人魚のシュリーディア
人間だと思っていた。人間だと疑わなかった。
いや、人間であることが大前提のはずだ、普通は。
だから「海の中では人魚になってしまう呪い」をかけられている、と思っていた。ライガルトだけでなく、シュリーディア達自身も。
ライガルトはシュリーディアの言葉に呆然となりながらも、彼女に海まで連れて行ってほしいと頼まれ、美しい人魚を抱き上げる。足が魚の形になっているため、歩くことができないのだ。
海の中へ運ぶと、シュリーディアはするりとライガルトの腕を抜け、水の中を泳ぎ出す。まだライガルトのひざより少し上の水位でしかないが、そこまで来れば水の中を移動するのに支障はないようだ。
昨日も人魚になったシュリーディアを見ている。だが、彼女は本当の姿に戻った、とライガルトは思えた。
その生物が本来持つ美しさ、みたいなものを感じるからだろうか。
「おーい、兄ちゃん。俺達も運んでくれないかー」
「え……」
砂浜には、まだ海へ戻れないでいる多くの人魚達が残っている。シュリーディアと同じように、砂浜でのんびりしていたところへいきなり人魚に戻り、そこから動けなくなったのだ。
今の状態は、陸に放り上げられた魚と同じだ。いざとなれば自力で戻れないことはないのだろうが、それには腕の力に頼るか跳ねて移動するしかない。幸い、呼吸は問題ないようだ。
男性の人魚は大きい。シュリーディアと同じように、ライガルトが彼らを抱き上げるのはさすがに無理だ。小さい人魚であっても数が多いから、同じようにしていたらライガルトの腕が保たない。
どうしようかと考え、ライガルトは彼らがこれまで家の壁として使っていた板を砂の上に置いた。その上に載るくらいなら、彼らの力でもできる。
その板を、ライガルトは土の力を使って海へ向けて押し出した。板は砂の上をすべるように移動する。海へ着くと、人魚達は板から転がるようにして海の中へ入る。
そんな作業を繰り返し、何とか全員が海へ戻ることができた。そんなに強い魔法ではないと言っても、回数が多かったのでライガルトの額に玉の汗が浮かぶ。
どうせなら、全員を宙に浮かばせ、一気に海へ……といきたいところだったが、そこまでの魔力も技術力もない。帰ってからの課題だ。
「兄ちゃん、ありがとなー」
海に入った人魚達は、手を振って次々に沖へ泳いで行く。海の中にある彼らの本当の家へ向かったのだろう。
水平線はきれいなもので、昨日見た岩礁の影はまるでない。それに、彼らの様子を見る限り、眠くもならないし、潮の流れで押し戻されもしないようだ。
彼らの記憶と姿が戻るのと同時に、島を囲んでいた檻のような岩礁と島へ押し返す潮の流れは消え去ったらしい。
「ライ」
他の人魚達が泳ぎ去っても、シュリーディアだけは残っていた。
「昨夜光が見えた所に、光る石があった。砕けてなくなったけど、恐らくあれがきみ達の呪いだったんだね」
魔法を何度も使って身体が熱くなり、ライガルトは服を着たまま海へ入る。座ると胸の少し下まで冷たい水が来るが、今のライガルトにはとても心地いい。
そのそばへ、シュリーディアが泳いで来た。
「どういう仕掛けになっていたかは知らないけど……ライのおかげであたし達は本当の自分に戻れたわ。ありがとう」
術者はまだわからない。だが、こうして島民達が本来いるべき所へ戻って行くのを見れば、呪いは解けた、と考えてもいいだろう。
「記憶が戻ったのなら、もうわかるよね。聞いてもいい? どうしてこんなことになってたのか」
「魔物のせいなの」
この環境で呪いをかけるとすれば、魔物か海の魔女かとんでもない魔力を持つ人間のどれかだろう、とは予想していた。真相は、一番ありがちな魔物の仕業だ。
「ウミヘビの魔物ガドルバに、あたし達は記憶と姿を奪われたの」
