第二幕 始まりの始まり
狂人類の性質や生態については、実はよくわかっていない。
勿論、忌わしき「ゾンビ記念日」から2年半あれば狂人についての研究は始まっているが、大まかな性質が分かっても、細かいところはブラックボックスなのである。
だから、生き残った人々の経験則から推測するしかない。
そして、「生き残った」オレにもある程度の経験がある訳だ。
まず、彼らは純粋な欲望に従って行動する。
大抵の場合は食欲である。
睡眠欲は殆どないが一度だけ眠っているゾンビを見たことがあるので無いという訳じゃない。
また、痛覚がないので、ただ痛めつけるだけでは動きは止まらない。
骨が折れても皮膚が裂けても何も感じないらしい。
そして、常人では考えられない様なパワー。
これは脳が無意識に身体に掛けているリミッターが狂人化によって外れることによって起こることが、実験で確認されたらしい。
また、走りも速く、逃げる為には何かしらの策を練らないとデッドエンドである。
しかし、狂人化により此方に有利な点も出てくる。
まずは知能の低下だ。
純粋な欲望に従い、人間を見ると人間にしか興味がいかない。
故によく何かにぶつかるし、よく転ぶ。
また、細かい動きはできないらしく、殴ることや走ることができても、ドアを開けたり武器を使ったりはできない。
まあ、後は容姿だな。
服は血と泥に塗れ、目は真っ赤に充血している。
そのくらいか……
いつもは、最後に一つ「閉所内には存在しない」と付け加えていたのだが、それも今日で終わりらしい。
此方に背を向ける狂人と、その場に凍りついてしまったオレ。
どのくらいの間、こうして居たのだろうか。
何時間にも感じるが、実際は数分、いや数秒に満たなかった様な気もする。
しかし、いい加減にどうにかしないとヤツが此方に気づいてしまう。
候補としては、やはり走って逃げ去るのが一番の様に思える。
しかし、走っていることに気づかれればその時点でアウトだ。
ヤツらの脚は半端ではない。
こんな一本道では逃げ切れない。
逃げ切れたとしても、表通りに狂人を誘導してしまうことになりかねないのだ。
勿論のこと通報も不可能。
のんびりと通話などしている間に喰われてしまうだろう。
しかし、他に方法が思いつかない。
ヤバい。
死ぬかもしれない。
閉所に逃げ込み、遠ざかった筈の死の感覚が迫ってくる。
外の世界では何度も触れた死の感覚。
オレは死に対する恐怖を、忘れていたらしい。
思い出したかの様に、手が震え始めた。
そして、致命的なミスを侵す。
抱えていた買い物袋を、落としてしまった。
ゆっくりと振り返る狂人。
永遠の様な一瞬の間、ヤツの焦点の合わぬ眼球と目線が合う。
刹那の様な静けさ。
そして、およそ常人には出せぬ速さでヤツが駆けてくる。
片腕を精一杯伸ばし襲いくるヤツは、まるで疾走するトラックの様な印象を受ける。
正面からぶつかれば、それだけでお陀仏だ。
あっと言う間に距離を詰められたが、慌てて片方だけ存在している腕の下に飛び込む。
風を切る腕はまるで刃物の様で、もし殴られたら骨どころが身体を貫通するかもしれない。
遅れてやってきた風に制服がはためく。
勢い余った狂人は15m以上向こうで転倒して、腕の骨が折れた様だった。
初撃を避け、なんとか精神的に立て直すことができた。
ポケットを弄り、ここ最近滅多に構わなくなった自分の得物を取り出す。
バットと共に使っていた、ゴツいサバイバルナイフである。
昔、道に染みた血溜まりの周囲に落ちていた。
持ち主がどこに行ったのかは一目瞭然だったので頂いたヤツだ。
ナイフを右手で順手に握り、再び此方に駆けてくる狂人と交錯する。
腕が折れたことによって、腕を振り回す速度も遅い。
すれ違いさまにナイフで手首を切りつける。
再び距離ができたヤツの手首からは締め忘れた蛇口の様にジョロジョロと血が流れ落ちていく。
いくら狂人と言えども血が少なくなれば動きば鈍くなる筈だ。
再び、此方に走りくる狂人には、最初の様な速さも迫力もない。
そして、オレも最初の様にビビってはいない。
遂に自転車程度の速度になったヤツの足首を蹴り上げれば、グルンとひっくり返り、背をアスファルトに打ち付ける。
起き上がろうにも右腕は存在せず、左腕は不自然な方向に曲がっている。
そして、無防備な腹の肝臓の辺りにナイフを突き立て、抉り出す。
腕と腹から噴き出す赤色は、だんだんと勢いをなくしてゆく。
最後にビクッと痙攣し、動かなくなった。
息が整わないまま、死体と化したゾンビを見下ろす。
空を見上げると、さっきと変わらぬ位置に月があった。
……だんだん三日月が2つにも3つにも見えてきた。
急に身体から力が抜けたオレは、意識を失ったようだった。
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