春は待ってくれない by Ireland
長い長い彼らのお話(予定)のプロローグ。
佐倉千洋は、戸惑っていた。
受験をして音大附属の中等部に入ったのは、もちろん音楽が好きだからだ。
四歳から自宅に教えに来てもらっているピアノの先生は、音楽が大好きだと全身で告白しているような若くてパワフルな人。課題曲が子ども用の短い練習曲であっても、この曲はどんなところがすぐれているのか、どういうメッセージを持っているのかを言葉を尽くして説明してくれた。そして、番号だけの味気ない曲には、必ず千洋にタイトルを付けさせ、イメージに合った演奏を求めた。
テクニックは大切。だけど、それだけじゃ千洋くんが弾く意味がない。
自動演奏のピアノと同じになっちゃう。というのが、万梨子先生の口癖その一。
作曲家が何を思って作ったのか、まずはそれをよく考えること。そのうえで、自分はこの曲をどう弾きたいのか決めて演奏すること。千洋くんなりに味付けをしましょう。それも、とびきり美味しくなるように工夫をしてね。そう言う万梨子と一緒に、どういう弾き方をすればより美味しくなるか―素敵な音楽になるのか試すのは、とても楽しかった。
音楽ってすごいのよ。楽譜は紙切れだけど、それに全部が詰まっているの。
音だけじゃない。時代。色。匂い。風景。感情。
そこに言葉はなくても、たくさんのことを伝えられる。素敵でしょう?
これは、万梨子先生の口癖その二。
ショパンはね、今から二百年くらい昔の人。だから、これは二百年前からのメッセージなのよ。まだヨーロッパのあちこちで戦争があった時代。車も電話もテレビもない。ショパンは故郷から遠く離れて、何を思いながらこの曲を作ったのかしら。誰に何を伝えたかったのかしら。
千洋が想像しやすいように、ヨーロッパの写真や当時の絵を見せながら、様々なことを教えてくれた。失恋だったり肉親の死だったりと具体的にイメージ出来ないこともまだ多い。それでも一生懸命考え抜いた千洋の表現を、万梨子は決して否定しなかった。
そんな彼女の教えを受けてきた千洋にとって音楽は、ただの音の羅列ではない。
五感と感情に訴えかけるものだ。音楽を聴く時、目を閉じて耳を澄ませる。どんな色だろう。一色か、カラフルか。原色か、淡色か。風を感じるか。雨が降るかもしれない。匂いは?気分は?感じ取って、自分の中で形にするのが好きだった。
もっともっと音楽に触れたい。曲の持つメッセージを感じ取れるようになりたい。
音楽について話している万梨子はいつも楽しそうで、その笑顔を見ていると幸せな気持ちになれた。音楽って幸せも運べるんだ。そう思った千洋は、万梨子が中学から音楽学校に行っていたことを思い出し、自分も行きたいと母親に打ち明けたのだ。
幸い、千洋はコツコツと努力することも嫌いではなく、地道なテクニック練習も避けずに励んでいたので、嘉楽音楽大学附属嘉音中学校音楽科に無事に合格した。
ただ合格しただけではない。実技試験の首席合格だったのだ。
嘉音中学校の入試には国語算数の学科試験と、音を聴いて書き取る聴音、楽譜を見て歌う視唱、専門楽器の演奏の三つから成る実技試験がある。
合格発表の日、受付で名前を告げると応接室に通され、学長と音楽科の主任にそのことを告げられて、千洋も母親もひどく驚いた。
それまで千洋はコンクールを受けたことがなかった。人前で演奏したのは、小さなホールでの発表会のみ。より素敵な演奏を、という強い想いはあったけれど、自分が他人と比べて上手いかどうか考えたことがなかった。
君は素晴らしい。何十年かに一度の逸材だ。
興奮気味に自分を褒めそやす主任を、ぽかんとした顔で眺める。
いつざいって何だろう?
