この世でいちばん辛いこと
若き物理学者であるおれ、氏家三太郎は三ヶ月前に別れた彼女と縒りを戻すため、タイム・マシンを開発した。
相当な大発明であるからしてこれから先、世間からは非常に多くの需要が見込める訳であり、無限にも等しいその有用性が認められることは火を見るよりも明らかである以上、収入も莫大なものになる筈であるからおれの目の前はバラ色となる見通しではあった。しかし第一の目的はもちろん、奈々子にフられた日におれ自身が戻り、失敗を防いで彼女とめでたく結ばれることにあったから、タイム・マシンは先ずはそのために使用することとし、世間への公表はしばし差し控えることにした。
実行のその日、おれは研究室で朝を迎えた。
薄い朝陽。煙草臭い、白い壁の研究室内には、ほのかに冷気が漂っていた。
「うはは…これで、奈々子もまた戻ってくる」
おれは満足して、数ヶ月剃ってない無精ひげを撫でた。そして、机の上に置いてある手のひら大の筐体に目をやった。
小型の音楽再生機のようなメタリック・ブルーの直方体。その表面には数桁のデジタル数字ディスプレイがあり、側面には幾つかのボタンとジョグ・ダイアルがあった。
「皆さんのご想像のタイム・マシンとは、かなり違う形をしているとお思いでしょうが…」
おれはこの紙面に目を落とすあなたを見上げ、言う。
「現代のタイム・マシンとは、もはや、アシモフの世界に出てくるような大掛かりなものではないのです」
そう言って、本体を手に取る。
伸びたコードの先には注射針のような細長い差し込みプラグのみがある。これを両耳に入れると、ファイバー状の可変プラグは中耳・内耳を通過し、脳髄に達する。そこの記憶野に電気刺激と、高圧縮した時間信号を光で送ると、光と電気の交配により、特殊な脳波が発生する。電気刺激と時間信号は、本体内部のディスクの高速回転により発生する。
また、本体内部の他のソフト、磁場ディスクも高速回転し、強力な磁場を生成する。先ほどの脳波とこの磁場とのシンクロにより時空の歪みが生じ、マシンに接続した本人は、違う時空間に飛ばされる、という仕組みである。
前夜の最終チェックに多少の不安を感じたものの、理論に欠陥はないし、試運転はほぼ百パーセント成功している。
「さて、始めよう」
おれは己の両耳にプラグを差し込んだ。頭の芯に冷たい水滴が垂れるような感覚が一瞬だけし、注射針のような細長い端子は脳髄に達した。
「ひうっ。いつまで経っても、この感覚には慣れねえや」
おれは肩をすぼめ、ジョグ・ダイアルを回してディスプレイの数字を三ヶ月前の日付に合わせた。
「行くぞ」
そして、「再生」ボタンを押す。
ブゥゥ…ン…。蜂の羽音のようなディスクの回転音がしたかと思うと周囲の景色が歪み、おれは気が遠くなった。
気付くと、同じ研究所内に立っていた。
おれは慌ててコードを引き、プラグを耳から抜く。
卓上の電子カレンダーを見ると、表示は見事にタイム・マシンで設定した日付となっていた。
「成功だ」
おれは呟いた。
「それで、結論は出たの?」
背後から、奈々子の声が聞こえた。先ほど申し上げた、おれの彼女である。おれはギクリとし、ゆっくりと後ろを振り返った。
彼女は腕を組み、研究室の入口ドアに凭れている。眠たげな瞼とは対照的にキツく、合理的な性格をした彼女は、若くして精神医学の教授になるだけあり、男も舌を巻く頭脳を持っている。
「…どうなの…ホントに坂巻さんのとこに、行ってもいいの?」
「あ、ああ…」
曖昧なこの返事も、前と一緒だ。
同じである。全ての状況が、三ヶ月前と一緒だ。おれは、全く同じ状況に戻ってきた訳だ。
「いい加減、あなたのその優柔不断さには付き合いきれないわ」
奈々子はスレンダーな長身をドアから離す。
「最後の質問よ。研究とあたし、どっちを取るの?」
「『人間関係の煩わしさは、浮世のみの苦しみ。しかし達成した業績は、永劫続く』…この言葉、忘れてないだろう?」
奈々子は当たり前よ、と不貞腐れたように言った。
「そう、他でもないおれたちの恩師、故・韮山先生のお言葉だ。浮世の煩悩に振り回されて普遍の真理の確立を逃すのは馬鹿げてる。…真理は残る。例えおれたちの身が滅びても生き続けるんだ」
おれの口調は、知らず熱くなる。
「そんなことは百も承知よ!」
奈々子が叫ぶ。
「分かりきったことを繰り返して、話を逸らさないで」
「止してくれ…君ほどの女が…」
おれは目を逸らした。…ん? あれ? どっかで聞いたことのある台詞だ。前も言ったか?
