崖の下
兄はよく転ぶ子だった。
走ると、たいてい石につまずいた。振り返ると、いつも少しだけ遅れている。母は「注意力が足りないのよ」と言って、兄の頭を軽く叩いた。
あの日も、崖の上で風が強かった。
私は覚えている。たぶん。
空は白くて、海は思ったより遠くにあった。足元の草が倒れる音がして、兄が何か言った。言い返した気もする。内容は思い出せない。
ただ、手のひらの感触だけが残っている。
柔らかい布を押したような、曖昧な感触。
私は押していない。
押していないはずだ。
兄は足を滑らせたのだと思う。あの子は昔から、よく転んでいた。私は何もしていない。ただ近くに立っていただけだ。
落ちる音は、小さかった。
叫び声があったのかどうかも、よくわからない。風の音のほうが強かった。
気がつくと、私は一人で立っていた。
下を覗いたかどうかも覚えていない。
そのあと、どうやって家に帰ったのかも。
大人たちが騒いでいた記憶はある。誰かが私の肩を強く掴んで、「大丈夫」と言った。何が大丈夫なのかは説明されなかった。
兄は事故死になった。
町の診療所の医師がそう言った。警察も来たはずだが、制服の色も顔も思い出せない。私は白い封筒を受け取り、母は何度も頭を下げていた。
遺体は、見ていない。
子どもには刺激が強いから、と言われたのか。私が拒んだのか。
葬儀の日、棺は閉じられたままだった。
私は泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
その夜、母が私の部屋に来て、長い間座っていた。何も言わなかった。ただ、私の手を握った。強く、少し痛いくらいに。
「あなたは悪くない」
母はそう言った。
私は、何もしていないのに。
あの崖に立つと、いまでも風の向きがわからなくなる。前から吹いているのか、後ろから押されているのか。
手のひらが、まだ覚えている。
何を、とは言えないまま。