ガドルバはたまたま近くを泳いでいたシュリーディアを一目見て気に入り、自分の妻になるように言い寄って来たという。積極的なのも、度を超せば迷惑なだけ。
しかも、シュリーディアがどうしてもいい返事をしないことに腹を立て、近くにいた仲間の人魚達と一緒に島へ閉じ込めた。
島そのものは元々実在していたが、ガドルバはそこから出られないように岩礁を作り出し、潮の流れも変えてしまう。眠りを誘うようにしたのは、人魚の強い尾の力で跳躍して岩礁を飛び越えたり、潮の流れに逆流して逃げたりさせないためだ。
シュリーディア達は自分が人魚であるという記憶を奪われ、島での生活を余儀なくされる。さらにガドルバの呪いのせいで「島に閉じ込められた人間」と思い込んでいた。
本来、人魚である彼女達は海にいる方が当然落ち着く。だが、自分は人間だと思っているので、陸上の生活をちゃんとしなければ、というジレンマに苦しめられた。
「シュリーディア達は人魚になってしまうんじゃなく、人間になってしまう状態にされてたのか。人魚が陸上で生活させられる、なんて相当ひどい呪いだな。しかも、海の中で本来の姿になってるのに、これが呪われた結果だって思わされるんだから」
ふられた仕返しにしては、二重三重では済まない程の仕打ちだ。しかも、大勢の仲間まで巻き添えにして。
シュリーディアが憎くなったからと言って、人魚全てが憎い、となったのだろうか。
「ウミヘビか。偏見だろうけど、そういうこと、やりそうだなぁ」
しかも、そういう魔物に限って、厄介な魔法が使えたりするのだ。呪われる方にすれば、たまったものじゃない。
やがて、シュリーディア達の感覚はどんどん麻痺し、記憶が奪われたことさえもよくわからなくなってくる。海と砂浜のわずかな移動範囲しかない中で、ただ時が過ぎるのを見ているだけ。
「陸で動き回れないのは、呪いのせいもあるだろうけど、シュリーディア達が足で歩き回ることに慣れてなかったせいじゃない? 今思えば、ちょっと不自然な歩き方だったしさ」
ひょこひょこと、軽く浮くような歩き方だった。かかとから足の裏をしっかりつけて、という歩き方ではなかったのでそう見えたのだろう。
熱い砂浜を歩くならそういう歩き方になりそうだが、島の砂浜はそんなに熱くない。その時には他の色々なことに気を取られていたから気付かなかったが、誰もがそんな歩き方だった気がする。
「島には子ども達がいなかったけど、それはどうして?」
「人魚の子どもは、大きくなるまでは海底ですごすの。あたしよりもう少し小さいくらいの年齢まで。海の上は色々と危険があるから、出してもらえないの」
そのため、ガドルバに呪いをかけられた時、周りにいたのはおとなの人魚ばかりだったのだ。
おじさん、おばさん世代の島民がほとんどだと思ったのは、若い人魚が素早く逃げたから、らしい。人魚もやはり年を重ねれば、動きが遅くなるようだ。
シュリーディアと近い年代の人魚がわずかながらいたのは、彼女とかなり距離が近かったせいらしい。
シュリーディアはピンポイントで狙われていたため、おじさん、おばさん達以上に逃げ切れなかったようだ。
どこへ行ったかわからないとなれば、家族や仲間が捜してくれそうなもの。シュリーディア達は他の仲間達がどうしていたかを知ることはできないが、恐らく心配はしていただろう。
だが、島の外にいる誰も、魔物の術を破ることができなかったのだ。たとえこの島が怪しいと思っても、近付くことが難しかったに違いない。
だから、こんな状況が続いていたのだ。
「魔物の呪いって、どれくらい前にかけられたんだ?」
「だいたいの感覚でしかないけど……たぶん、二百年くらい前ね」
「二百っ?」
桁の違いに、ライガルトの声がうわずった。つまり、ライガルトより年下に見えるシュリーディアは、最低でも二百歳を軽く超えるのだ。
「そう言えば、人魚って歳をとらないって言うか、とるのが遅いって聞いたことがあるけど……本当なんだ」
