001
浮遊感。
周囲のどこも知覚せず、存在せず、自意識だけが無重力を漂っている。
言うなれば、ハッピーになれるおクスリをキメているときのような……。
「いや、俺はキメたことなんてないけど……」
セルフツッコミ機能は生きているようだ。だが俺自身が生きているとはとても思えない。現実にしては非現実的すぎるし、唐突だ。
「ん、なんだあれ」
自分の身体の境界すらも認識できていないというのに、目玉の位置も知らないのに、遥か遠くになにかが漂っているのに気がつく。視力検査のときに見る気球のようにぼやけてはくっきりとする輪郭。
「……クジラ?」
それはまさにクジラ、世界最大の哺乳類に相違なかった。白くつるりとした身体に蒼い目。アルビノという疾患を聞いたことがあるが、あれなら目は赤いはず。
その目は、今までに見たどんな目よりも優しかった。
「キミか。ボクのひげに引っ掛かってた魂は」
クジラに話しかけられた。その口は開いていないが、目と同様に優しい声だ。
「驚いたな。クジラが喋れるだなんて、神様か何かかよ」
「カミサマ、ねぇ。キミ達は本当にその呼び方が好きだよな。最近はすこし飽きてきたくらいだよ」
クジラはやれやれ、とため息をついた。もちろんその吐息は頭のてっぺんから出ている。
「でもまあ、悪い気はしない」
にやりと笑うクジラ。人間ではないくせに所々人間らしく、それ以外は完璧にクジラという目の前のカミサマに気味の悪さを感じるべきはずが、頭がぼーっとしているからか、それともその目に魅入られたのか、正常な感情が働かない。
「で、カミサマさん。俺はいったいここで何をさせられているんだ?夢ならさっさと覚ましてくれないか」
「どうして?何か急ぎの用事でもあるのかい」
「ああ、急いでいるんだ。なぜなら……」
カミサマの問いに即答してしまったことには自分でも驚いた。なんだ、俺はここに来る前、何をしていたんだっけ?
というかいつからここにいる? いったい俺は、何が原因でこんなことになっているんだ?
ああ、思い出してきたぞ……鉛筆、明かり、真っ白な紙。
「そうだっ!俺はレポートをやっている最中なんだよ!」
「そうだったね」
提出日前日。まだあと半分はある。
「なあ頼むカミサマ。インチキをさせてくれとは言わないから、せめてこの夢から起こしてくれ。あれを明日までに提出しなきゃヤバいんだ」
「そうだね、あれだけエナジードリンクを飲んで六徹目。常人なら死んでもおかしくないのに、キミならなおのこと死ぬはずなのに、キミは目の前の課題を終わらせようと全力だった」
「だろ?ヤバい、今すぐ起きなきゃ!」
ふと気がつくと身体の感覚が戻っていた。ほっぺをつねってみるが効果はない。
カミサマに背を向けて走り出す。そこに淵があることは感覚が知っていた。そこから飛び降りれば……。
「あでっ!?」
柔らかだが見えない壁に跳ね返され吹っ飛ぶ。起き上がると、またカミサマの目の前だ。
「あそこから飛び降りて生還した子をボクは一人しか知らないよ。やめておいたほうがいい」
「じゃ、じゃあお前、カミサマなんだろ?俺を一発ぶっ叩いて起こしてくれ!あのレポートだけは仕上げなきゃダメなんだ」
カミサマだかクジラだか、目の前の超存在に嘆願する。夢だとわかりきっていても冷や汗が止まらない。
何寝落ちしてんだよ俺は!いや、ギリギリまでやっていなかった俺が悪いのか?
「いやー、ボクもやってみたんだけどさ」
「えっ、やってみた……って」
「うん」
カミサマは嘆願を嘲笑うような笑みを浮かべたーーー
「ちょっと遅かった」
ーーーように見えた。
「遅かった……?」
「うん。キミがこっちに来たときにボクはすぐ話しかけたんだ。早く起きないと……」
気がつくと目の前のカミサマはイルカに変わっている。そして、カミサマは口を開けずに告げた。
「死んじゃうぞって」
死。
展開が早すぎて正直ついていけない。
なぜこんな悪夢を見るんだ。
非現実的過ぎる。
なぜ悪夢なのに、こんなにも感覚が現実的なんだ。
「キミ、その右手に持っているものが何かわかるかい?」
「えっ」
慌てて右手を見ると、筒状の何かが握られていた。
これは……注射器だ。ペン型で、突き刺すと自動的に一定量のインスリンを注射できる……。
「そう、インスリンの注射器。キミは先天性の糖尿病で、その注射器で毎日インスリンを打たなければ死んでしまう身体だった」
「……そうだな。俺は19年間ずっと、注射器と一緒に生きてきた。だがそれがなんだって言うんだ!?」
「決定的だったのはその注射器だったんだ」
カミサマの言葉に、俺は世界がひっくり返るような感覚に陥った。
そうだ。思い出してきた。
「キミは危険だとわかっていながら、作業をするためにやむなくエナジードリンクを飲んだ」
当然血糖値は上がる。インスリンを注射しているような俺が一番やってはいけないことだった。
「でも両親は実家の祖父の葬儀で不在。キミのその危険行為を止める者は誰一人としていなかった」
眠気と高血糖で何度も気を失いかけた。だが留年がかかったそのレポートだけはどうしても完成させなくちゃならなかった。
「でも無理だ。いくらキミがここまで育ててくれた両親に負い目を感じていても、普通人間はそんなに連続作業ができるような身体ではない。どこかで限界がきてぶっ倒れる。キミならなおさら」
それでも倒れるわけにはいかなかった。
「そのときキミはあることを思い出した」
先輩からもらった薬。
「水に溶かして注射することで身体の限界を越えた体力が出る」
注射器は手元にあった。
「キミをずっと延命してきた注射器だね」
それに俺は薬をセットした。
「そして、打った」
そうか、俺はそのとき……。
「そう、死んだのさ」
嘘だろ……。
こんな、こんなにもあっけなく?
