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はじまりは、雨の日

作者: 祐

「ねぇ……拾ってあげようか?」

 秋の冷たい雨が、容赦なく僕に向かって降っていた。僕は、街の隅にある、もう使われていないビルの入り口に腰掛けて、ただぼんやりと雨に滲む街のネオンを見ていた。

 天罰だろうか……いや、よく分からなかった。

 分からなかったから、ずっとここにいたのだ。

 ここから動けずに、どこに行けばいいのか、どこが自分の居場所だったのか……。

 そんなことを考えていた僕に、いつのまにか目の前に立っていた彼女は言った。

 彼女の傾けた傘のお陰で僕はそれ以上濡れることなく、彼女を見上げていた。ただ無言で、彼女の言葉だけが、頭の中で何度も何度も響いていた。

 「そんなところで何をしてるの? 風邪引いちゃうよ?」

 彼女は笑顔を絶やさずに僕を見ていた。その瞳はとても悲しくて、優しくて、温かく感じられた。


 彼女に連れられてやってきたのは、小さな二階建てのアパートだった。

 二階の一番奥。玄関の脇に小さな植木鉢が並んでいて、ミントのような植物が時折入ってくる雨の雫を受けて、キラキラと光っていた。

「入ってきて良いよ。はい、タオルね」

 そういって彼女は僕の頭にタオルをのせ、ぐしゃぐしゃと拭くと、何か思いついたのか、ぱたぱたとキッチンへ駆け込み、温かいホットミルクを持ってきた。

「飲める? 体温まると思うけど……熱いかな?」

 よくわかんなくて、と笑いながら彼女は僕に話しかけてくる。すごくいい人だと思った。今まで出会った中で、一番いい人。温かくて、優しい人。


 こうして、僕と彼女の同居生活が始まった。


 彼女は大学生で、このアパートに一人暮らしをしていた。

 僕は正直、居て良いのか不安でしょうがなかったのだが、彼女にとっては用心棒みたいなものらしく、彼女の居ない昼間は僕が家を守る役目だった。

 彼女は帰ってくると、すぐにパソコンをつけ、何かを始めていた。

 最初は気にならなかったけれど、たまにパソコンに向かってぶつぶつ呟いたり、唸ったりしている彼女が心配になり近付くと、「ごめんね、今忙しいの」と言ってまたパソコンに向かうのだった。

 彼女が物書きの仕事をしていることを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。


 あの日も、ご飯が終わるとすぐに彼女はパソコンへ向かっていた。僕はその隣で、画面に向かう彼女をずっと眺めていた。彼女は僕の方を向いて、恥ずかしいから見ないでよーと笑った。

 笑ったと、僕は思った。でも本当は、彼女は泣いていた。

「ねぇ、どうしよう……何にも書けないんだ」

 ぽろぽろ涙をこぼしながら彼女は僕に言った。

 彼女の涙を拭えない自分が悔しかった。今まで沢山面倒を見てくれて、一人ぼっちだった僕のそばに居てくれた彼女に何も出来ない自分が悔しかった。

 僕は彼女の力になれるなんてどうして思ったんだろうか。


 僕は、無力だった。



 生まれて初めてのスランプは、初めての恋と一緒にやってきた。

 心が満ちていると、いい作品は作れないとか、そういう事を誰かが言っていたのを何処かで聞いたことはあったが、まさか自分がそれに当たるなんて思いもよらなかった。

 作品は常に私と共にあったから、無くなるなんて想像できなかった。そして、なくなってしまったとき、それは深い深い闇の中で一人ぼっちになったような孤独感を背負ったような気分だった。

 幸せなのに、不安だった。孤独なのに、幸せだった。

 ぐちゃぐちゃな感情が、ぐちゃぐちゃに押し寄せてきて、私はぐちゃぐちゃになった。

 私は、私が、崩壊した。

 それに初めて気が付いたのは、秋の始まりだった。

『ごめん……やっぱり無理だ』

 電話越しに聞こえる大好きな人の声は、遠くに響いて行って、今までで聞いたことの無いくらい無機質な声に聞こえた。

 言葉が出ない、沈黙。そして雨音。

「あ、うん……ごめんなさい」

 時間をかけて搾り出した言葉はこれだけだった。

 傘に当たる雨音と携帯から聞こえる通話終了音が、エコーが掛かったかのように耳に残り続けていた。

 それから私は、ぼんやりと雨に滲むネオンの町を歩いていた。ただ、ぼんやりと自分は一人ぼっちになったんだと言うことだけ理解していた。町の隅の、もう使われていないビルの前に差し掛かったとき、か細い声が聞こえたようで、私の足は止まった。

