ガラスの向こう
人生を諦めた。もう死のう。
希望も夢も捨てた。いや捨てさせられた。
苦労して入った一流会社で、ウジ虫のように扱われながらも耐えてきたというのに、業績が悪化した会社は三流大学出の俺を真っ先に切り、献身的だった妻は収入の無くなった俺を見切って、会社に残った同期の元へと去って行った。
ただ会社に言われるままに働いていた俺に、次の会社に魅力と思って貰えるほどの取り柄も技能も無く、失業保険も終わりやむなく始めたコンビニのバイトでは、三十も下の高校生に指示されバカにされ、盗んでもないレジ金を疑われ、客からは罵倒され土下座させられ、お詫びの品を持って謝罪の言葉を口にしてきた年下の店長は、その口で俺を罵りクビを言い渡した。
簡単な仕事で高給を約束してくれた会社は、準備金と称して金を振り込ませたら姿をくらました。大金をはたいて買った壺は贋物だからと小銭にしかならず、身の回り品を売っても明日の食事代にしかならなかった。
生活保護の担当者からは、蔑む目で見られ、あからさまな態度であしらわれ、「働けば」と突き放された。
世間から弾かれた、社会から転げ落ちた。その先が、このボロアパートだ。今の俺にお似合いの住居なんだろう。
もういい。もううんざりだ。終わろう。終わりにしてやろう。
天井にロープを掛け、首を通す。
恨んでやる。憎んでやる。呪ってやる。
この世を。この社会を。希望に満ちた者どもを。
首にロープが触れる。目を閉じる。
ゴロゴロゴロと音が聞こえてきた。窓の向こうから。俺を閉め出した世界がある、この窓の向こうから。
いつもこの時間になると、ゴロゴロゴロと音をさせて子供が通る。コマ付きの自転車なのだろう、アスファルトにコマを響かせゴロゴロゴロとうるさい音を出し、俺をバカにするように「ヤァー!」と無邪気な声をあげ通っていく。
職を失い、家を追い出され、どうにか見つけたこのボロアパートに来てからだ。毎日同じ時間頃になると聞こえて来る。昼過ぎ……夕方前だろうか、自転車のコマをゴロゴロゴロと響かせ走っていく。姿を見た事は無い。窓の向こう、ガラスの向こうから聞こえる音を聞いていただけだ。
その音が俺をイライラとさせ胃を痛くさせてきた。
昼間だ。静かな夜では無く、皆が生き生きと生活してる時間だ。改造された音を出すバイクでも無ければ、己の主張をどうだと言わんばかりに大音量で流す右翼カーでも無ければ選挙カーでも無い。
子供だ。コマが無ければ自転車にも乗れない子供が一日一回アパートの前を通って行くだけだ。なんて事ない。仕事をしてれば聞かずに済むし、洗い物をしてれば、掃除機をかけていれば、テレビを見ていれば、気にする事もないだろ。
どこかで必ず一度あげる「ヤァー!」と言う声も、子供らしく無邪気で楽しげな声なんだろう。
しかし今の俺にとってはイライラさせるものでしかない。平日の昼間から、何をするでは無く何をする気力も無く、あても無くやる気も無く、誰も居らず誰からも気遣われず、一人、部屋の中で過ごす俺にとってあのゴロゴロゴロという音は、俺を締め付ける苦痛の音でしかない。
昨日も今日も同じだ。明日も同じだ。何もしない何もしてくれない一日が繰り返されるだけだ。変化も無い。時の流れも無い。足掻こうが嘆こうが、同じ一日だ。小さな輪の上を回っているだけだ。惨めで憐れで無様な小さな輪の上を。
出口は無い。帰り道も無い。同じ道を同じように歩いている、変わらぬ俺がいるだけだ。
決して変わる事は無い。それをあの音が知らせに来る。毎日同じ時間にゴロゴロゴロと響かせ、同じ一日の終わりを、同じ一日の始まりを、変わらぬ俺に知らせに来る。
ゴロゴロゴロ、昨日と同じ。
ゴロゴロゴロ、今日も同じ。
ゴロゴロゴロ、明日も同じ。
ゴロゴロゴロ、未来は無い。
ゴロゴロゴロ、お前は惨め。
ゴロゴロゴロ、お前は敗者。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ…………
「ヤァー!」まだ生きてるの?