遅いにも程がある、という気がする。一つ年をとるのに、何年かかるのだろう。
しかし、魔性や妖精、精霊は年齢と見た目がかけ離れているものが多い。海で暮らす存在もそうだ、ということだ。
「火の存在は知っていても使い方を忘れてるって、人魚なら当然か。忘れると言うより、あんまり知らないのかな。人魚が焼き魚を食べる機会なんて、まずないだろうし」
記憶と一緒に、人間としての生活習慣まで抜き取られているのか、と思っていた。この点については、抜き取るうんぬんの話ではなかったのだ。
しかし、人間と思っているシュリーディアにすれば、どうして火の扱い方がわからないんだろうという苦悩になる。そういう精神的な苦しみを与えるのも、ガドルバの目的だったのだろう。
「きっとガドルバは、あたしが自分の物にならないなら他の奴の物にもさせないってつもりで、この島に閉じ込めたんだと思うわ。島にいたみんなは近くにいたってだけで、とんでもない災難ね」
「そこへ俺が来て……。どうして俺は島へ入れたんだろう」
「さぁ。何かの力が働いたのは確かだと思うけど。今までずっと、誰も入って来なかったもの。船が近くを通ることもなかったし。だから、ライを見付けた時はとても驚いたわ」
この人なら自分達を解放してくれるかも……と思ったかどうかは、シュリーディア自身にもよくわからない。周りの仲間達が自分達と同じように出られなくなるだろうと話していたのを聞いて、そうなのかな、と思った。
それでも、何かが変わる気がした。たとえほんのわずかなことでも、彼なら変えてくれそうな気が。
「あ、そうだ。俺、漂流してた時、結界を自分に張ってた。もしかすると、人間の魔法がわずかに作用して、魔物の結界にほころびができたのかも。そこへ俺がすべり込むようにして入ったんじゃないかな」
思いつくのはそれくらい。魔除けのアクセサリーなどは持っていないし、島へ入ってきた時は気を失っていたから、自分で魔法を使ってどうこうはできない。
もしくは、単に人間には術の効果がなかっただけ、か。
真相はわからない。だが、ライガルトが現れたおかげで、こうして人魚達は解放された。
「ありがとう、ライ。あなたが助けてくれたから、やっと本当のあたしに戻れたわ」
そう言うと、シュリーディアはライガルトの首に手を回し、くちびるを重ねる。
ライガルトは彼女の身体を抱き締め、だがすぐにその手の力を抜いた。シュリーディアの細い肩を掴み、そっと自分から離させる。
「シュリーディア、きみの両親や島にはいなかった仲間がずっと心配してるんじゃない? 他の人魚達みたいに、戻らなきゃ」
「うん……。でも、あたし……もっとライと一緒にいたい」
じっと目を見詰めながらそんなことを言われると、ライガルトの気持ちが揺れる。シュリーディアを抱き締めたい衝動にかられる。
「俺もシュリーディアのことをもっと知りたい。一緒にいたいと思うよ。だけど……俺も帰らなきゃ。心配してる人がいるんだ」
「……」
この呪いから解放してくれたから、というだけじゃない。
海で彼を見付けた時、宝物のようなものを見付けた気がした。自分が帰るために動いた、というのもあっただろうが、この状況を何とかしようとしてくれる彼を好ましく思う。
腕を絡めた時、温かかった。その温かさが、心の中までじんわりとしみて。
今も、こうして彼に触れていると温かい。海の中では感じたことのないものだ。
もっと触れていたい。温かさを感じていたい。
でも、彼は人間で、自分は人魚だ。今まで自分は人間だと思わされていたけれど、そうじゃない。呪いであっても、人間であればよかったのに。
彼と同じならよかったのに。
シュリーディアは大きな青い目を潤ませてライガルトを見ていたが、もう一度くちびるを重ねてくる。
今度はライガルトも、彼女を離そうとはしなかった。