 そこには、私と同じ一人ぼっちの黒い猫が虚ろな目をして町を見ていた。


「ねぇ、拾ってあげようか?」


 私はその猫に、リンと名付けた。



 真っ暗な世界に、私は一人で漂っていた。

『どうしたんだい?』

 暗闇の奥から声が聞こえた。それは、初めて聞くのに懐かしいような声だった。

「物語が作れないのよ」

『なんだそんなことかい』

「そんなことって……私にとってはすごく大切な事なのよ! 仕事なんだから」

 私は見えない声の主に向かって怒鳴っていた。

『仕事。君は仕事だから物語を書いているのかい?』

「ええ、そうよ」

『じゃあ、もう君は物語を作ることはできないね。私には分かる』

「分かるって……あなたに何が分かるのよ!」

 そうだ、何も分かりやしない。みんな私の気持ちなんて分かるわけが無い。

 私は、書かなくてはいけない(・・・・)のだ。

 私の作品を待っていてくれる読者のために、私を支えてくれる担当さんのために、両親のために、友のために……

『君は、君自身が幸せじゃないから何も生み出せないんだよ』

「私は幸せだと作品が書けなかったのよ。そのせいで、色々なものを失った」

『いいや、それはちがう。君は幸せのせいにしているだけだ。君が彼氏と別れたのは、君が弱かったから。自分に自信が持てなかったからだ』

「……ッ」

『そうやってなんでも他のモノのせいにしている間は、君はいつまでたってもそのままなんだ』

 涙が溢れてきた。ぽろぽろと、零れ落ちていった。

『僕はね、夢喰いなんだよ。彼に頼まれて、君の不幸を食べにきたんだ』

「彼……?」

『そう彼。ずっと君のそばに居てくれているよ。彼はね、自分の命の変わりに君を助けてくれと僕に言ってきたんだ。だから、僕はここにいる』

 愛されてるねーと夢喰いはくすくす笑った。

 私は、わけが分からなかった。ただ、ぼんやりと聞こえてくる声を聞いていることだけしか出来なかった。

『君が自分は一人だとか、書くことは義務だとか、うじうじしているのを心配しているモノもいるんだ。君は自己中心的だね。まぁ、君みたいに夢を叶えた人は、妙な義務感を持ってしまうのはしょうがないとは思うけどね。君が夢を掴んだのが、君の努力によるものなら、君が楽しんでいることが何よりだと僕は思うよ』

 声が近付いてきたかと思うと、目の前に頭から布を被った人がスーッと現れた。

『さて、少し喋りすぎたようだ。どうするかい? 僕は君の不幸を食べたほうがいいかい?』

 どれくらい時間が流れたのだろうか。一分いや一秒、もしかしたら十分くらいだったかもしれない、長い沈黙が続いた。

「……いいえ、結構です」

 私の答えを聞くと、夢喰いは『そうかい』とだけ言って姿を消した。


 私は、夢から覚めた。


 目を開けると、リンが心配そうな顔をして私を見ていた。そして、私が起きたことに気付くと、頬を摺り寄せてきた。

 ふと、留守電のランプに気が付いて電話に駆け寄ると、担当さんからの伝言が残っていた。書けなくて、申し訳なくて、そっけない態度をとっていたのに、伝言は全て優しさに溢れている言葉で、私は耐え切れず子供のように声を出して泣いた。


 まだ、物語を書くことは出来ない。でも、もう何も失ったりしない。

 私の速さで、もう少し頑張ってみようと思う。


 少しあけた窓の隙間から入ってきた冬の始まりの冷たい澄んだ空気が、カーテンを揺らしていた。

 私は大きくのびをしてパソコンに向かう。


 はじまりは、雨の日。


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