「嘘なもんか。キミは先輩から貰ったドラッグを大量に静脈注射して、みごとその一生を終えた。いや、一生にトドメを刺したんだ。キミが幸運だったのはボクが救ってやろうと思って声をかけたこと。キミが不幸だったのはドラッグで死んだことだ」
「ドラッグで死ぬと、何が起きるんだ」
どうにか冷静を保とうとするが、できない。手足の感覚が末端から消えていく。
ただ右手だけ、しっかりと注射器を握りこんでいる。
「キミが打ったドラッグはある神経回路を一時的に塞ぐことで脳内麻薬を暴走させるものだ。でも、ボクらがキミたちに語りかけるのにもその回路を使う。自分の頭を無くしたことにも気がついていない人ならともかく、キミの魂は自分の神経が塞がれていることを強く認識していた」
「……だから、起こせなかったと」
「そういうこと」
顔をあげると、カミサマはシャチになっていた。海の哺乳類が好きらしい。次はマナティーにでもなるのか?
なんだかもう、どうでもいい。
「さて、キミは完全に死んだ。今のキミは魂の状態だけど、もう時間が経ちすぎた。肉体には返せない。あと二時間ほどでキミの両親が机の上で冷たくなったキミを発見するだろう」
「……」
「で、ここからの話なんだけどさ」
カミサマの声色が変わった。優しく、真面目なトーンから優しさが消え失せた。
「ここからって、なんだよ。死者にここからがあるのか?」
「うん、実はね。キミを救えなかったことはキミのせいとはいえ、救えなかったボクも減点されちゃうんだ。キミにわかるように言えば、単位を落としてしまうってことさ」
単位を落とすカミサマだって?思わず吹き出してしまった。不真面目なカミサマも居たものである。
「それで、お前が単位を落とすのと俺がヤクで死んだのと、なんの関係があるんだ」
「単刀直入に言えば、キミを救えなかったことを隠させてほしい」
「……俺に生きているフリをしろと言っているのか?」
「そうそう。さすが有名大学の学生さんだ、理解が早くて助かるね」
シャチ姿のカミサマはにや、と笑った。気味の悪い笑顔だ。
「今からボクはキミを別の世界に転生させる。一から土をこねて命を吹き込むように、向こうに元の身体そっくりなキミの肉体を用意して魂を放り込む。服装もキミのお気に入りのあのパーカーとジーンズにしておこう。キミはそこで目覚めたら、そこで死ぬまで生きてくれ。簡単だろう?」
生きるのが簡単とは、言ってくれるじゃないかカミサマ。
「元の身体って、まさか糖尿病もそのままか?」
「いやいや。そこはちゃんと修正しておく。というか病気になんか一切かからない身体にしてあげよう。今どきは少しサービスしてやらないと転生を受けてくれないんだ。みんなもやっているから安心して」
「……そんなに転生する人間がいるのか」
「いるともさ。自殺者数、キミの住んでいる日本は多いだろう?ボクらが単位を拾うために日本人はよく救っているよ」
失敗して転生させちゃう人数も多いけどね、とカミサマ。
なるほど、俺だから救っているというよりはたまたま急死したから救いに来たってことか。
「……そりゃあ、お節介にどうも」
「で、いいでしょ?転生させても」
「ああ」
どうでもよかった。
少し考える時間が欲しかった。
「よしよし。じゃあさっそく転生させるけど、何か他に希望はある?全能にしてくれ!とかでもいいよ」
希望、ねえ。
「ないよ」
「おっ、無欲だね。じゃあ基本設定の他にもう少しリップサービスしておいてあげよう」
シャチはくるくると回り始めた。周囲を輝く泡が渦巻いていく。俺はその中心に浮いている。
「基本設定なんてあるのか?」
「ちょっと容姿を良くして、言語が通じるようにして、文化的に馴染みやすい世界を自動検索する。効率的に単位を拾うためのプログラムが流行っているんだ、人数も多いし。キミなら……まぶたが二重になるよ。背と、鼻もちょっと高くなる」
泡の輝きが増していく。
世界が白く塗りつぶされていく。
浮遊感は浮上感に変わり、猛烈な速度で上へ上へと押し上げられる。
「それじゃ!転生してくれてありがとう、キミの新たな人生にボクの祝福あれ!」
遠くでそんなカミサマの叫び声が聞こえ、返事をする間もなく強い衝撃がきた。
浮上感が消え、思わず閉じた目をゆっくりとあけると、そこはどことも知らない暗い森の中だった。