第6話 神の飛翔と無垢なる湯煙
傾いた陽光が静かに降り注ぐ、セステアの夕暮れ時。
教会の尖塔の頂に、一人の少年が立っていた。夜風に黒髪をなびかせ、その瞳は深淵のような紅い輝きと深みを宿している。
破壊神ラオデレティオ。
彼は今、この不自由な肉体という名の牢獄で、かつての権能を呼び覚まそうとしていた。
「……フン。重力などという小ヌルい法則に、いつまでも縛られているわけにはいかぬからな」
ラオは目を閉じ、体内の魔力回路を極限まで研ぎ澄ませる。九割九分九厘を封印された残り滓のような魔力。それを一箇所に凝縮し、爆発的な推進力へと変換する。
「――飛べ」
刹那、少年の体がふわりと浮き上がった。
一メートル、三メートル、十メートル。
かつて百万那由多の世界を飛び回った彼にとって、それはあまりにも矮小な一歩に過ぎない。だが地上の喧騒が遠のき、星々に近づく感覚は、破壊神としての矜持を僅かに呼び覚ます。
「くっ……おおおおっ!?」
だがその彼方へと続く絶頂は長くは続かなかった。
空に浮かぶ雲と並びかけた頃、彼の体に異変が起きる。
急激な高度上昇に伴い、十二歳の肉体が悲鳴を上げた。血管が激しく脈打ち、視界がチカチカと明滅する。魔力消費はまだ制御出来ている。しかし、この肉体は神の魂が放つ出力を維持する「器」としては、あまりにも脆弱品だったのだ。
「馬鹿な……回路が……ショート……だと……!?」
肉体がダメージを負ったことで制御を失った魔力が体中で火花を散らし、推進力は一転して、墜落の加速度へと変わる。
ラオの体は空から、教会の裏手へと真っ逆さまに吸い込まれていった。
「不敬なり! 我の体が……浮かべっ! ぬぅぅ、とおおおおっ!!」
バリリーンッ!!
派手な破砕音と共に、石造りの建物の屋根にある天窓が粉砕される。ラオはそのまま、真っ白な湯気が立ち込める空間へと直滑降した。
ドッバーーン!!
凄まじい水柱が上がり、教会裏にある平和な湯浴み小屋に激震が走った。
「……ぶはっ! ケホッ、ケホッ! ……何だ、この水は! 我の気高い飛翔を邪魔立てするとは……!」
ラオは湯船の底から這い上がり、濡れ鼠になった髪を掻き揚げながら毒づいた。
だが、その不遜な言葉は、周囲から沸き起こった黄色い悲鳴にかき消される。
「キャアアアアアッ!?」
「わあ! 空からラオ兄ちゃんが降ってきたーっ!」
「えっ、えええええええっ!? ラ、ラオ君!?」
湯気の向こう側で、リオラが顔を耳の根元まで真っ赤に染め、発展途上の胸元を両手で必死に隠してお湯に沈み込んだ。
その隣では、孤児の女の子たちが「すごーい!」「びっくりしたー!」とはしゃぎ回り、バシャバシャとラオに湯を浴びせている。
「……ぬ? リオラか。貴様、なぜこのような時間に我の着水地点に居座っている。……騒ぐな、耳に障る」
「騒ぐなって……! 今は女子湯の時間よぉ! なんで、なんで屋根を突き破って……!」
「事故だ。魔力の調整に僅かな誤差が生じた。……ところで貴様、我の心配より己のその、貧相な肉体を隠すことに必死だな。小ヌルい自意識だ」
リオラは、羞恥心と「貧相」という言葉へのショックで、お湯の中でプルプルと震えた。
「……事故なら仕方ないけど……! でも、誰が『貧相』よ! ラオくんこそ、その……少しは、こう、恥ずかしいとか……ないの……!?」
「恥ずかしい? なぜ我が貴様のその炭素と水分の集合体に対して、羞恥の感情を覚えねばならん。……無駄に自己主張の激しい肉の塊、我の魔力回路を乱す雑音に過ぎん」
ラオは堂々と湯船から立ち上がった。びしょ濡れの服が体に張り付いているが、本人は全く気にする様子がない。
額の傷から血がひと筋垂れても、その瞳は冷徹なまま、真っ赤になったリオラの慌てぶりを心底不思議そうに眺めている。
「隠すべきは己の弱さであって、その程度の肉の塊ではない。……おい、ガキども。我の服を引っ張るな。布が千切れるだろうが」
「ラオ兄ちゃん、おでこ痛いの?」
「血が出てるよ! ぺろぺろしてあげようか?」
「だめよルル! ラオ君は早く出ていって! みんなも、ラオ君に触らないの!」
リオラが湯船から必死に指示を飛ばすが、裸の子供たちは「ラオ兄ちゃん、かっこいいー!」とラオに群がり、もはや収拾がつかない。
「……フン。騒がしいな。我は出るぞ。リオラ、この天窓の修理はサミエルにやらせろ。今日の我は少々疲れた。明日の朝のスープの肉をいつもの三倍にするのだ」
ラオは額を抑えながら、平然とした足取りで出口へと向かった。
扉を閉める間際、振り返った彼の冷めた瞳と目が合い、リオラは再び「ひゃんっ」と肩を竦める。
バタン、と扉が閉まる。
湯船に残されたリオラは、力なくお湯の中に沈んでいった。
「……あの子、本当に……何なのよ……。少しは申し訳ないとか……ないのぉ?……」
◇◇
翌朝。
ラオは何事もなかったかのように食堂に現れ、「腹が減った。チビども。小ヌルいパンを持ってまいれ」と威張り散らしていた。
昨日湯浴み小屋で裸を見られたリオラが、ラオと目を合わせられずに縮こまっているのを見ても、ラオはいつも通りリオラに声をかける。
「……おい、リオラ。昨日の衝撃で我の魔力はいつもより枯渇している。昨日言ったように今日のスープは肉を多めにせよ」
その言葉を聞いたリオラは、「この子には一生、乙女心なんてわからないんだわ……」と遠い目をしながら、いつも通り山盛りの肉をラオの皿に盛るのであった。
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