第4話 認知の歪みと、等価交換の嘘
16時15分。
俺は一分の狂いもなく、第一家庭科室の引き戸を開けた。
「効率的孤独」を標榜する身としては、他人の呼び出しに律儀に応じるなど、本来であれば論外のコスト払いだ。しかし、断るためのリソース――「なぜ行かないのか」という言い訳を考え、その後のクラスでの微妙な摩擦を処理する時間――を計算した結果、「行くのが最も低コスト」という結論に達したに過ぎない。……そう、自分に言い聞かせていた。
夕暮れの室内には、昨日と同じように無機質なステンレスのシンクと、そして彼女が待っていた。
白石琴音はエプロンをつけず、制服のブレザー姿のまま、調理台の椅子に端然と腰掛けていた。その手元には、小さな紙箱が置かれている。昨日のクッキーを焼いたときのものとは別の、百貨店で見かけるような高級感のある包装だ。
「一分の遅延もなく到着したことは評価に値します、長谷川君。あなたのその、知性に欠ける風貌から推測するに、五分以上の遅れを想定していましたので」
彼女は立ち上がり、冷徹な敬語で俺を迎えた。昨日、耳の裏を赤くして俺の「修正」を受け入れていた少女と同一人物とは思えないほど、その「完璧な美少女」の仮面は硬く、強固に修復されている。
「そりゃどうも。で、何の用だ。昨日の実験データの最終処理とやらは」
「言葉通りの意味です。私は他者から不当な債務を負うことを嫌います。昨日のクッキー調整におけるあなたの労働力、およびアドバイスという名の付加価値に対し、適切な対価を支払う必要があります。これは経済活動における基本原則です」
琴音はそう言って、机の上の紙箱を俺の方へと滑らせた。
その動作には、一切の迷いがない。完璧な計算に基づいた、事務的な決済の光景だ。
「等価交換、ですか」
「ええ。中身は、本日午前中にクラスで配布したものとは異なる、成分比率を厳密に再調整したクッキーです。あなたの粗雑な味覚でも、その品質の差異は感知できるはずです。これをもって、私とあなたの間の貸し借りは完全に相殺されたものと定義します」
箱を開けると、昨日よりもさらに美しく焼き上がったクッキーが並んでいた。
表面の焼き色、形、ラッピングの角の立ち方まで、すべてが完璧。昨日、俺が施した臨機応変の処置(脂質の追加とグルテンの処理)を、彼女は完璧にマニュアル化し、自分の技術として完全にトレースしたのだ。
俺は一枚を手に取り、口に運ぶ。
サク、という心地よい破砕音とともに、上品な甘さとバターの香りが広がった。文句のつけようがない。
「……美味いな。お前の論理通り、完璧な出力だ」
「当然です。私の計算に狂いはありません」
彼女はふっと、満足げに口元を歪めた。
だが、その瞬間。俺の「人間観察センサー」が、彼女の視線の推移を鋭く捉えた。
彼女は、俺がクッキーを噛み砕き、飲み込むまでのプロセスを、まるで固唾をのむように、瞬きもせずに凝視していたのだ。そして、俺が「美味い」と言った瞬間に、ほんのわずかだけ、胸のあたりでホッとしたように小さく息を吐いた。
その仕草を見た瞬間、俺の胸の奥で、奇妙なノイズが走った。
(……待て。なぜ俺は、こいつのこんな微細な変化を、いちいち正確に読み取ってしまっている?)
ただの利害関係だ。等価交換の決済だ。それなのに、俺は彼女の「他人の評価に怯える実態」を、昨日よりもさらに生々しく意識してしまっていた。この箱の中身は、クッキーなどではない。彼女の防衛本能が作り出した、脆く薄い壁そのものだ。
「白石。お前、これが『等価交換』だって本気で言ってるのか?」
問いかける俺の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
「何か異論でも? 私の算出したレートに不備があると?」
「大ありだ。お前はただ、自分の不完全さを知られた事実を、このクッキーという対価で『無かったこと』にしたいだけだろ。これは決済じゃない。ただの、自己防衛のための買収だ」
冷徹な言葉が、俺の口から滑り落ちた。彼女の防壁を許さなかった。
琴音の表情が、一瞬で凍りついた。
完璧だった瞳に、明確な「怒り」と、それ以上の「動揺」が火花を散らす。
「……長谷川君。あなたは、本当に不躾で、傲慢で、他者の領域に土足で踏み込む不快な存在です」
彼女の声のトーンが、一段と低くなる。敬語という名の仮面は維持されているが、その内側にある感情は、完全にコントロールを失いかけていた。
「私が、どのような動機で動いていようと、あなたには関係のないことです。私は完璧でなければならない。そのためのコストを、私がどう支払おうと、あなたの預かり知らぬところです!」
「関係ない、か。だったら、最初から俺を呼び出すなよ。一人で完璧な世界に引きこもってろ」
俺は箱の蓋を閉め、彼女に背を向けた。
これ以上は、お互いのリソースの無駄遣いだ。効率的孤独の美学に反する。これ以上の対話は、俺たちのどちらにとっても、負の感情を蓄積させるだけの「コスト」に過ぎない。
だが、背後から聞こえた彼女の小さな足音が、俺の足を止めた。
振り返ると、琴音は調理台の端を両手で強く握りしめ、俯いていた。その指先が、白くなるほどに力が入っている。彼女の肩が、不自然に震えていた。
「……呼び出したのは、あなたが……」
彼女の声音から、先ほどの怒りが消え、ひどく脆い「行間」が漏れ出していた。
「あなたが、私の不完全さを、肯定したからです。……クラスの誰もが、私の作ったものを『完璧だ』と盲信しました。でも、あなただけは、それが『修正されたもの』だと知っている。私という不完全な数式を、知っている……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、怒りでも拒絶でもない、名付けようのない「渇望」が揺れていた。
「私は……それを、無かったことにしたいわけではありません。ただ、どう処理すればいいのか、私の論理では、まだ計算が追いつかないのです」
夕闇が、再び二人の間に境界線を引いていく。
彼女を「単なる傲慢な優等生」として処理しようとしていた俺の認知は、その一言によって、完全に歪められてしまった。
彼女の弱さは、彼女自身が何よりも認めようとしない、しかし最も抱きしめるべき「彼女の一部」だったのだ。俺は逃げ出そうとしていた足を止め、再び彼女と対峙するために、ゆっくりと踵を返した。




