ライガルトは、急いで師匠のロドクスが待つ家へと向かった。
「ライガルト! お前、自力で戻って来られたのか」
帰って来た弟子を見てロドクスは驚き、妻のエムルと共にその身体を強く抱き締めて無事を喜んだ。
戻る予定の日を過ぎても、弟子が戻らない。気になったロドクスは港へ赴き、嵐の中で人が落ちた、という話を聞いた。
詳しく話を聞くとそれがライガルトとわかり、ロドクスは肩を落とす。エムルはショックを受けて、家事一切が手につかなくなった。
彼の両親にこのことをどう説明するか、と悩んだ次の日。
亡くなったと思っていたライガルトから、魔法による連絡が来た。
ライガルトがレジアの島から出した小鳥は、ちゃんとロドクスの元へと着いたのだ。
しかし、ロドクスにはライガルトがいるその島の場所がわからない。エムルが早く迎えに行ってやれとせかすが、居場所がわからなくてはロドクスも動きようがなかった。
ガドルバが潮の流れを変えたせいで、現在の連絡船の航路は完全に別ルートをとるようになっている。その関係で、レジアの名前まで載っている海図が現在では作られていないのだ。
細かい島の名前まで載っている昔の海図を探し、ロドクスはようやくレジアの島を見付けられた。航海ルートからは大きく外れているものの、位置的にはセリアンの街と今回ライガルトが向かったエドルの街との間に存在する。
ロドクスは、弟子の召喚術の腕を十分把握していた。レジアの島は無人島のようなので人に助けを請うことはもちろん、魔獣を呼び出してどうこうは無理。ライガルトも動きようがないだろう。
場所がはっきりしたのでレジアの島へ向かおう、という時に、ライガルトが戻って来たのだった。もう少し帰りが遅ければ、迎えに行こうとしたロドクスと入れ違いになるところだったのだ。
「魔物が人魚を……そうか」
普通の人なら、人魚の話をされてもすぐには信用しないだろう。ロドクスも最初は突飛にも思えたが、ライガルトにはそんな作り話をする必要はない。
それに、ライガルトがレジアの島を以前から知っていた、とも思えなかった。
「ガドルバはちゃんと始末できたし、シュリーディアもそれで解放できたと思うけど」
「そうだな。その魔物が単体でやっていたことなら、もう安心だろう。それにしても、相手が老体だったとは言え、海で魔物退治をしたか。腕を上げたな」
「あれは、シュリーディアが助けてくれたからだよ。俺だけなら、呪文を唱える前に海の中へ沈んでたかも知れないしさ。ほとんど勢いでって感じもする」
魔物退治をしたことで、かえって自分が見習いだと強く意識させられた。まだまだの実力だ、と。
今回のことは、ひとえに運がよかっただけだ。
「そう思うのなら、さらに精進することだ。召喚術もまだ弱い。明日からまた、しっかり鍛錬するのだな」
今日はゆっくり休めと言われ、自分の部屋へ戻る。エムルが用意してくれたおいしい料理を味わった時もそうだったが、久々のベッドに横たわり、帰って来たのだという実感がわいてきた。
シュリーディアは……ちゃんと仲間の元へ戻ったかな。
まぶたの裏に彼女の顔を思い浮かべつつ、疲れ切ったライガルトは眠りに落ちる。
次の日からは、すぐにいつもの生活に戻った。
まるで何もなかったように、でも心のどこかで何か物足りなさのようなものを感じながら。
☆☆☆
ライガルトがセリアンの街へ戻って来て、一週間が経った頃。
「妙な奴が港で保護されたらしいぜ」
港で魚を仕入れて来た魚屋の大将から、そんなことを聞かされた。
「ライって連呼してるらしいが、お前のことじゃないのか」
そう言われ、気になったライガルトは港へ向かう。
保護ってことは、ナイフを振り回すような奴が捕まったって訳じゃないんだよな? でも、名前を連呼するような知り合い、いたかなぁ。
「ライはこの港へ戻ってるはずなの。ライはどこへ行ったの」
船舶管理事務所にいると聞いてやって来たライガルトは、思わず立ち止まった。扉の向こうから聞こえた声は、自分が知る誰かと似過ぎている。
まさかと思いつつ、慌てて中へ入った。
うわっ、本当にいる。嘘だろ。そっくりな誰かじゃ……ないよな。
思った通り、そこにはシュリーディアがいた。イスに座らされ、周囲を困惑顔の男達数人に囲まれて。
泣きそうな顔で男達に訴えているが、誰も事情がわからないので頭をかくだけ。
「ライって言われてもなぁ」
「同じ名前の奴なんて、港を歩けばいくらでもいるぜ」
望む答えがなく、本当に泣きそうになったところへ現れたライガルト。彼の姿を見た途端、シュリーディアの顔が一気に明るくなった。
「シュリーディア?」
「ライ!」
シュリーディアは叫びながら立ち上がり、よろよろと覚束ない足取りでライガルトの方へ歩こうとする。
シュリーディア、裸足じゃないか……って、ちょって待て。どうして足があるんだ。
そう思いながら、ライガルトはシュリーディアのそばへ駆け付け、よろめく彼女の身体を支えた。
「何だよ、ライってライガルトのことだったのか」
「このお嬢ちゃん、お前の知り合いか?」
「う、うん。騒がせてごめん。すぐ連れて帰るよ」
ひとまず事務所から連れ出し、魔法でとりあえずの靴を出す。しかし、それはいいとして、シュリーディアはうまく歩けないようだ。
けがをしている訳ではないようだが、早く話を聞きたいライガルトは彼女を背負った。港の隅の人気がない場所へ移動し、シュリーディアをそこにあった木箱の上に座らせる。
「シュリーディア、どういうことなんだ。どうして港にきみがいるんだよ。それに、その足は」
白い足。レジアの島で見たシュリーディアの足だ。人間と同じ形で、どこにもうろこはない。
