第9話 破壊神の散歩道
アステミア王国北端、アイゼン砦から数キロメートル離れた『忘却の森』
本来であれば静謐な緑が支配するはずのその場所は今、酸鼻を極める戦場へと変じ、獣の咆哮と肉を裂く音が木霊していた。
「……くそっ! こんな場所にこれほどの数が潜んでいたというのか!」
グリハンは刃のこぼれた長剣を杖代わりに、辛うじて膝をつかずに踏みとどまっていた。彼の周囲には、共に哨戒任務に当たっていた彼と同じ部隊十数名が既に事切れるか、重傷を負って倒れ伏している。
グリハンはまだ動ける同じ部隊の数名と背中合わせになり、武器を構える。
彼らを包囲しているのは、ファルバラ帝国の魔獣兵団――その醜悪な尖兵。
体長三メートルを超える『双頭の魔狼』が五頭。そしてそのそれぞれの背中には、それらを操る帝国の「魔獣使い」たちが不敵な笑みを浮かべて杖を構えていた。
「無駄だ、アステミアの兵士どもよ。その傷では、我が愛獣の一噛みにすら耐えられまい。大人しく食われ、我が軍の肥やしとなるがいい」
魔獣使いの嘲笑に、グリハンは奥歯を噛み締めた。
身体中の骨がきしみ、視界は失血で赤く染まっている。だが彼の脳裏をよぎるのは、自分自身の死への恐怖ではない。
(……すまない……リオラ。神父様。……ラオ。俺が……俺が弱いばかりに、あそこ(教会)まで奴らを通してしまう……!)
グリハンが死ねば、この防衛線の穴から魔獣たちが雪崩れ込む。その先にあるのは、あの温かいシチューの香りがする食卓と、無邪気な子供たちの笑顔が踏みにじられる未来だ。
「……まだだ。まだ、俺の……俺の剣は、折れていない……!」
グリハンが震える足で立ち上がった、その時だった。
「……やれやれ。これだから人間という種族は。己の限界も知らずに、泥臭く足掻くことだけは一人前よな」
場にそぐわない、透き通るような少年の声。
魔獣たちも、帝国の兵たちも、そしてグリハンも、驚愕に目を見開いて声の主を探した。
そこには、戦場の中心――血に塗れた泥濘の上に、場違いなほど真っ白なシャツと短パンを纏った少年が、退屈そうに立っていた。
黒髪を風になびかせ、夜空のような瞳で周囲を睥睨する。
「……ラ、オ……!? なぜ、ここに……逃げろ! 早く!」
グリハンが悲鳴のような声を上げるが、ラオは一歩も動かない。それどころか、鼻を鳴らしてグリハンを一瞥した。
「小ヌルい。小ヌルすぎるぞ、グリハン。我に稽古をつけると言った口で、これしきの野犬相手に手古摺るとは。……我の『弟分』を名乗るには、千年は早かったようだな」
「ガキが、どこから紛れ込んだ! 構わん、まとめて食い散らせ!」
魔獣使いの合図と共に、二頭の双頭狼が、音もなくラオへと飛びかかった。
巨大な顎が、少年の小さな頭部を粉砕せんと迫る。
グリハンが絶望に目を逸らそうとした、その瞬間。
「……失せろ。羽虫ども」
ラオが、右手の指をパチンと鳴らした。
刹那。
爆音も、衝撃波もなかった。ただ、ラオを中心とした半径十メートルの「因果」が書き換えられた。
空中に跳んでいた魔獣たちと魔獣使いは、その形のまま一瞬で『極彩色の花びら』へと『変異』した。
血の一滴も、肉の一片も残らない。ただ無数の薔薇の花びらが、血生臭い戦場に優雅に舞い散っていく。
「……え?」
魔獣使いが持っていた杖だけが、湿った地面にドサリと落ちた。
理解を超えた事象。魔法ですらない。それは、絶対的な『消去』の具現だった。
「な、何をした……!? 我が精鋭が……我が誇る魔獣が……!」
「……誇る? この腐臭を放つ獣をか? 笑わせるな」
ラオがゆっくりと歩み出す。一歩……土を踏みしめるその足音が、戦場全体を支配する重圧となって響く。
残りの帝国の醜悪な尖兵たちは、金縛りにあったように動けない。
彼らの本能が目の前の存在を『人間』ではなく、『世界の終焉そのもの』であると叫んでいた。
「百万那由多の塵を払う前に、まずは貴様らから掃除してくれよう。我の『小ヌルい平和』を汚した罪、その魂を虚無に帰すことで償うがいい」
ラオが右手を天に掲げた。
漆黒の魔力が、彼の小さな掌に集束していく。それは光さえも飲み込む、絶対的な『無』の球体。
「待て……待ってくれ、ラオ!」
掠れた声が、ラオの動きを止めた。
泥まみれで這い寄ってきたグリハンが、ラオの足首を掴んでいた。
「……殺すな。……これ以上殺さないでくれ……」
「……フン。助けてやったというのに、我に指図するか、グリハン」
「違う……。お前を……お前の手を、汚したくないんだ。お前は……教会の子供たちと一緒に、笑って過ごしていればいいんだ。……こんな地獄みたいなこと……子供に、させたくない……」
グリハンは、ラオの正体など知らない。ただ自分が育った同じ場所で暮らす、この「生意気な弟分」が自分たちのためにバケモノになってしまうのを、命懸けで止めようとしていた。
ラオの瞳から殺意の揺らぎが消え、呆れに似た感情が浮かんだ。
「……ハッ。貴様、本当に救いようのない馬鹿だな。我の正体を知れば、腰を抜かして死ぬくせに」
ラオは掌の黒い球体を、ふっと息で吹き消した。そしてまだ震えている帝国の兵士たちを一瞥する。
「……命拾いしたな。この小ヌルい男の慈悲に感謝せよ。だが二度はない。我の視界から――消え失せろ」
ラオが軽く手で払う。
それだけで帝国の魔獣使いと魔獣たちは、目に見えない巨大な力に弾き飛ばされ、森の彼方へと飛んでいった。おそらく二度と、この森に足を踏み入れる勇気は持てないだろう。
静寂が戻った森に、グリハンの部隊を捜索していた王国軍の他部隊の兵士たちが近付いてくる音が聞こえてくる。
ラオは力尽きて意識を失ったグリハンの襟首を掴み、ずるずると引きずり始めた。
「……全く。世話の焼ける。おい、グリハン。起きたら、お前の上官に言え。軍の砦の警備が『小ヌルい』から、我の散歩の邪魔が入ったとな」
ラオは、夕日に染まり始めた空を見上げた。
破壊神としての力はまだ全く戻りきっていない。だがこの「小ヌルい平和」を守るための理由が、ほんの少しだけ増えたような気がした。
「……さて。帰ってシチューを食うか。……今日はおかわりを三杯ほど要求してやる」
少年の姿をした神は数人の重い男を引きずり、兵士たちの声が聞こえる方へと歩き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
凄く励みになりますので、面白いとか、続きが気になるとか思った方はぜひブックマーク、★評価をお願いします。




