カスリマ美容師
N極とS極だった私と彼は数日前にN極とN極に変わってしまった。
でも、テレビ越しに私の心を引ったくったカリスマ美容師とこれから初めて会えるのでプラスマイナスゼロである。
彼が似合っていると褒めてくれていた長い髪とは今日でお別れだ。
予約を待っていた3ヶ月の間に私の目に映る景色は目まぐるしく変化した。
仕事道具はキーボードから包丁に変わって住居は大きい箱から小さい箱に変わった。
そして食事する相手はテレビから男性に変わって少し経ち再び男性からテレビに変わった。
今日もデートの待ち合わせの時と同じで、ちょっと早めに家を出た。
彼のぬくもりを感じながら何回も歩いた思い出の道を通り、私はちょっと早めに美容室に到着した。
美容室はガラス張りで中が丸見えなので少し嫌だったが、あのカリスマ美容師と接近出来るのでプラスマイナスゼロである。
彼の心が美容室のように丸見えだったら冷たい私の手を今も暖めてくれていたのだろう。
もうすぐ会えると思えば思うほど心臓の脈打つ速度が速くなっていく。
私が煌めく世界の入り口に立つと扉は自然と横に開かれた。
この扉のように彼が心を開いてくれていたら私は違う人生を歩んでいたかもしれない。
吸い寄せられるように店内に入っていくと一際輝いている人物の姿が目に飛び込んできた。
遠くにいるのにすぐ側にいるような存在感があり彼の存在感とは比べ物にならない。
店員に導かれ椅子に私の全てを委ねながら、その時が来るのを待っていた。
椅子には全てを委ねられるが頼りなかった彼に私の全てを委ねたいと思ったことはなかった。
待っているとアシスタント美容師の身体が私の後頭部をかすって風のように通り過ぎていった。
不快だったが不快感と期待感の勝負をしたところ期待感が圧倒的勝利を収めた。
彼の場合は男らしくなかったので不快感が僅差で勝利を収めて離れることになってしまったのだ。
脳内に王子様の登場曲が流れる中、鏡に映った憧れの王子様が段々大きくなっていった。
あのカリスマ美容師と同じ空間で呼吸をして同じフローリングを踏みしめていると思ったら私の心臓は操縦不能になった。
こんなにドキドキしたのは好きだった彼に愛の告白をした時以来だ。
「どんな髪型にしますか?」
大好きなカリスマ美容師の視線の矢が全身に突き刺さった。
「短くしてください」
彼が好きではないと言っていたショートヘアーにして彼の大嫌いな女性に変わってやるのだ。
「可愛くしちゃいますね」
鏡を介して私に伝えられた大好きなカリスマ美容師の微笑みで私はとろけてしまった。
私の長い髪に大好きなカリスマ美容師がゆっくりハサミを入れて彼との思い出はバッサリ切り落とされた。
憧れのカリスマ美容師に切ってもらえた髪はとても喜んでいた。
少しの間、憧れのカリスマ美容師と言葉を交わしたが彼とは違い、男らしくて優しくて良い人だった。
カットの途中で憧れのカリスマ美容師が私の元を一旦離れた時に奴がまた現れた。
奴は前より時間をかけて私の背中をかすってきて私の心はかすり傷を負った。
男らしくなかった彼は私の身体に触れるまで、かなり時間がかかったというのに奴は短い間に2回も触れてきた。
さっきまで幸福岳の山頂にいた私だったが一気に転げ落ちていった。
女々しかった彼の100倍くらい頼りになりそうな憧れのカリスマ美容師に言えば何とかしてくれるはずだ。
そう思って私は戻ってきた憧れのカリスマ美容師に犯行の一部始終を話した。
「アシスタントの方が先程から後ろを通るふりをして私の身体に触れてくるんです。あなたがいない時に2回もですよ」
「あなたの勘違いだと思いますよ。そんなことをする人ではありませんから」
言いたいことを何も言わなかった彼よりはマシだが女性の言うことをハッキリと否定する男性も好きではない。
好きな気持ちが大きいため嫌いな気持ちをマイナスしたとしてもカリスマ美容師を好きなことに変わりはない。
「少しお待ちください」
もういなくならないと思っていたのにカリスマ美容師はまたいなくなり恐れていた地獄タイムに突入した。
彼が遅刻常習犯だったので待つことは慣れているが誰かにかすられることに慣れてはいない。
