はじまりの日 Ⅲ
少し魔法についての説明が多い回です
今日も今日とて重たい本を運ぶ。村にいた時から力作業をするのは当たり前だったけれどだからと言って苦でないわけではない。
ひー、ふー、みー、よ。現実逃避を兼ねて私の手の中にある本を数えてみたけれど別に意味がないことだとすぐにやめてしまう。
(相反する感情と行動を繰り返す様は、私の本質なのだろうか)
いつもそうだ。雑用係を押し付けられて、その役割を受け入れているわけではないけれど拒否はしない。下に見られていることを不満に思いながらも自ら覆そうとはしない。
――ああ、嫌になる。
ぐるぐると答えのないことを思考して、何にもならずに終わる。これは私の悪癖だった。なんの生産性もなく最終的には自分を責める帰結に収束する取り止めのない思考。ゆるく自尊心の首を絞めていくような緩慢な自殺。歩く自分と考える自分が乖離する感覚。ひとりでに歩き出す私の脳はある光景を映し出していた。
――
魔法学校とはいっても、その様子は一般的な学校とは変わらない、と思う。机が並べられ、その全ての様子を睥睨できる場所に教卓が置かれ、魔法使いの中でも高名らしい白皙の魔法使いが教卓から私たちを見下ろす。教科書を開いて授業を受ける様は、一般人の通う学校とただ学ぶものが違うだけの、きっと魔法使いらしさのない授業風景だろう。
しかし、この日の授業は違った。教卓は退かされて黒板の前には、長身に長い白髪を持つ先生…アスクレ先生が立っている。治癒魔法使いとして有名な彼は、外部的な力で傷つけられた傷を治療することが主たる使い方、否、より正しく言うなれば怪我を治すことが精一杯である治癒魔法を用いてほぼ不可能と言われた病の治療をした者。この国で最も優秀と言われる治癒魔法使いを引っ張り出せるくらいにはこの魔法学園は権力を有しているのだ。
皺が目立つとはいえ鋭い瞳がまだ彼の衰えが見えないことを証左する。長いマントには王家の紋章が刻まれており、彼の担う役割と輝かしい栄光を私たちに見せつけていた。
そして、何よりも異質な風景が私たちの目の前に広がっている。そこに倒れているのは人…ではなく、人を模した何か。きっと人体で言う腕の部分には大きな切り傷が一つ。これは人ではないとわかっていても思わず口を押さえて目を逸らしてしまう生徒もいる。真っ赤な傷口からはちらりとぶよぶよした黄色っぽいような白っぽいような何かが覗いていて相当な深手であることが窺えた。そのグロテスクな傷とは不釣り合いに無感情な顔が目の前の物体が人間ではないことの何よりの証明である。
「では、次。リリアン」
「はい」
今日の課題は実践訓練、というわけだ。慣れていない者は目を逸らしながら、慣れている者はじっと傷の様子を見ながらある者は手をかざし、ある者は直に手を触れて傷を癒していく。私の直前に試験を受ける少女は前者だ。柔い茶色い髪を揺らして毅然とした態度で前に歩み出る。深手の傷に怯むことなく手をかざした少女から淡いピンクのような光が漏れた。
「うむ」
それは、"奇跡"といっていい光景だった。思わず、というように声を漏らした先生が頷く。まるで人間が傷を治していく自然治癒の過程を倍速で再生しているように、みるみるうちに実験体の傷が治っていく。瘡蓋で傷口を覆うのみで終わった生徒、なんとか出血を止めることしかできなかった生徒が数多くいる中で彼女の治癒は傷口すらも消していく。ふう、と少し低めの声が響いた時。あの白い腕には傷一つ残っていなかった。
「リリアン君、君の治癒は素晴らしいな」
「光栄です」
薄茶のポニーテールを揺らして華麗に礼をしたのはリリアン。学年一の、治癒魔法の天才と呼ばれる少女は母性を感じさせる垂れ目を細めている。そんな彼女に賞賛の声を与えた先生は少し息を吐いて、それから私の名前を呼んだ。
「次、ヴィオラ」
「……はい」
くすくす、くすくす。笑い声が後ろから響いてくる。もう慣れっこの私は背を丸めて近づいていく。近くで見た真っ白な腕に付けられた赤い傷。少し骨が覗いてはいるけれどまだ"あの時"よりは全然浅い傷。この授業は初めてではないから、先生の目も痛い。擦り傷程度でも長時間をかけなければ癒せなかった劣等生、と彼の記憶に刻まれているのだろう。
「はじめ」
なんの期待も込められていない声に従って私は目を閉じた。
――魔法には、イメージが必要らしい。しかも心から湧き出てくるイメージ、というよくわからないものが。言葉にすれば分かりにくいこの感覚を、私の世話するあの生活能力ゼロの天才はただ思考を止めなければいい、と形容した。
キュッと目を瞑る。体の奥深くから熱くなっていく感覚。それに抗わずみを任せる。脳裏に白い何かが浮かんだ。そのまま思考を止めずに入ればだんだんとその白が形を帯びていく。まるで"傷なんて初めからなかったような"腕をイメージが形作っていく。
――もし、もし、こんな傷がなければ。
――思考を止めるな。
――元々、傷がなかった腕を。
――抗うな。
「――――、やめ!」
「……!」
息を吸うのを忘れていたらしい。時計の長針が目を閉じる前より下に傾いていて、やっぱり時間をそれなりにかけてしまったことがわかった。目を開ける。そこには、白い腕。
――白い、腕?
「………時間はかかったが、見事だ」
先生の言葉にやっと思考が帰ってくる。私の目の前にはすっかり完治した傷。信じられない。そんな気持ちでただ立ち尽くしていると、まるで見直したと言わんばかりに先生が声をかけてきて、私は慌てて頭を下げた。
「以前と同じ時間をかけていながらここまで結果が異なるとは。そのまま精進しなさい」
「は、はい……」
あんなに小さな傷は長い時間をかけなければいけなかったのに、それと同じくらいの時間であんな大怪我を治した、らしい。くすくす笑っていたクラスメイトが何かをひそひそと話している。リリアンが私のことを気遣わしそうに眺めている。
――きっと不正があったに違いない。
そんな話をされている気がして私は俯いた。低い位置で結った二つの鼠色が視界を覆う。こつ、と靴音が鳴った。
「それで?君たちの中にこの傷を治癒できた者はいるのか?」
低くて凛とした声。先生だ。ひそひそ話をしていたクラスメイトたちは水を打ったように静まり返る。先生にはそれだけの威厳と風格があるのだ。鋭い瞳が、怯えて、それでも納得いかないような顔をしている彼らを睨め付ける。
「言葉よりも行動で自らの優秀さを示せ。他者を貶めたところで君たちの価値は変わらないぞ」
これは、私を庇ってくれているのか、それともただこういう状況が嫌いなのか。それはわからない。わからないけれど、私は、隠れたい気持ちでいっぱいになって野暮ったいポンチョに顔を埋める。きっと今回の治癒はまぐれなんだから。私はこんなことをされるような才能は持っていないんだから。
善意を、正面から受け止められない自分に嫌気が差して、私は授業が終わるまでただ息を殺すことしかできなかった。