第16話 戦雲の去り際
ファルバラ帝国の最前線司令部。
重厚な黒石で築かれたその広間には、凍りつくような沈黙が支配していた。
中央に跪いているのは、かつて「葬儀人」と恐れられた魔獣将校、ゼノス・ヴァン・ドレイクである。
しかし今の彼にその威容はない。全身に巻かれた痛々しい包帯、そして失った魔力の影響で青白く削げた頬が、アイゼン砦での凄絶な敗北を物語っていた。
「……報告は以上です。我が軍の最終術式は、発動の瞬間に『反転』。空間そのものが剥離し、私自身を捕捉しました」
ゼノスの震える声が、玉座に座る帝国軍元帥の耳に届く。元帥は片眉を上げ、不機嫌そうに机を叩いた。
「反転だと? アステミアの魔導騎士ギリアムに、そのような芸当が可能だというのか。ヤツは精密な演算機ではあるが、因果をねじ曲げるほどの創造主ではないはずだ」
「……数値上は不可能です。ですが……あの瞬間、私は確かに『視た』のです。戦場の遥か上空、雲の切れ間から、我らすべてを塵芥同然に見下ろす……神の如き冷徹な双眸を……」
ゼノスの言葉に、並み居る将校たちがざわめいた。錯乱か、あるいは敗軍の将の言い訳か。しかしゼノスの瞳に宿る本物の『恐怖』は、それが単なる虚言ではないことを示していた。
ゼノスの傍らに控えていた兵士が、ゼノスに代わり進言する。
「元帥閣下、現時点でのさらなる進軍は極めて危険です。アイゼン砦には、我々の理解を越えた『守護者』が存在します。魔獣の本能が、これ以上の侵入を拒んでおります」
元帥は深く溜息をつき、地図上のアイゼン砦に置かれた駒を、数センチメートル手前へと下げた。
「……よかろう。ゼノス。貴様の失態は重いが、得られた情報の不気味さも無視できん。全軍、前線を二十キロ後退させろ。帝国の魔導院がアイゼン周辺の『異常魔力波』の解析を終えるまで、アステミアへの侵攻は一時凍結とする」
帝国の牙が、一時的に収められた瞬間であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
一方、アステミア王国領セステアの町の中心にあるシャルロッテ・ド・パンペルムースの広大な邸宅。
今夜はアイゼン砦防衛成功を祝う、パンペルムース伯爵主催の私的な祝勝パーティーが開かれていた。シャンデリアの光がクリスタルグラスを反射し、薔薇の花香が漂う中、正装した軍人や貴族たちが談笑している。
「オホホホ! 流石は私のグリハン様ですわ! あの巨大な魔獣を真っ二つになさるなんて、まさに伝説の勇者の再来ですわね!」
シャルロッテは、いつも以上に気合の入った(そして三回転増量された)縦ロールを揺らしながら、グリハンに詰め寄っていた。
グリハンは慣れない礼装に窮屈そうに首を振り、隣で冷静にワインを口にしている上官ギリアムに助けを求めるように見た。
「シャルロッテ殿、グリハンの手柄は確かに大きいが、それ以上にあの戦場には『奇跡』があった。……私の魔導計算が、あそこまで完璧に補正された理由は、未だに解明できていないのだよ」
ギリアムの眼鏡が鋭く光る。彼はパーティーの間も、脳内であの時のアイゼン砦の魔力数式を解き続けていた。
「あら、ギリアム様。それはアステミアの神々が、グリハン様の正義に味方したに決まっておりますわ。……そんな小難しい話より、グリハン様! 今夜は朝まで、戦場のお話を聞かせて……」
「シャルロッテ様。……お話の前に一つ、真剣に伝えたいことがあるんです」
グリハンの表情が、軍人のそれに変わった。
シャルロッテは一瞬、期待に胸を膨らませて頬を染めたが、続く言葉は彼女の予想とは少し違っていた。