アシスタントは暇なのかカリスマ美容師という私にとっての監視役が姿を消した途端にまた現れた。
磁石で引き付けているかのように奴は私に近づいてきて再び私をかすっていった。
私とN極S極の関係になってもいい男性は少し前に別れた彼だけだ。
かすり行為が横行する戦場にカリスマ美容師はなかなか戻らず、かすりはエスカレートしていった。
私のテンションは底を突き破りテンションがいつも低かった彼に負けないくらい低くなっていた。
カリスマ美容師が戻って地獄タイムが一旦終わりを告げたが嫌な気持ちは続いたままだ。
無駄かもしれないが、かすり魔美容師にされたことをカリスマ美容師にもう一度話してみることにした。
「また、あなたがいない間に私の身体に触れてきましたよ。絶対に勘違いではありませんよ」
「勘違いですよ」
「私のこと信じてくれないんですか?」
「勘違いですよ」
そう言われて言葉に詰まっていると女々しかった彼より男らしくない言葉をカリスマ美容師が囁いてきた。
「すみません。前にもこのようなことがありまして勘違いではありません。あの子はこの美容室など全国に100店舗を展開する美容室グループの社長の息子さんなんですよ。なので無かったことにしてください」
呆れて私はよく黙り込んでいた彼と同じように黙り込んでしまっていた。
3ヶ月前に引ったくられた私の心はたった今グチャグチャポイされた。
グチャグチャポイされただけでなくグチャグチャポイされた後に思いきり踏みつけられた。
カリスマ美容師の対応は彼と別れる原因となった浮気以上にムカついた。
後輩を叱ることさえ出来ない馬鹿に恋した私が馬鹿だった。
謝ってもらえていない今の状況は彼との別れ方以上にスッキリしない。
この空間に私の味方は一人もいないと考えた方がいいのかもしれない。
別れた彼と違って私は言いたいことを言える人間なのに直接文句を言う決心がつかなかった。
髪の毛が短くなるにつれて「謝ってください」と言うことの出来る時間も短くなっていく。
諦めかけていたその時、ある男性の言葉で美容室の空気が一変した。
「この美容室おかしいですよ」
「……お客様どうなされました?」
「客にセクハラしちゃダメでしょ。それに客がセクハラされているのを分かっていながら見て見ぬふりとかどうなってるんですか」
「どういうことでしょうか?」
「あの美容師さんがあの女性にセクハラしていたんです」
誰だか知らないがアシスタントにも聞こえるように私が言えなかったことを代わりに言ってくれて嬉しかった。
私のカリスマ美容師への恋心は消滅して、この男らしい男性に少しだけ心引かれていた。
しかし、カリスマ美容師は男性の声が聞こえなかったかのように私の髪の毛を平然と切り続けていた。
「無視するなよ小林君。女性が困っているのに助けないなんて友達としてどうかと思うよ」
どうやら、この男性とカリスマ美容師は友達だったみたいでこの男性の言葉を聞いて、ようやくカリスマ美容師は手を止めた。
カリスマ美容師が切るのを止めたので私は振り向いて男性の顔を見てみると数日前に別れた彼だった。
彼は男らしくないイメージしかなかったので顔を見るまで分からなかった。
「里香だったのか」
「久し振りだね大和君」
カリスマ美容師の話を彼にしたことはあったが知り合いだとは一言も言ってなかったので驚いた。
その後アシスタントとカリスマ美容師に謝ってもらい、私は彼と一緒に美容室を出た。
「まだ大和君のことを許したわけではないからね」
私たちが別れたのは彼と知らない女性が抱き合っているところに私が遭遇してしまったからだ。
「あれは久し振りに会った姉が僕に抱きついてきただけだよ」
「何であの時言ってくれなかったの?」
「信じてくれないと思ったんだ。ごめん」
言って欲しいことを何も言ってこなかった彼との将来に不安を感じたことが別れる最大の原因だった。
でも今は不安なんて全部消えてなくなった。
「里香、ショートヘアーも似合ってるよ」
「本当に?」
生まれ変わった今の彼は頼りにならない今までの彼の何倍も好きだ。
「大和君、男らしくなったよね」
「大好きな里香のために変わろうと思ってね」
知っている人の中で彼が一番男らしいのは間違いない。