第2話 脆弱な肉体の確認
セステアの町外れ、丘の上に立つ教会の朝は、天界の静寂とは無縁の喧騒から始まる。
「ラオ兄ちゃーん! 起きて! おしっこ漏れちゃう!」
「……ぬ、不敬なり。我の寝床を戦場にするな。あと、それは我の管轄ではない。リオラのところへ行け」
三歳のルルが腹の上で飛び跳ねる衝撃で、ラオは忌々しく目を開けた。
本来、破壊神の目覚めとは、次元の震動と共に数多の星々が瞬く荘厳な儀式であるはずだ。それが今や、幼児の尿意というこの世で最も「小ヌルい」理由で遮られている。ラオは這い出すようにベッドを抜け出し、地団駄を踏むルルの手を引いてトイレに向かうのだった。
◇◇
ラオは誰もいなくなった部屋の鏡の前に立つ。
映っているのは、やはり十二歳程度のひょろりとした少年だ。白磁のような肌、夜空を溶かしたような黒髪。どこからどう見ても、世界を滅ぼす業火を纏った神には見えない。
(……改めて確認せねばならぬな。この『肉体』という名の牢獄の性能を)
ラオは全裸になり(羞恥心という概念は、彼には存在しない)、己の四肢を点検し始めた。
「まず、魔力伝導率……劣悪。一厘の力を通すだけで毛細血管が悲鳴を上げおる。出力制限をかけねば、指一本動かすだけでこの肉体が内側から爆ぜるな」
次に、感覚機能。
窓を開けると、朝の冷気が肌を刺す。
「……寒冷刺激への耐性、皆無。なぜ人間は、これほど剥き出しの状態で生存できているのだ? 毛皮の一枚も生えておらぬとは。小ヌルい。設計ミスとしか思えん」
そして、最も理解しがたいのが「空腹」というバグだ。
昨夜、あんなにシチューを三杯も平らげたというのに、腹の虫が既に「第二配給」を要求している。
神の魂を維持するのに、なぜ植物の種を焼いた粉や、獣の肉を煮た汁が必要なのか。
「おい、転送担当のドジ女。聞こえるか」
こめかみに指を当て、天界との神域通信を試みる。
『ひ、ひいぃ! ラオデレティオ様! お、おはようございます! 肉体の調子はいかがですか?』
「最悪だ。この肉体、一日に三度も燃料を投下せねば機能停止に陥るぞ。それに、排泄などという屈辱的な排熱処理まで備わっておる。貴様、創造神に伝えておけ。この依代を設計した奴を、後で概念ごと消去すると」
『そ、それは創造神様の直筆デザインなので無理ですぅ! ちなみにその肉体、成長期なのでこれからもっとお腹が空くようになりますよ! 頑張って完食してくださいね!』
通信が切れる。ラオは拳を握りしめた。
「……成長だと? 我をさらにこの不自由な肉に縛り付ける気か。小ヌルい……小ヌルすぎるぞゴルドアン……!」
憤慨しながら着替えを済ませ、食堂へ向かう。
そこでは、リオラが大きな鍋をかき混ぜ、子供たちがスプーンを持ってテーブルを叩いていた。
「あ、ラオ君! おはよう。今日はね、お隣の農家さんから頂いたお野菜たっぷりのオムレツよ」
「フン、貢ぎ物か。……毒見をしてやろう」
ラオは椅子に踏んぞり返り、差し出された黄色い塊を一口食べた。
……瞬間、脳内の「破壊衝動」が、幸福感という名の泥濘に沈んでいく。
(……ぬ、ぬおお。この、舌の上でとろけるような食感は何だ。卵という、次世代の生命を育むためのカプセルを、これほどまでに暴力的な美味に変えるとは……。これこそが人間の『創造』の極致か……!)
「ラオ君、顔がにやけてるわよ?」
「……笑止! 我は今、この食物に含まれる不純物を精査していただけだ。……おい、おかわりだ。この黄色い絨毯を、さらに三枚ほど持ってまいれ」
「はいはい。いっぱい食べて、大きくなるのよ」
リオラがラオの頭をなでる。
本来ならその腕を次元の彼方へ吹き飛ばす不敬。
しかし今のラオはオムレツの二口目を運ぶのに忙しかった。
食後、ラオは教会の庭で子供たちの「おままごと」に付き合わされていた。
「ラオ兄ちゃんは、迷子になったワンちゃん役ね!」
「……我は破壊神だ。なぜ四足歩行の畜生の真似をせねばならん。却下だ。我は、この世界を滅ぼすラスボス役をやる」
「ラスボスって何? 美味しいの?」
「……小ヌルい。小ヌルすぎる……。貴様ら、絶望という言葉を知らんのか」
◇◇
昼下がり。
ラオは教会の高い尖塔に登り、遠くの国境付近を眺めた。
魔力を視覚に集中させると、遠方で蠢くどこかの軍勢が見える。魔獣たちの咆哮が、風に乗って微かに届く。
(……あの程度の雑魚どもに、この『美味しいオムレツの配給所』を壊されては堪らんからな)
ラオは自分の小さな、子供特有の柔らかい手を見つめた。
握りしめても、かつてのような星を砕く力は感じられない。
舌先にはあの温かいシチューの記憶が、そして指先にはリオラの不器用な手の温もりが、しっかりと残っている。
「……しばらくは、この欠陥品の肉体を楽しんでやるとしよう」
ラオはそう呟くと、再び地上から聞こえてくる「ラオ兄ちゃーん、泥んこ遊びしよう!」という、破壊神の威厳を微塵も考慮しない呼び声に、大きくため息をついて飛び降りるのだった。
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