プロローグ 1
「ねぇ、マイハニー。火星まであとどのくらいかな?」
「はい、あと3時間と34分と52秒です。伯爵。」
こんな会話が前の座席から聞こえてくる。声からして若い男女のようだ。
「あと3時間か・・・長いな。」
溜息をつく。
「騎士団に入りたい」母さんとの口論の末、そう言って勢いで家を飛び出してきた。そのまま火星への特急シャトルに飛び乗ったはいいが、入隊試験に合格する自身など全く無かった。筆記試験なら何とか通れそうだが、体力テストや面接対策は全くしていない。この一年、立て続けにコンクールに参加していたのだから、時間がなくて当たり前なのだが。
そもそもなぜ、曾祖父、祖父、父親の3人が音楽家だというだけで俺も音楽家にならなくてはならないのか?確かに、この国は世襲制の貴族と皇族が支配している。だが、音楽なんてものはそもそも無くても生きていけるし、誰も困らないのだ。なぜ大人は、自分の夢や理想を子に押し付けようとするのか。興味のない事を無理矢理させられることがどんなに苦しいかが分かっていない。全く。
「マイハニー、私はトイレに行ってくるよ。ちょっと前を失礼。」
「あ、はい、伯爵。」
前の席からまた会話が聞こえてきた。
そういえば、家を出てから今までの6時間ほど、一度もトイレに行ってなかったな。俺も用を足しておこう。火星の騎士団本部で行われる試験に備えて、体調は整えておかなきゃ。
機内のトイレは、男女兼用の個室が縦に3部屋並んでいて、洗面台もそれぞれの個室に備え付けてある。ドアに「御化粧などで洗面台を長時間ご使用になることはほかのお客様のご迷惑となりますので、お控えください」と注意書きが書いてある。ま、俺は化粧なんかしないし関係ないけど。
使用可否を示すランプを確認すると、うち2部屋が空いていた。俺の前の座席に座っていた伯爵様が奥に入る。
「あああ、私のストマックから宇宙創造-Big burn- (特大の屁)が起きるっ・・・革命-Revolution-(ゲロ)よりはマシだが・・・あぁっ」
妙な事を言いながらトイレに入っていく伯爵様。思わず鼻で笑いそうになったが、ぐっとこらえる。貴族の怒りを買うことは、この帝国においての社会的な死を意味する。
俺はそのまま手前のトイレに入り、後ろ手にドアを閉める。
「ふぅ、危ない、危ない・・・ちょっとしたピンチだったな・・・って、え?」
僕はそのまま固まってしまった。なぜなら、中にはまだ人がいたのだ・・・しかも、女の子。
「きゃ、きゃあっ」
薄紫色の長い髪の女の子は洗面台に立って髪形を直している最中だったようだ。
「す、すすす、すいません!間違えました」
悲鳴にパニックになった俺はあわててトイレから出る。
まあ、あの子が用を足していなかったのが不幸中の幸いだった。・・・よく考えたら、悪いのは鍵を閉めていなかった向こうじゃないか。俺は悪くない…よな?
すると、奥のトイレから流す音が聞こえてきた。さっきの伯爵様が出てくるようだ。
「ああ、非常にすっきりした。ルネッサンス的な排便体験だったよ・・・」
席に戻っていく伯爵。仕方がないので僕はそちらの個室に入った。
(さっきの伯爵、結構臭いんウンコするんだな・・・)
用を済ませ終え、そんなことを考えながら自分の席に戻る。
先程から気になっていたが、俺の前に座っている伯爵と高校生くらいの女の子の二人ペアはいったい何者なのだろうか? 伯爵様の方は金髪の肩まで伸ばした長い髪で顔半分を隠している。さらに、なぜか医者や研究者が着るような白衣を着ている。とても怪しい。貴族は国民の模範として、常識のある身なりをする事が求められている。こんなおかしな格好をした貴族は今まで見たことがない。女の子の方は、群青色の髪をポニーテールにし、右肩に垂らしている。服は紺色のブレザーに灰色のプリーツスカート、(高校の制服か?)その上から白衣を羽織っていた。科学雑誌のようなものを読んでいる。
というより、そもそも伯爵ともあろう人がエコノミークラスになんか乗っているのがおかしい。貴族なら専用のノーブレス・クラスにでも乗ればいい。
と、どうでもいいことを考える。家を飛び出してきてしまった後悔や、これからどうするかが全く決まっていないことへの不安を紛らわすために。
(やっぱり、シャトルを降りたら家に電話しようかな・・・)
そんな弱気な考えが頭をよぎる。
