第10話 観察者の眼と不遜なる守護
アステミア王国北端、セステアの町を包む空気はかつてないほど重く沈んでいた。
国境の砦から運び込まれる負傷兵の数が増え、町中に漂う血と錆の臭いが、帝国の魔獣兵団がすぐそこまで迫っていることを告げていた。
普段はそんな喧騒から切り離されている町外れの丘の上にある教会だったが、今はその様子が違った。
今は、野戦病院のようになった慌ただしさがその教会の中で巻き起こっていた。
「グリハン様! ああ、グリハン様! 私の愛しの騎士様が、あんな汚らわしい獣どもに傷を負わされるなんて……! 許せませんわ、ファルバラ帝国も、この『小ヌルい(ラオの真似)』警備体制も!」
教会の廊下に、シャルロッテの悲痛な(そしてやかましい)叫びが響き渡った。
彼女は、グリハン負傷の報を受けるやいなや、私財を投じて集めた最高級の包帯と秘蔵の薬草を馬車に積み込み、文字通り「爆走」して教会へ駆けつけたのだ。
「シャルロッテ様、声が大きいですわ。グリハンお兄ちゃんは今、眠りについたばかりですから」
リオラが、疲れの見える顔で優しく嗜める。
教会の礼拝堂は、急造の医務室へと変貌していた。グリハンと共に生還した十数名の兵士たちが、床に敷かれた薄い布団の上で横たわっている。神父夫妻は優しい眼差しを向けて、若き兵士たちの一人一人の傷口を丁寧に洗い、薬を塗っていた。
七人の孤児たちも、自分たちにできることを探していた。三歳のルルが、泣きじゃくる怪我人の手を握り、「痛いの痛いの、飛んでけー」と、拙い言葉で祈りを捧げている。
「……フン。実に、小ヌルい光景だな」
教会の隅、影の落ちる柱に背を預け、ラオは腕を組んでその様子を眺めていた。
彼にとって、人間が死ぬのも、傷つくのも摂理の一部に過ぎない。
だが自分があの森で「拾って」きたグリハンが、シャルロッテの差し出した高そうなスープを意識が朦朧としながらも、しっかりと口に運んでいる姿を見るのはそれほど不快ではなかった。
その時。
教会の重い扉がゆっくりと、だが威圧感を持って開かれた。
現れたのは、整えられた口髭が印象的な、三十代前半の男だった。
アステミア王国軍部隊長、ギリアム。
彼はグリハンの上官であり、この国境付近で最も「感覚」の鋭い魔導将校としても知られていた。
ギリアムが教会に一歩足を踏み入れた瞬間、彼の身体が微かに震えた。
……重圧。
いや、それは物理的な重みではない。
研ぎ澄まされた魔導士としての直感が、彼の脳内に警鐘を鳴らしていた。
(……なんだ、この場所は。空気が……『凪いで』いるのか?)
教会の外は、帝国の魔獣が放つ瘴気と戦場の殺気に満ちている。
だが、この教会の敷地に入った途端、それら全ての不純物が消失しているのだ。
まるで、目に見えない巨大な「繭」に包まれているかのような、絶対的な隔離と拒絶。
ギリアムは鋭い眼光で周囲を見渡した。
献身的に働く神父。聖女のように兵士に寄り添う修道女。騒がしく喚く令嬢。
……そして。
教会の隅で、死神のように冷徹な瞳をした一人の少年に、彼の視線が止まった。
(……あの子か。この圧倒的な『魔力回路』の収束点。……いや、これは魔力などという低俗なものではない。これは――)
「部隊長! わざわざお越しいただき……」
無理に上体を起こそうとするグリハンを、ギリアムは手で制した。
「動くな、グリハン。戦況の報告は聞いた。……森で魔獣の精鋭を退けたそうだな。それも生存者全員が『何が起きたか見ていない』という、不可解な勝利だ」
「それは……その……」
グリハンは、ちらりとラオの方を見た。
ラオは、興味なさそうに視線を外している。
「グリハン。……お前の部下たちは、あれを『神の奇跡』だと言っている。だが俺は奇跡を信じない。……信じるのは、目の前にある『現象』と『力』だけだ」
ギリアムは部下たちに療養を指示すると、ゆっくりと歩みを進めた。
向かう先は、教会の隅に佇むラオのもとだ。
一歩近づくたびに、ギリアムの肌にチリチリとした感覚が走る。
ラオから溢れ出しているのは、本来この矮小な人間界には存在してはならない、高純度の「拒絶」の力だった。
「……少年。名は、ラオと言ったか」
ギリアムがラオの正面で立ち止まった。
ラオは、自分より遥かに背の高い男を、微塵も臆することなく見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「……ほう。口髭の虫ケラか。貴様、我の結界に触れたな。小ヌルい魔力の感触だ……。我が意図的に薄めていなければ、貴様の精神など一瞬で焼き切れておったぞ」
ギリアムは息を呑んだ。
傲慢。不遜。だが、その言葉には、一切の虚飾が含まれていない「真実」の響きがあった。
「……やはり、お前か。この教会を帝国の魔獣から……死の運命から切り離しているのは」
「勘違いするな。我はただ、自分の寝床を汚されたくないだけだ。……貴様ら人間が、この小ヌルい大地でどう死のうが、我の知ったことではない。だが、我のシチューの味を損なう火の粉だけは、一粒たりとも許さぬ。それだけだ」
ラオは手に持ったコップのお茶をズズッと啜った。
ギリアムは、その少年の姿をした「何か」を見つめ、複雑な感情を抱いた。
アステミア王国にとっては、これ以上ない救世主かもしれない。だがこの少年の意志一つで、国など瞬時に塵に帰るだろうという『力』を感じ取っていた。
「……礼を言うべきか、恐れるべきか、迷うところだな」
「礼など不要だ。……それより口髭。貴様らの砦の防衛線、あまりにも小ヌルいぞ。明日、北の谷から回り込んでくる魔獣の群れがある。……我の散歩の邪魔をさせぬよう、精々兵を動かしておけ」
「……! なぜそれを……」
ギリアムが問い返そうとした時、ラオは既に飽きたように背を向けていた。
教会の外では、再び風が吹き荒れ、遠くで魔獣の遠吠えが響く。
だが、この教会の隅で茶を啜る少年がいる限り、ここには決して「死」は届かない。
ギリアムは、自分たち人間の命運を握る、あまりにも小さく、あまりにも巨大な背中を、畏怖と共に焼き付けるのだった。
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