「あの教会の土地の買収の件……改めて、諦めてはいただけないでしょうか。あそこは俺やリオラ、孤児たちにとってたった一つの帰る場所なんです。貴方のような気高いお方に、子供たちの家を奪うようなことはしてほしくない」
シャルロッテが言葉に詰まった、その時。
「……ふむ。その話、私から説明させてもらおうかな?」
廊下の奥から、重厚な足音と共に一人の初老の男性が現れた。シャルロッテの父、パンペルムース伯爵である。
「お父様!」
「グリハン君、君の願いは理解している。元々、あの教会の土地を買い叩こうとしていたのは、我らパンペルムース家だけではない。軍部があの場所をアイゼン砦への補給中継拠点、および最前線の魔導観測所にする計画を立てていたのだ」
伯爵の言葉にグリハンが息を呑み、その場にいたギリアムに目を向けるが、ギリアムは全く表情を変えない。
そのまま伯爵は穏やかに続けた。
「しかし先ほど私の所に軍報が入った。帝国が前線を大幅に下げ、侵攻を控える方針を固めたそうだ。……となれば、無理にあの僻地の教会を拠点化する必要はなくなった。軍部の計画はもう一度白紙に戻るだろう。パンペルムース家としても、あのような辺境の土地を無理に所有するメリットはない」
「……本当ですか!? では、教会は……!」
「ああ。買収の話は中止だ。サミエル神父とリオラ君にもそう伝えてもらえないかな? もっとも……娘のシャルロッテが勝手な理由で足を運ぶのを止める権利は、私にはないのだがね」
伯爵が茶目っ気たっぷりに娘を見ると、シャルロッテは顔を真っ赤にした。
「お、お父様! 私は……私はただ、教会の劣悪な住環境を改善して差し上げようと……!」
買収が中止になったということは、もう教会に乗り込む「正当な理由」がなくなってしまったということだ。つまり思いを寄せるグリハンや小生意気なラオに会いに行く口実が失われたことを意味する。
シャルロッテは扇子を握り締め、残念そうに、そして少し寂しげに視線を落とした。
「……そうですわね。もう、あの教会に行く必要もありませんわね……」
消え入りそうな声で呟くシャルロッテ。そんな彼女の様子を見て、グリハンは困ったように、だが優しく微笑んだ。
「お別れだなんて、そんな。……シャルロッテ様。もしよろしければ、これからもたまに、教会に顔を出してはいただけませんか?」
「えっ……?」
「ラオやルル、ニーナたちも、貴方が来ると(文句を言いながらも)賑やかで楽しそうなんです。……貴方のような華やかな方が遊びに来てくれるのを、弟や妹たちも待っているんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、シャルロッテの縦ロールが「シュパァッ!」と勢いよく跳ねた。
「……っ! そ、そこまでおっしゃるなら、仕方がありませんわ! あの子たちの教育係として、この私が定期的にマナーを叩き込んで差し上げますわ! もちろん、グリハン様が非番の時を狙って……いえ、いつでも構いませんことよ!」
さっきまでの沈んだ表情はどこへやら。シャルロッテは薔薇の花が咲いたような笑顔で、期待に胸を躍らせていた。
その様子を横で見ていたギリアムは、ふっと口角を上げた。
(……やれやれ。土地の所有権よりも、あの教会の『守護神』のご機嫌を損ねないことの方が、アステミアの平和を維持する為には重要かもしれんな)
アイゼン砦での不可解な勝利、そして帝国の撤退。
ギリアムの鋭い理性が、教会の屋根で昼寝をしているであろう、あの少年の底知れぬ影を捉え始めていた。
「オホホホ! ではグリハン様、次の訪問日はいつにいたしましょう!? 最高級の紅茶とスコーンを持って伺いますわよ!」
シャルロッテの高笑いが、パーティー会場に響き渡る。
セステアの教会にまた一段と騒がしい日常が戻ってこようとしていた。