「…わたしは女よ。やっぱり愛をくれる人がいいに、決まってるじゃない」
奈々子は涙ぐんだ。
「あなた、それでも私を愛してる、って言える?」
参った。結局、どんな女性も、こういう時にはお涙だ。
「愛してるさ」
おれは吐き捨てるように言った。…ん? お、おいおい、これじゃやっぱり、あの時とまるっきり一緒じゃないか。
「それじゃ、結婚してくれるのね!?」
「だから…」
どうしてそうなるのかな。おれは言葉に詰まり、首を振った。事実、おれは奈々子を愛していた。しかし結婚だけはどうしても避けたかった。子供もできて、貴重な研究への時間と労力を、いささかなりとも育児や生活費で削られるなど、真っ平である。
「やっぱり…」
奈々子はこの世の終わりのような声を出す。
「あなたにとって、私は世界で一番大切なものじゃ、ないのよ」
女とは、何と厚かましい考え方をするのか。おれから研究を、夢を取り上げる気か。そんな考えさえ浮かんでくる程、そのときのおれはどうにかしていた。ついカッとなったおれは、知らず挑発口調となる。「だから何度も言うようにだな、研究とお前、どっちも大事なんだ。次元が違うんだよ。どちらかを取るとか、そういう問題じゃない!」
奈々子はわっと泣き出した。
そこへ、心配で様子を伺いに来たのか、同僚研究者の坂巻が顔を出した。これもあの時と一緒だ。
「三太郎、お前本当は、学部長の娘の桃子さんと結婚する気なんだろ?」
坂巻はフラフラする身体を支えながら言った。白い頬はゲッソリ落ち窪み、唇と目の下の隈は紫色である。坂巻は癌である。余命幾ばくもなかった。
「ひ、酷い。言いがかりだ!」
おれは叫ぶ。しかし、将来のことを考える上で、学長の椅子もかたいと噂される現在の理学部長の娘、桃子との結婚も、満更ではないという気がしていたのも事実である。そういう点でおれは、幾ばくかの後ろめたさも持っていた。
「わたし、知ってる。あの子、あなたに気があるって噂、聞いたのよ。こんなツンツンした女と違って、それは、可憐なお嬢様らしいわねぇ…」
いつの間にか泣き止んでいた奈々子は、蔑むような視線をおれに送る。
「何かと理由を付けてあなたに会う度にいつもあの子、あなたに対して色目を使ってたわ」
再び悔しそうな顔をする。
彼女がおれに好意を持っていてくれたらしいことは、ぼんやり感じていたが、奈々子がそこまで見ていたとは。
「おれなら、奈々子を護ってやれる。ずっと愛を与えてやれる」
苦しそうな息をしながら坂巻は奈々子の肩を抱いた。線の細いおれと違い精悍だったのに、彼の太かった腕も、今や鶏の肢のようである。
「これからどれだけ愛せるか分からないけど…おれは頑張る。死に向き合ってみて、初めて気付かされた。普遍の真理も大事だが、やっぱりこの世での愛が最も尊い」
「坂巻…お前、弱くなったな」
おれの口許に、冷やかな笑みが湧く。
「な…」
坂巻の顔が歪む。
「昔はもっとドライな切れ者だったのにな。…お前は人を愛するということにすがりたいだけなんだ。死を目前にして、何かすがるものが必要になっただけなんだ。種の保存の鉄則を、忠実になぞり始めたんだよ」
「そうよ」奈々子が決然と言った。「それでいいじゃない。あなたもたまには、いいこと言うわね。結局、人は、一人じゃ生きていけないのよ。これは誰にでも当てはまるわ。わたし、最後まで彼に付き添う」
おれは、少なからず動揺した。やはり、破局は免れないのだろうか。次第に落ち着きを取り戻し始めた奈々子は、おれに見切りを付け始めている。