勉強は大して得意ではない千洋には、彼の言葉は半分も伝わらない。けれど、褒められていることは分かった。
入試の曲は、モーツァルトのソナタ。
多くの課題曲の中から、その曲を選んだのは、万梨子の勧めだった。
千洋くんの音はしっかりしてるんだけど、角がないね。
まあるくって優しい。
高度なテクニックをアピール出来る曲よりも、千洋の個性を試験官に伝えたいと選んだのだ。
それ以前にもモーツァルトの曲を弾いたことはあったので、彼の話を万梨子から教わっていた。
けれど、試験曲に決めてからはもっとたくさんのことを知りたくて、モーツァルトが題材になった映画を観たり本を読んだり、と千洋は小学生なりに随分、熱心に調べた。
彼が、幼少期のほとんどを演奏旅行をして過ごしたこと。
そのために、年の近い友だちがほとんどいなかったこと。
お父さんが先生だったこと。
勤め先ではいつも上手くいかなかったこと。
そして、最も印象的だったのは、すでに出来上がっている曲をまるで清書するように、書き直しもせずにすらすらと五線にペンを走らせて作曲している映画のワンシーンだった。
モーツァルトは音楽で出来ているんだ。
千洋はそう思った。
彼は音楽で出来ていて、自分から溢れたものを書き留めているのだ、と。
そんなモーツァルト像を胸に抱いて臨んだ実技試験。
幸い、アクシデントも緊張もなく千洋は首席で突破し、中学生活に足を踏み入れることとなったのだった。
実技試験のトップは千洋だったものの、入学式で新入生代表の挨拶をしたのは学科と実技総合の首席らしい華奢な女生徒だった。
だから、千洋が入試で首席だったことを生徒は誰も知らないはずである。校内の実技試験は毎年七月と二月。五月の今、千洋の演奏を聴いているのは実技担当の講師一人だけ。専門楽器は個人レッスンだから他には誰もいないはずなのに、彼が新入生の中で断トツのトップであること、学校が期待を寄せる実力の持ち主であることはすでに全校生徒が知っていた。
賞賛と羨望と嫉妬の視線。
千洋は首を傾げる。なぜ、こんなに褒められるのかわからない。なぜ、こんなに他人の上手い下手を気にするのかわからない。
自分が上手いと思ったことのない千洋には、教師の「あぁ、君が…」という反応は不思議だったし、考えて工夫して練習して上手く演奏が出来れば嬉しい、という考えなので、クラスメイト達の実力を探り合う様子は疑問だった。
居心地が悪いなぁ。
溜息を吐きつつ、廊下を歩く。放課後、個人レッスンを受けていたので遅くなってしまった。鞄を取りに教室に戻ると誰もいない。帰ろうとして、ふとピアノが目に入った。
嘉音中学校には、全教室に一台ずつピアノがある。休み時間になると誰かが練習したり、ふざけてCMの曲を弾いて遊んでいたりするのだが、向けられる視線に戸惑っている千洋は触ったことがなかった。
辺りを見回して、誰もいないことを確かめる。
そして、そっと蓋を開けて弾き始めた。
先週から始めたシューベルト。
変奏曲になっているこの曲は、弾きながら心の中で歌うととても心地良い。
人目を気にしていたことも忘れて、千洋は夢中でピアノに指を滑らせた。
そして、最後の第六変奏が終わりかけた時、カタ、という小さな音に我に返る。振り返るとクラスメイトが教室の入り口に立っていた。
藤枝いちゐ。
総合首席で新入生代表挨拶をした少女。
千洋は思わず、身構えた。
君は素晴らしい!
佐倉君って、ピアノすごいんだってね。
神童じゃない?
今まで掛けられた、賞賛や揶揄が頭の中を駆け巡る。
どんな反応をされるんだろう。
息を詰めていた千洋に近付いたいちゐが小さく呟いたのは、思い掛けない言葉だった。
「カラフル…。」
目を丸くして固まっている千洋ににこりと笑って、いちゐは続ける。
「シューベルト、きらきらしてた。」
「あ、ありがとう。」
「途中で邪魔してごめんね。最後のLENTOも聴きたいな。弾いて?」
肩まで伸ばした髪をふわりと揺らせて、いちゐは首を傾げた。
その真っ直ぐな瞳が、音楽大好きと言っている気がして千洋は万梨子を思い出す。
入学してから、誰かに自分の演奏を聴かれることを怖いと思うようになった。
けれど、目の前のいちゐからは純粋な興味しか感じない。
この子は大丈夫、そう思った。
たった八小節。
暗く染まり始めた教室に主和音が響いて、そして馴染んで消えていく。
鍵盤から手を離した千洋がいちゐを見ると、彼女はピアノに目を落としたままぽつりと言った。
「佐倉くんのピアノ、好きだなぁ。」
その時の気持ちを、千洋はどう言葉にしたらいいのか分からない。
どれほど驚いたか。
どれほど嬉しかったか。
どんなに素晴らしいと、上手だと褒められても戸惑うだけだった。大仰に褒めそやされても、自分のことだと思えなかった。
素晴らしい才能。
卓越したテクニック。
今後に大いに期待。
そういった評価ではなく。
初めて、好きだって言われた。
「ありがとう。」
自分の演奏を好きになってくれる人がいる。千洋は震えそうな声を抑えて、ぎこちなく笑った。
この日を、千洋は一生忘れない。
いちゐが美少女であることも、驚くほど博識であることも、そしてこれが永遠に続く恋の始まりの最初の場面であることも、まだ彼は気付いていない。
これは小さくて深いこの世界の、プロローグ。
タイトルは、ジョン・アイアランド作曲のピアノ曲。
話の中で佐倉が弾いている曲はフランツ・シューベルトの即興曲 op.142-3。