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瑞花に沈む  作者: 百瀬ゆかり
5/10

4 寒芍薬

過激な表現描写を大いに含んでいます。

ご注意ください。

────冷たい、どうしても冷たい。



天気予報士の予想は大きく外れ、最も冷える日が雪混じりの雨になった。傘の中でも空気が冷えているせいで雨水に濡れた手が異様にかじかむ。



『あら、花屋でクリスマスローズを扱っているのね。綺麗に咲いているわよ』



低い視点の左から聞こえる女性の声。

あぁ、気づけばいなくなっていた母親の声だ。



『ふーん』



そう、記憶にある昔の口調でそう呟く。



『あら。そんなにマイナーかしら』



意外そうな声音。そう、そうやって驚いてから吸い込まれるように花屋に寄っては買い込んでいたよね。



『父さんにプレゼントされたのがこの花だったから────母さんにとって、ううん。私にとっては特別な花よ』



父さんの話をする時だけ、母さんは母親という側面ではなくどこか恋焦がれるかのような一人の女の人の顔になる。



『だから──好きなのよ、この花が』




さわさわさわさわ。

クリスマスローズが冬風に揺れるとそれは見る見る間に肥大化していき線の細い母さんの身体を呑み込んでいく。



『お前は欲しいものが与えられず歪んでしまったのか。ここまで来ると哀れに思えるよ』



クリスマスローズのような化物のような植物が語りかけてくる。この声は母さんの母さん────花には興味を示さない卑しい祖母だった人間の耳障りな音をテープで流しているかのようにザラザラしている。



『私の娘がどこにやったかのを訊いているんだよ。お前の母親がどこに行ったか知っているのだろう?お前の母親なのだから何度も連れられていただろう?さぁ言いな』



白黒した視界と身体中に痛みを伴うフラッシュバック。この人はよく母さんが居ない時に来ては鬱憤晴らしと言わんばかりに僕を支えの役割で持っているはずの固い杖で強く、それは強く折檻してきた。



『言いな。言えばもう二度とお前を叩くこともなくなるのだよ。言えばの話なんだけどさ』



老体とはいえ、幼い身体と比べれば力は幾分かは強い方だ。骨が軋み、肺の中にある酸素を無理矢理吐き出させられては血の味が広がる口の中に雪解け水を流され血交じりの水で床を濡らしてしまう。その繰り返し。



やめてやめて、と懇願しても。

この老婆は鬼畜じみた不気味な笑みを崩さないまま、やめやしなかった。



***



冷や汗が全身を伝う。苦しみで瞑っていた視界を見開いて、痛む場所を確認してみればあの醜い痣なんかどこにもない。そうだ、これは“幻の痛み”だ。



落ち着け、これは記憶の中だ。夢だ、過去だ。

晴らせ今こそ“剪定”を!!



「お前なんてもう怖くない」



右手の中にはひやりとした氷のような冷たさは白雪から渡された“剪定鋏”。そう。これも同じように。





“剪定”してしまえばいい────



飛びかかった瞬間に美しさの欠片もないクリスマスローズ“だったもの”がこの世のものとは思えない断末魔が聴覚を破壊しようとする。それに屈することなく────先の鋭い剪定鋏でその醜い花心を突き刺し、それをスプーンの要領で激しく抉った。



阿鼻叫喚、それは人ならざるものの叫び。




剪定鋏で刺し切った植物の皮から粘ついた液体は顔を中心に付着する。思いの外、噴き出した液体は温い。



赤?青?黄?

緑?紫?橙?黒?茶色?



そんなこと、どれだっていい。



亡くした、大切な人を亡き者にしたこの声の主は一生忘れやしない。終わりのない煉獄の業火に身一つで焼かれてなお焼ききれないことに苦しめばいい。



ぬるりと滑る手の中。錆びることを知らないこの鋏は何を求めているのだろうか。



***



「そうです……その選択が一番正しい」


脂汗をかき苦しむ八重菊の髪をその白い指先で解く白雪の姿は宵闇に溶けた蜂蜜のような行灯の灯りに薄くも琥珀色に染められている。


「鋏を与えて、正解でした。

あなたは過去と縁を断ち切る鋏に魅入られて、いずれ一体化するでしょう」


白雪の手の内には、黒くもコロンと西洋菓子のような複数の種が収まっている。後もう少しで揃う。儀式に必要なものは着実に彼の仕事の成果から現れている。





『────のう、白雪や』


嵌め殺しの丸窓から声が部屋に転がる。

屋敷の敷地内とはいえ、普段聞き慣れない声音には悪寒によく似たものが頭から足先へと走り抜けた。


「なんでしょうか──チハヤ様」


外からは苦笑の声、ずっと見ていたというのだろうか。


「儀式は予定通りに行います。ですから部屋の奥から無理して外出することではありませんよ」


外から声は聞こえない。どうやら立ち去ったようだ。この事をカヨにも話を通しておこう。


「……八重菊様」


顎の線に手を添える。ここに来てから彼は髪も髭も伸びていない。老いる時間から外れてしまった状態。それは砂時計が倒されている状態に酷似しているだろう。







「────お休みなさい、良い夢を」








水で湿られた手拭いで汗を拭ってから、その額に触れるように唇を寄せた。

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