しかし、あの島にいた時はもう少しちゃんと歩いていたはず。二本足で歩くのはそれなりに慣れているだろうに、さっきはずいぶんよろよろしていた。
「あのね、海の魔女に言って、足をもらって来たの」
「足をもらってって……そんなことができるんだ」
そういった存在が本当にいることに、ライガルトは驚かされる。
海の魔女と言うからには、恐らく人間の魔法使いより強い魔力を持っているのだろう。人魚に足を与える術くらいはある、ということか。
「だけど、どうして。レジアの島ではガドルバの呪いで人間にされてたけど、やっと解放されて本来の人魚に戻ったんだよ。それなのに、また足をもらうって」
「だって、人魚のままだと港へ行けないもの。これならライのそばへ行けるから」
「……もしかして、俺のため?」
シュリーディアはにっこり笑ってうなずいた。
ライガルトと別れた後も、シュリーディアはどうしても彼のことが忘れられなかった。時間が経てば、記憶が薄れるかも知れない。でも、それまで待つことは無理だった。
こんなに深く濃く、彼の姿が心に入り込んでしまったから。
しかし、人魚である彼女が港へ向かうことはできない。多くの人間の目に触れれば、何をされるかわからないからだ。
人間に捕まり、見世物にされた仲間がいた、という話も聞く。自分もそんなことになってしまえば、ライガルトのそばへ行けない。
それなら、人間と同じ姿になればいい。
シュリーディアはあっさりと解決策を思いつく。
自分は人魚だ。幸い、上半身は人間と同じ。この魚の尾が人間の足になれば、人魚とばれることはない。どこにでもいる人間の姿なら、捕まらないし、見世物にされることもないだろう。
海の魔女ならそういう力があると言われているし、実際に頼みに行くと本当に足をくれた。
海を出るまでは、人魚と同じように泳ぐことができる。しかし、海から出た途端、その足で大地を歩くことはできても二度と人魚のようには泳げない、と言われた。
もちろん、人魚に戻ることもない、と。
それを承知の上で、シュリーディアはキュラの港へ来た。迷いはない。
ガドルバの術で得た足は、自分が人間だと思い込んでいたせいか、それなりに歩けていた。新たに得た足は術の種類が違うせいか、まだ使い慣れていない。だから、よろよろしてしまう。
キュラの港へ向かったとは行っても、ライガルトは港に住んでいる訳ではない。それは知っていたが、そこからどう行けばいいかわからず、まともに歩くこともできず、シュリーディアはライガルトの名前を呼び続けているうちに保護された。
そんな話を聞かされ、ライガルトは呆然となる。
シュリーディアにもう一度会いたい、と思った。しかし、人魚のシュリーディアと再会したところで、それ以上何かが変わる訳ではない。会えばかえってつらくなる。
それに、広い海で再びシュリーディアを見付けられるとは思えなかった。
シュリーディアもライガルトと同じことを思い……彼女は自分の想いに従い、行動に移したのだ。
「シュリーディア、海の魔女は慈善事業をしてるんじゃないだろ? 足をもらう代わりに何を差し出したんだ?」
こういう場合、絶対に何かを代償に差し出しているはず。ガドルバの呪いと変わらないような何かを求められたのでは、と思うと聞くのが怖い。
「あたしの命」
「いのちっ?」
ライガルトが思わず聞き返すようなことを、シュリーディアはあっさり言ってのける。
一瞬、ライガルトは血の気が引いた。こうしてシュリーディアは生きているのだから、命を奪われた訳ではないようだ。しかし、足の代償が命とは、とんでもない一大事ではないか。
「命って、何かしないと殺されるとかって話じゃない、よね?」
「ううん、そんなじゃないわ」
それを聞いて、少しほっとする。
「じゃあ、どういう……」
「人魚の命は長いの。だから、それと引き替えにしたわ」
当然のように言い、シュリーディアは笑う。
「それは、寿命ってこと?」
「寿命って言うか、余命……かしら」
この際、表現なんてどうでもいい。
「だけど……だけど、そんなことをしたらシュリーディアは……」
「大丈夫よ。あと、五、六十年くらいは残ってるはずだから」
「それはつまり、人間と同じくらいの寿命になったってこと?」
「海の魔女はそんなこと言ってたわ」
本当ならあと何百年と生きられたであろう、人魚の命。シュリーディアはためらうことなく、その長い命を差し出したのだ。
ライガルトと一緒にいたい、という一心で。
「ったく、無茶なことを」
ライガルトは、座っているシュリーディアを強く抱き締める。
「ありがとう」
他にも色々と心の中で言葉が飛び交う。でも、今はそれだけしか言えなかった。
レジアの島で交わしたキスは、海の味がしてしょっぱかった。キュラの港で交わすキスは、とても甘い気がする。
誰かを助けたら、いいことがある。
エドルの街で、占い師の老婆がそんなことを言っていたな、と思い出した。珍しい運勢だ、とも。
彼女に見えたライガルトの運命は、このことだったのかも知れない。
「シュリーディアに合う靴、探しに行かないとな。それと、歩く練習もしないと」
今はいているのは、魔法で出した一時しのぎのものでしかない。これからシュリーディアに必要なのは、本当の靴をはき、人間として歩くこと。
「ライ、一緒に歩いてくれる?」
「もちろん。ずっと隣にいるから」
文字通り、命と引き換えに得た足。シュリーディアの足は、人間になったシュリーディアは、ライガルトが一生守るべきものだ。
「行こうか」
「うん」
どこか怖々とした歩みのシュリーディアを、ライガルトはその腕でしっかり支えた。