「仕事に打ち込んで、何が悪い!」おれは声を荒げた。「例えおれが同じ立場に立ったとしたら、おれは死ぬ最後の瞬間まで、そんな弱音を吐かずに研究に打ち込むね。言わば、この世に残される真理が、おれのDNAなんだ」
「じゃ、あなたの気持ちは変わらない訳ね…?」
奈々子はもはやおれを見ずに、皮肉な笑いを浮かべた。すっかり普段の自信家の顔に戻っている。
「行こう」坂巻も奈々子の肩を抱いた。「こいつにもう、何を言っても無駄だ」
「ああ…行っちまえ」ヤケになり、おれは叫んだ。「この世でもっとも辛いこと、それは…真理の探究ができないことだ!」
ついカッとなり、そんな言葉が口を衝いて出てきてしまう。ああ…これも、あの時のまま。やはり止められなかった…。
悲しそうな顔で坂巻は振り返りざま、吐き捨てるように呟いた。
「この世でいちばん辛いことなんて…この世にまだまだ沢山あるんだぜ」
そう。以前のシナリオでは、取り残されたおれは学部長の娘と婚約まで交わし、研究に邁進したのだ。研究の成果もそこそこ上がり、学部長にも認められたおれの目の前には早々に助教授の椅子も用意され、おれは師の教えと自分の哲学に従い、真理の探究に突き進んだ訳だ。
しかし、奈々子を失った虚しさは想像以上におれを苛んだ。心に全く大きなブラック・ホールが出現したように虚しさを感じた。彼女が必要だと思う気持ちは日に日に強まり、終いにおれは、絶望にも似た感情を味わうこととなり、研究にも全く手が付かなくなってしまった。これには参った。全くの予想外だった。
「今までおれが研究に打ち込んで来れたのも、あいつの愛が知らず知らず作用していたのだ」
やはり、動物は独りでは生きられないのだ。
しかし、悟った時にはもう遅い。既に坂巻は死んでいたものの、奈々子の心は二度とおれに向くことはなかった。おれは絶望し、自殺さえ考えた。
しかし卑屈なおれはある日、時間を戻すことを思い付き、持てる能力を総動員してポータブル・タイム・マシンを開発したのだ。この発明自体世界をひっくり返す程の革命的なことであり、歴史上に燦然と輝く新たな「真理」であったが、それでもおれの心は依然として空虚なまま。
真理を打ち立てたという事実さえも、おれの心を癒すに足りなかった。
「やはり、おれには奈々子が必要なのだ」奈々子と坂巻が去った後、独り冷たい研究室に取り残されたおれは、手のひらのマシンを見て、呟いた。これが二度目である。「しかし、せっかく“あの時”に戻って来たというのに、また同じ結果をなぞるとは…」全く馬鹿である。おれは独り笑い出した。
「そう言えばテスト・ドライブの時も再生をリピート・モードにしたりして、同じことを繰り返したりしたっけな。わははは!」気持ちが少し、明るくなった。
「は…」ひとしきり笑うとまた虚しくなり、おれは真顔に戻った。こうしてばかりもいられない。
「さ、もう一回」
おれは再びプラグを両耳に差し込み、ジョグ・ダイヤルを回した。
「じゃ、あなたの気持ちは変わらない訳ね…?」
奈々子はもはやおれを見ずに、皮肉な笑いを浮かべた。すっかり普段の自信家の顔に戻っている。
―おお、さっきと同じだ。
「行こう」坂巻も奈々子の肩を抱いた。「こいつにもう、何を言っても無駄だ」
―ここで、以前の“頭の固い“おれだったら、ヤケになって叫んでいただろう。“ああ…行っちまえ”と。しかし、今回は違う。
「行かないでくれ!」おれは必死の形相で叫んだ。「この世でもっとも辛いこと、それは…お前を失うことだ!」今度はキマった…。これで奈々子もおれの言葉に打たれ、戻ってきてくれる筈だ…。
奈々子と坂巻は立ち止まり、呆気に取られた顔でおれを振り返った。
暫しの沈黙。しかし、
