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死体が消える町  作者: 臥亜


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1/9

消えたはずの人

 なくなっていた。


 最初に気づいたのは、匂いだったと思う。潮と鉄が混ざったような、湿った匂い。港に近づくと、いつもより風が重く感じられた。


 朝だったはずだ。たぶん。


 海は静かで、船も出ていない。波止場のコンクリートに、色の濃い部分が広がっているのが見えた。乾きかけて、縁が黒ずんでいる。


 誰も触れようとしない。


 誰かが言った。


「またか」


 また、という言い方が自然すぎて、私は少し安心した。


 この町では、めずらしいことではない。


 なくなる。


 消える。


 残らない。


 私は近づかなかった。近づいて確かめる勇気がなかったわけではない。ただ、確かめる必要がないとわかっていた。


 どうせ、もうない。


 振り返ると、漁協の建物の前に夫が立っていた。煙草を持つ手がわずかに震えているように見えたが、距離のせいかもしれない。


「見たのか」


 夫はそう聞いた。


 私はうなずいた。何を、と聞き返されるとは思わなかった。


「大丈夫だ」


 夫はそれだけ言った。


 何が、とは言わない。


 終わっている、とも言った気がする。


 何が終わったのか、はっきりしないまま、私たちはしばらく海を見ていた。


 この町では、人はあまり騒がない。必要以上に話さない。波の音のほうが、いつも少しだけ大きい。


 私は役場へ向かった。


 戸籍係の窓口は、午前九時きっかりに開く。誰もいない廊下を歩きながら、今日処理する書類を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。


 机の上に積まれた届出の束をめくる。


 転入届。

 婚姻届。

 出生届。


 死亡届は、ない。


 おかしい、と思う。


 さっき、あったはずなのに。


 私はもう一度、束を最初からめくり直す。


 ない。


 そもそも、誰の名前を探していたのかも、急にわからなくなる。


 窓の外で、カモメが鳴いた。


 この町では、人は死なない。


 少なくとも、書類の上では。


 兄が落ちたときも、私は遺体を見ていない。見せてもらえなかったのか、私が見なかったのか、もう覚えていない。ただ、事故だったと説明され、白い封筒を渡された。


 あの日も、海は静かだった。


 波止場の色の濃い部分は、午後には薄くなっていた。潮が引いたからだと、誰かが言った。


 私はうなずいた。


 何があったのか、誰もはっきり言わない。


 でも、なくなっている。


 確かに、なくなっている。


 私はそれを知っている。


 ——はずだった。

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