くよくよと自分の行為を後悔しているうちに、俺は前から来る僕と同じぐらいの年齢の女の子に気づく。よく見ると、その女の子はさっき俺がトイレの中で遭遇した子だった。だが、さっき遭った時とは違い、深く帽子をかぶり、サングラスをかけ、うつむきがちに歩いていた。まるで顔を見られると都合が悪いかのようだ。
(トイレ、長かったんだな)
と、思っていると、その女の子は通路を挟んで僕の左隣の席に座った。
(ここの席の人だったのか)
正直、全く気付いていなかった。
(・・・どうしよう、改めてもう一度謝っておいた方がいいのかな)
そんな気まずい思いをしていると、向こうから話しかけてきた。
「あ、あの、そこの方。」
「は、はい?俺ですか?」
「私の顔…見られましたか?」
「え?ま、まあ見ましたけど…それが何か?」
「い、いえ、分からないなら、それでいいのです。」
「は、はぁ…」
いきなり何を言い出すんだろうこの人は。
「…」
それきり彼女は黙ってしまった。気まずい空気が流れる。暇だし、何か話すか。
「あなたは何処から来られたんですか」
「え、ええと、地球からです。」
「いや、それは分かってますよ。これ地球発の便ですから」
「…秘密です。」
僕は彼女の装いに目をやる。
服装は上に黒いブラウス、下は膝下まである白黒チェックのプリーツスカートを着ている彼女だったが、貴族には見えなかった。
「何をされに火星へ?」
「…」
もう話しかけるなとでも言いたげに、彼女は俯いた。ここまで拒絶されるのは少しショックだったが、ここで旅の道連れトークはやめた。
そうして俺もしばらく黙っていると、せっかく忘れかけていたあの不安感がまたぶり返してきた。ああ、もう。何か暇をつぶせるものは…。ああ、あれがあった。
「え、ええと、楽譜は…と」
ぼくはバッグからバイオリンの楽譜を取り出す。その中からお気に入りの曲を選び出し、目を閉じる。
「…」俺は頭の中でその曲を演奏する。僕の頭の中に、小さい頃ヨットに乗せてもらった記憶が喚起された。
別に俺は、音楽そのものが嫌なんじゃない。進む道の選択の余地がないことが息苦しかったのだ。そういうイメージに浸っていると、隣の女の子が身を乗り出して話しかけてきた。
「あ、あの…その楽譜、G戦上のアリア、ですよね。」
「あ、はい、そうですけど。ご存知なんですか?」
「いい曲ですよね…って、あ」
あわてて元の席に戻り、元通り俯いてしまう女の子。いったいなんなんだ、この人は。
「バイオリン、弾いていたことがあるんですか?」
「は、はい…」消え入るような声で反応する女の子。彼女は続けた。「小さい頃から、ピアノ、バイオリン、声楽をしておりました。」
「へぇ、凄いですね。」
「自分から進んで習っていた訳ではないんです。家の方針で、一通り芸術関連の教養は身につけておくべきだって。」
ここまで聞いて、やはり彼女は何らかの上層階級の人ではないか、と思ったのだが、誰かと話したい気分だったので、話は止めようとは思わなかった。
「へ、へぇ…じゃあ、僕の家と同じですね。」
「えっ?」
「自分ん家は代々音楽家の家系で僕も家の名を継げってことで、強制的にバイオリンを…本当にやりたいことじゃないんです」
「へぇ、そうなんですか。奇遇ですね、私も同じなんです。私も…家の名前から逃げられないんです。先日、お兄様と喧嘩をしてしまって…それで家を飛び出してきたんです」
「実は俺も…音楽家になんかなりたくないって、母さんと喧嘩して…そのままこのシャトルに…」
「へぇ、こんな偶然もあるのですね。うふふ。」
彼女は少し笑った。少し可愛いと思ってしまった。でも、
「…あ!」彼女ははっとしたような顔をした。喋りすぎた、と思ったのだろう。そのまま再び下を向いてしまった。不審な行動を繰り返す彼女について俺はある事に気づく。
(この子、どこかで見たような…)
記憶に引っかかりを感じて、俺はポケットの中に手を突っ込んで、ネットニュースを検索する。…あった。
「道理で見覚えあると思ったら…」
俺が見つけた記事の見出しはこうだ。「王女、新国立美術館開館式にご出席」
そこには先日新しく開館した美術館の開会式で、大人達に交じってテープカットをするアイシャ王女殿下…もとい、俺の隣に座っている少女の姿があった。
なんてことだ。俺はお姫様の家出に居合わせてしまったのだ。