「残念だけど…」信じられない言葉が耳に飛び込んで来た。「今さら、もう何を言っても無駄。もう、私の心は坂巻さんを向いてしまってるの」冷ややかなその目は自信に溢れ、傲慢そうにさえ見える。
「三太郎、お前、取り返しのつかないことをしたんだ。もう遅い」
踵を返すと、坂巻は奈々子の肩を抱き、足早に部屋を出て行く。
「ど、どうして…!」
おれはヘナヘナと腰を落とした。
「さようなら」
と奈々子。
ちょっと待て。それじゃ、おれが時間を遡った意味もなくなるじゃないか。
「待ってくれ!」
おれは研究棟の廊下を駈けた。二人は遥か彼方へと歩み去っている。
「このままじゃ、おれは、おれは大発明こそすれ、心は満たされぬ卑屈な研究者のまま終わっちまう!」
「素晴らしいじゃないか…」振り返りざま、坂巻は荒い息の下、思い切り皮肉を込めて言った。「ナポレオンも漱石もフロイトも、皆んな浮世では卑屈な小心者だったんだ。お前も、その仲間入りだ」
「嫌だ! そんなのイヤだ!」
追いついたおれは、奈々子の腕をつかんだ。
「や…ちょっと…」奈々子は気持ち悪いものに対するようにおれの腕を振りほどいた。「離して…」愛が離れると、女の対応はこうも変わる。
「おれは気付いたんだ。愛が全てだ!」
「さっきと言ってることが、全く違うじゃないの。都合が良すぎる!」
「奈々子!」
おれは尚も彼女にすがりついた。
そこへ、鉄拳が飛んできた。坂巻の拳である。
「へぶッ」
顔面を殴られたおれは、冷たい研究棟の廊下に転がった。
「いい加減にしろ! しつこいぞ、三太郎!」
おれの前に立ちはだかり、坂巻は渾身の力で怒鳴った。
「うわぁ~ん!」おれは泣き出した。気付くと、タイム・マシンも生物研究室の入口にまで吹っ飛び、転がっている。おれはそれを拾い、再び両耳に装着した。「畜生、畜生…またやり直してやる」ジョグ・ダイヤルを回す。
ガビ…ブゥ…ガ…ン…ガ…。多少、雑音が混じっていたが、そんなことに構っていられない。もう、おれには奈々子しかいない。彼女を失ったら、世界の崩壊だ。おれは本当に死ぬ。死んでやる。この世に彼女を失うこと以上に、悲しいものがあろうか。
気付くと再び廊下に戻っている。
「待ってくれ!」おれは研究棟の廊下を駈けた。二人は遥か彼方へと歩み去っている。今度はかける言葉を変えよう。「奈々子! おれは気付いた!」もうちょっと謙虚に。「都合が良すぎるかもしれないけど、いま分かった…」更に駈けたまま、叫ぶ。「この世で、お前が全てなんだ!」
奈々子の肩が僅かに震えたような気がした。
「奈々子! ごめん。やっぱり、学問以上に大切なことがあった!」そうそう。まだキメ台詞は早い。…さっきはそれを言うのが早すぎて、落とし所を間違ったんだ。
奈々子の足が止まった。「ウソ…」
お、脈ありか!? 坂巻が、怪訝そうに奈々子の顔を覗き込んでいる。
「この世でもっとも辛いこと、それは…お前を失うことだ!」
「三太郎…」奈々子が初めて振り返った。目には再び涙が浮かんでいる。
よし。最後のひと息。「…愛してる」
そう言おうとした瞬間、唇の動きが一瞬止まり、時間が一瞬だけ前に戻った。
「愛…」更にもう一回。「愛…」
「あい、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああ」
おれは「あ」だけを連発する羽目になった。マシン内部のハードディスクのピックが飛んだのだ。レコードの針飛びと同じ現象である。さっき落とした時に内部ディスクが傷付いたのだろうか。「愛し、愛し、愛し」「ああああああ」「あい、あい」「ああああああ」
冗談じゃない、こんな大事な場面で!