「ヤァー!」無駄だよ
「ヤァー!」僕には未來がある
「ヤァー!」輝かしい未來が
「ヤァー!」お前には無い、未來が
「ヤァー!」僕には明日がある
「ヤァー!」お前には無い 諦めろ
ヤァー! ヤァー! ヤァー!
ヤァー! ヤァー! ヤァー!
ヤァー! ヤァー! ヤァー!
同じ一日が終わったよ
同じ一日が始まるよ
知らせてやろう敗者のお前に
知らせてやろう抜け出せないお前に
自ら終わらせようとしているのに、それすらも邪魔をするのか。明日も同じ。昨日も同じ。首を吊る。明日も首を吊る。ヤァー! ヤァー! ヤァー! お前には出来ない。抜け出す事は出来ない。ゴロゴロゴロ。
俺は首からロープを外し窓に寄る。
窓を開けて、あの子供を見てやろう。俺を苦しめるあの音を。そして声をかけよう。振り向いたら手を振ろう。子供が手を振り返したら、振り返す事をしなければ、呼び止めてでも、俺を見させよう。世間から捨てられた俺を。子供のお前にも待っているかも知れない惨めな未来を。
そして、首を吊ってやろう。子供の目にしっかり焼き付くように。トラウマとなって苦しみ続けていくように。子供が見ている前で首を吊ってやろう。今の俺を誰も見てくれないなら、あの子供にだけは見せてやろう。もがき苦しむ姿を。敗者の姿を。俺を苦しめた、子供のお前の未来を。
窓に寄り、手に力を込める。窓ガラスがカタカタと鳴る。軋んだ窓。閉ざされたガラス。
陽が射し込み、風が抜けていく。
初めて開けた窓の向こうに、コマ付きの自転車に乗る子供の姿は無かった。今もゴロゴロゴロと音が鳴っている。窓の向こうから。俺の目の前から。
車椅子。
子供が乗っているのはコマ付きの自転車なんかでは無く、車椅子だった。
少年が車椅子を走らせていた。笑顔で。一所懸命に。
少年には片足が無かった。力み過ぎてヨダレを垂らしていた。それでも楽しそうにゴロゴロゴロと車椅子を走らせていた。使い過ぎてタイヤのゴムが擦りきれ車輪が剥き出しになった車椅子を、その車輪をたくましい腕で漕ぎ、曇りのない瞳で、アスファルトの道をゴロゴロゴロと響かせて前へ前へと走らせていた。
アパートの前にある小さな窪み、アスファルトが剥がれ砂利が露になっている小さな窪み。普通の人なら簡単に避けて通れる小さな窪み。乗用車のタイヤでは落ち込みもしない小さな窪み。しかし車椅子にとっては、大きく、深く、破滅へと繋がる小さな窪み。少年は真っ直ぐに進んでいく。剥き出しの車輪を漕ぎ、ゴロゴロゴロと音をさせて。
少年は突き進む。危険な窪みへと。
少年は不安定ながらも窪みを避け始める。たくましいその腕でもって。真っ直ぐ見詰める陰りの無いその瞳でもって。決してスマートでは無いが、華麗でも無いが、車輪が剥き出しのその車椅子は、見事に窪みを避けて行く。
そして片足の無い少年は「ヤァー!」と言って片手を突き上げた。
そしてまた、真っ直ぐに進んで行き、見えなくなった。
天井からロープを外しゴミ箱へ捨てる。
開け放しの窓を見る。俺は、窓から見えるこんな小さな景色すら知らなかった。すりガラスのボヤけた影から聴こえるその音に、勝手に怯えていた。
明日、ハローワークへ行こう。求人広告を見よう。誰かを頼ろう。涙を流そう。笑ってみよう。何かが変わるかも知れない。何も変わらないかも知れない。
それでも叫んでみよう。片手を突き上げ、心の底から叫んでみよう。それだけでも何かが変わるかも知れない。
ヤァー!