第3話 黒の太刀
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「あの頃のあれはもう、難行苦行と言い換えても良いだろうな」
深い緑の中を悠々と分け入りながら鬼屋敷笛は独りごちた。
山道を行く最中、彼女は胸に温かいものを覚えながら頂を見上げ当時の出来事を思い起こした。今となれば、あの時の苦労も懐かしさを覚える思い出となっている。
幼い頃に一度だけ、笛は父親に手を引かれてこの険しい山道を歩いた。
進むほどに濃くなる緑。草は容赦なく子供の顔を叩き木の根は足を取った。悪道に大いに不満を抱いたことをよく覚えている。
その行程は、幼い子供にとってはまさに苦難の道のりであった。笛は息を切らせ何度も立ち止まり弱音を吐いた。それでも父親は、この時ばかりは険しい顔をしたままで少しも手助けをしようとしなかった。あの優しい父親が何故に、と幼い彼女は途方に暮れながら必死に歩いた。
雑多に蔓延る原生林。鬱蒼とする周囲には草の匂いがムッと立ち込め、鳥や虫が方々で不気味な声で鳴く。高い木の枝と枝の隙間から光の粒が落ちていたが、森は陰気で暗かった。
「父様、もうダメです。わたし、歩けない」
疲労を溜める身体。堪りかね、六歳の彼女は駄々をこねた。だが幼子の小さな抵抗は無駄に終わる。父親は口調こそは穏やかであったが「自分の足で歩くしかないのだ」と言うばかりでひとり先に進んでいった。笛は、この様な恐ろしいところに一人取り残されるのはいやだと思い、仕方なしに厳しさを浮かべた父親の背中を追った。
何処に向かっているのか、あとどれくらい進めば到着するのか。困憊する小さな身体は取り囲む森の圧力に畏怖を感じながらひたすら歩いた。
幼い彼女は、行程も最終というところでとうとう精も根も尽き果てて泣きじゃくり、どうしてこのようなことをしなくてはならないのかと父親に尋ねた。だが、この時もまた一言で片付けられてしまう。父は「掟だから」と言ったきり口を閉ざした。
「ほんとうに、あの人は、四面四角でどうしようもなかったな」
口下手な父を懐かしむ。森の中に在りし日の父親の面影を見つめる。この場所が呪術を施された迷いの森だと知ったのは、ごく最近のことであった。
目的の場所に辿り着いて見る。
必死の思いで父親の背中を追ったあの夏の出来事を笛は鮮明に覚えている。
四方を山々に囲まれた狭苦しい土地。あの頃と何一つ変わらぬ景色。今は枯れ果てているがあの頃は一面の野に朱色の花が咲き誇っていた。
初めてその光景を見たとき、幼い彼女は、圧倒されるままに花の名を尋ねたのだが、父親はどこか複雑そうな面持ちで言葉を濁した。ハッとし慮る。笛は、幼心にも、これは尋ねてはいけないことなのだと悟り口を噤んだ。迷いの森により外の世界から秘匿された黒鬼衆の隠れ里。その日は、自分が縁者であることを知った日であり、笛にとってこれが禁忌に触れた初めての出来事であった。
笛は、その寂れた集落で黒鬼一族の希望と出会った。
――いや、引き合わされたといった方が良いか。
「……親方様」
澄んだ青空を見上げて呟いた。耳には劈く蝉の声が響いていた。
器と呼ばれた少女、黒鬼一族の最後の希望と言われていた少女は、笛にとって大切な存在だった。
――そう、あの方は、何よりも自分の命よりも大事な人。
「……笙子」
恐れ多いと思いながら主君でもあり親友でもある者の名を呼んだ。痩せ細った笑顔が頭の中に浮かんでいた。
「今更だ。来訪が数年ぶりになってしまったことを悔いても仕方がない」
笛は、里の中を隈無く調べ、長の屋敷の中を検分して、そこに主君の存在がないことを確認した。――やはり、笙子は拐かされた。
雨音女の喪失から六年が過ぎた。もう時間の猶予はない。朱の花が宿していた妖気も既に失われている。一刻も早く奪われた雨の太刀を取り返し主君を救わねばならない。
「八百年の悪しき因果は、この私の手で断ち切ってみせる」
長の屋敷の中で、父親の残した言葉に従って見つけ出した太刀に目を落とすと身体が武者震いに襲われた。あまりに大きな荷物を背負ってしまった。その自覚がそこに現れていた。
◇◇◇
『その者、雨の陰陽師と呼ばれたりき。陰陽五行を極むるその陰陽師、右方には風神を、また左方には雷神を従えたりき。雨の陰陽師、清冽なる気をもちて邪を討ち、慈雨をもちて世に安寧をもたらせき。人は心寄せ、かの者を雨様と呼びき』
かつて雨の陰陽師の右方を務めた一族があった。
その一族、黒鬼衆の血筋を巡って二人の少女が山里を後にする。
里の妖花と鬼屋敷笛、彼女らは宿命を背負い過酷な運命に抗う道を探す。