消えたはずの人
なくなっていた。
最初に気づいたのは、匂いだったと思う。潮と鉄が混ざったような、湿った匂い。港に近づくと、いつもより風が重く感じられた。
朝だったはずだ。たぶん。
海は静かで、船も出ていない。波止場のコンクリートに、色の濃い部分が広がっているのが見えた。乾きかけて、縁が黒ずんでいる。
誰も触れようとしない。
誰かが言った。
「またか」
また、という言い方が自然すぎて、私は少し安心した。
この町では、めずらしいことではない。
なくなる。
消える。
残らない。
私は近づかなかった。近づいて確かめる勇気がなかったわけではない。ただ、確かめる必要がないとわかっていた。
どうせ、もうない。
振り返ると、漁協の建物の前に夫が立っていた。煙草を持つ手がわずかに震えているように見えたが、距離のせいかもしれない。
「見たのか」
夫はそう聞いた。
私はうなずいた。何を、と聞き返されるとは思わなかった。
「大丈夫だ」
夫はそれだけ言った。
何が、とは言わない。
終わっている、とも言った気がする。
何が終わったのか、はっきりしないまま、私たちはしばらく海を見ていた。
この町では、人はあまり騒がない。必要以上に話さない。波の音のほうが、いつも少しだけ大きい。
私は役場へ向かった。
戸籍係の窓口は、午前九時きっかりに開く。誰もいない廊下を歩きながら、今日処理する書類を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
机の上に積まれた届出の束をめくる。
転入届。
婚姻届。
出生届。
死亡届は、ない。
おかしい、と思う。
さっき、あったはずなのに。
私はもう一度、束を最初からめくり直す。
ない。
そもそも、誰の名前を探していたのかも、急にわからなくなる。
窓の外で、カモメが鳴いた。
この町では、人は死なない。
少なくとも、書類の上では。
兄が落ちたときも、私は遺体を見ていない。見せてもらえなかったのか、私が見なかったのか、もう覚えていない。ただ、事故だったと説明され、白い封筒を渡された。
あの日も、海は静かだった。
波止場の色の濃い部分は、午後には薄くなっていた。潮が引いたからだと、誰かが言った。
私はうなずいた。
何があったのか、誰もはっきり言わない。
でも、なくなっている。
確かに、なくなっている。
私はそれを知っている。
——はずだった。