おれは焦った。しかし身体は無意識に、時を一瞬だけ遡ることを繰り返す。「あ、あ、あ、あ、あ、あああああああ」
その後数十回スクラッチを繰り返し、ポータブル・マシンはようやく正常に戻った。
ああ、びっくりした。またストーリーの再開である。
「駄目だ! 奈々子! そんな言葉に惑わされちゃ、駄目だ!」不安そうな坂巻は奈々子の手をつかみ、早足で歩き出した。「結局あいつは、裏切るんだ!」
「え、ええ…」奈々子もおれを振り返り振り返り、坂巻に引かれるままに歩き出す。
「待て!」冗談じゃない。こんなチャンスを、逃してたまるか。ここが正念場だ。おれは飛ぶように走った。
おれたちは、キャンパスへ出てきた。
麗らかな春。ちょうど新入生歓迎の時期でもあり、桜咲き誇る学内は新入生たちでごった返していた。
ふだん研究室にこもり切りだったおれに、この緑と陽の光と若さの横溢は、久々に味わう新鮮な刺激。おれも自身の十数年前を思い出していた。
前を行く二人は学生やサークルのブースの間を縫って、緑の芝生を駆け抜ける。
「待て~!」
おれも必死にそれを追う。
白衣の研究者、男女三人の追跡劇を見て、
「何?」
「どうした」
学生が振り返る。
やがて、おれたちは中央の広場に出た。テニスに演劇、DJに英会話…様々なサークルのブースが並び、その様は百花繚乱。通常のブース以外にも焼きそば屋やおでん屋まで行うところもあり、しがない理系の学生だったおれには、無縁だったにぎやかな世界。
徐々に前の二人とおれとの距離が縮まる。無理もない。おれが追っている二人は、そもそも病人と女性なのだ。
おれは更に走った。
「待ってくれ!」
右手を伸ばす。春の風が、生暖かい。
チラリ、振り返る奈々子。その目の中には、いまだおれにその心を委ねても良いのだろうかという迷いも見出せ、おれにもほんの僅かながら、希望が出てきた。
顔面蒼白の坂巻がぜいぜい言いながら、バテ始めた。
「奈々子ぉ~!」
おれは更に手を伸ばす。
テニス・サークルのおでん屋と、囲碁部のたこ焼き屋の前に来た時、彼らは完全にスピードを落とした。
「誰か…後ろの暴漢を…つかまえてくれ…ヒイ、ヒイ」
坂巻が、かすれた叫びを上げた。
「なに言ってやがる」
しかし、もうすぐだ。おれはありったけの力を込めて、手を奈々子の華奢な肩に伸ばす。
「愛してる…」
奈々子の肩に、正に手がかかろうとしていた。
一瞬、桜と曇り空を背景にした奈々子の目に、喜色が兆したような気がした。
その瞬間。
「うぉらぁ~!」太い腕が、おれのズボンのベルトをつかんだ。振り向けば、ラグビー部の屈強な男の、角刈り頭と太い眉が目の前にあった。坂巻の叫びを聞きつけたのだろうか。「この、変態がぁ~!」
「離せ…」
そう叫ぶ間もなく、おれがちょっと前進した瞬間、ズボンがずり落ちた。パンツごと足首まで、綺麗にずり落ちた。
「ああ!」
足を取られたおれは振り向きざま、股間を晒して仰向けに倒れた。仰ぎ見れば、立ち止まった奈々子が、学生と共におれを見ている。
うわははは! 学生の爆笑。奈々子も口を押さえ、笑っている。何ということだ! おれは凄まじい恥を晒している。
そこへ、傍にあったおでん屋台の大鍋が、今の騒ぎでずり落ちて来た。
バシャバシャー、ぐつぐつ煮立ったダシ汁とおでん種が、おれの顔面にもろにかかる。熱湯が目と言わず鼻と言わず侵入し、そのせいで窒息する感覚は、ちょっとやそっとでは形容できない。
「あぢ~~!!」
おれは苦しさの余り、傍のたこ焼きブースの垂れ幕を引っ張った。わあわあ騒ぐ学生が阻止する間もなく、今度はアツアツに熱せられた鉄板がおれの股間に落ちてくる。
じゅわっ、おれの股間が、数百度の鉄板によって焼け爛れた。一瞬である。
「……!!」
もはや、言葉にならない。景色が、ぐるぐる回る。もう駄目。死ぬとは、こんな感覚を言うのだろうか。気を失いかけながらも、おれの手は苦しさの余りポータブル・タイム・マシンを握りしめる。ペキ、嫌な音がした。
その瞬間、時間が戻った。
ガ…ガガ…。遡行の瞬間、嫌な雑音が聞こえた。
「離せ…」
そう叫ぶ間もなく、おれがちょっと前進した瞬間、ズボンがずり落ちた。パンツごと足首まで、綺麗にずり落ちた。
「ああ!」
足を取られたおれは振り向きざま、股間を晒して仰向けに倒れた。仰ぎ見れば、立ち止まった奈々子が、学生と共におれを見ている。
うわははは! 学生の爆笑。奈々子も口を押さえ、笑っている。何ということだ! おれは凄まじい恥を晒している…。
―どういうことだ! さっきの出来事の繰り返しではないか。
おれは恥ずかしさで顔を赤らめながら、意識の片隅で恐怖した。しかし、身体は言うことをきかない。惨劇は冷酷かつ忠実に、進行する。
…そこへ、…おでん屋台の大鍋が、今の騒ぎでずり落ちて…バシャバシャー、ぐつぐつ煮立ったダシ汁と…おれの顔面にもろに…熱湯が目と言わず鼻と言わず…そのせいで窒息する…。
―ちょっと待てちょっと待て!
「あぢ~~!!」
おれは苦しさの余り…アツアツに熱せられた鉄板…股間に落ちて…じゅわっ…股間が、数百度の鉄板によって焼け爛れ…。
―まさか、まさか…。
「……!!」
もはや、言葉にならない。…もう駄目。死ぬとは…気を失いかけ…苦しさの余り…タイム・マシンを握りしめる…。
―まさか、このままさっきの場面に戻るんじゃ…!?
容赦なく、時間は戻る。
「離せ…」
そう叫ぶ間もなく、おれがちょっと前進した瞬間、ズボンが…。
惨劇が、また正確にリピートされる。
―元々傷のついていたディスクが、強く握り締めたショックで再び“音飛び”を起こしやがったんだ。今回のこのタイム・マシンは欠陥品だ。研究は完全な失敗だったのだ。それにしても、あとどれくらい続くんだ…!?
おれは、激痛に悶える意識の片隅で、凄まじい驚愕に襲われた。全ては意識しても身体の自由の利かない一瞬に起こることであり、おれにはマシンをいじる余裕さえない。
―もし、もしもだ…この音飛びが治らず、永遠に続くとしたら…。
おれは発狂しそうになった。しかし、それさえもままならない。じっさい、発狂する自由さえないのだから
「股間を晒して仰向けに」「熱湯が目と言わず鼻と言わず」「あぢ~~!!」…激痛以上の激痛に苛まれ、おれは意識を失い、またそれを取り戻させられながら思った。
…こりゃひどい…真理の探究どころの話じゃない…。ギリシャ神話にもあったな…永遠の苦痛の連環に陥った、タンタロスの話…。
脳裏に、坂巻のひと言が甦る。
「この世でいちばん辛いことなんて…この世にまだまだ沢山あるんだぜ」
奈々子と別れるなんてのも、可愛いもんだ。こんな苦痛があったなんて…おれは、ようやく口を動かし、一連の激痛の合間に、辛うじて言葉を挟んだ。
「こりゃ正に、この世でいちばん辛いことだ」
2003年3月16日に書いた作品です。




