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赤い約束  作者: 秋田陽子
3/3

二人のデコレーション

ビニール袋の持ち手が、買い出しの重みで指の付け根に深く食い込んでいた。陽子は玄関の上がり框に荷物を置くと、赤くなった手のひらをそっとさすり、痺れが引いていくのを待った。冷たい外気から解放された家の空気は、どこか懐かしいような、それでいて何かを期待させるような不思議な熱を帯びている。奥の台所からは、シャカシャカと小気味よい、一定のリズムを刻む音が聞こえてきた。


薄暗い廊下をそっと進むと、台所の灯りが温かなオレンジ色の道を作っている。そこには、いつものエプロンを少し窮屈そうに締めた広樹が、背中を向けて立っていた。彼は両手でしっかりと握ったビニール袋を、まるで打楽器でも奏でるかのように上下に激しく振っている。その動作に合わせて、普段は硬い彼の肩が、どこか子供のような無邪気さを孕んで軽快に揺れていた。袋の中身は鶏肉と、ただ振りかけるだけで魔法のように味が決まる市販の唐揚げ粉だろう。普段、仕事から帰ってきた彼は必要最低限のことしか口にせず、静寂を好むような男だ。しかし、今この瞬間の、一心不乱に粉を塗すその背中からは、言葉に頼らない彼なりの高揚感や、誰かのために手を動かすことの純粋な喜びが、陽子の胸にまでじんわりと伝わってきた。


ふと視線を横にずらすと、調理台の端には、いつもの食卓には似つかわしくない、鮮やかで目を引く黄色いパッケージが二つ並んでいた。ハマザキ製パンの『バナナスペシャリー』だ。それは子供の頃から馴染みのある、素朴で甘い誘惑を象徴するパンだった。そのすぐ隣には、まだ根本に少し青みの残る、立派な台湾バナナの袋が、自分の出番が来るのを静かに、そして誇らしげに待っている。それらを見つけた陽子は、胸の奥で小さな期待が芽生えるのを感じた。


陽子は自分の買ってきた食材を片付けるため、一歩、また一歩と足音を忍ばせて冷蔵庫へと近づいた。重たい冷蔵庫の扉を開けると、庫内の冷気が頬を撫でる。その最上段、一番目につく特等席には、見慣れない既製品の『しぼるだけチョコホイップ』の容器が、まるで王様のようにどっしりと、誇らしげに鎮座していた。これから始まる甘い時間の主役を見つけたようで、陽子の口元は自然と綻んだ。


「あ、お帰り」


袋を振る手を止めた広樹が、少しだけ首を傾けるようにして顔をこちらへ向けた。一生懸命に動いていたせいか、彼の頬はわずかに上気し、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。彼はまだ少し乱れた息を整えながら、台湾バナナの袋に手を伸ばすと、その中から一番形の良い一本を丁寧にもぎ取った。そして、照れ隠しをするように、それを陽子の差し出した手にぎゅっと握らせた。


「すぐ揚がるから。それ、食べて待ってて。お腹、空いてるだろ」


広樹の声はいつもより少しだけ低く、けれど柔らかな響きを含んでいた。彼は空いた方の手で、陽子の肩を優しく包み込むようにして押し、促すように食卓の方へと視線を向けた。その手のぬくもりには、日常の疲れを労うような、彼らしい不器用な優しさが込められていた。


案内されたリビングのテーブルは、まるで魔法にかけられたかのように様変わりしていた。普段は大切に仕舞い込まれ、特別な日にしか日の目を見ない繊細な刺繍入りのランチョンマットが、ぴんと背筋を伸ばして広げられている。その中央、クリスタルの花瓶の中では、窓から入り込む春を孕んだ微風を受けて、一輪の赤いバラが静かに揺れていた。それは精巧に作られた造花であったが、この日のために広樹が用意した心尽くしそのもののように、本物以上に鮮やかで深い色彩を放っている。


陽子は手の中にあるバナナの、皮越しにも伝わる柔らかな感触とほのかな甘い香りを感じながら、フライパンに向き直った広樹の後ろ姿をじっと見つめた。油の跳ねる音が心地よい音楽のように聞こえ、彼の背中が少しずつ誇らしげに見えてくる。その静かな愛情に包まれながら、陽子はこれからの甘い時間を思い描き、心の中でそっと微笑みをこぼした。


台所から響いてくる、包丁がまな板を一定の間隔で叩くトントンという軽やかな音は、リビングで一人待つ陽子の耳に心地よい音楽のように届いていた。彼女は広樹からもらったばかりの台湾バナナを一口だけ静かに口に含み、その濃厚な甘みが舌の上でゆっくりと溶けていくのを感じながら、ふっと意識を去年の柔らかな春の記憶へと飛ばした。あの時、二人で訪れた城跡公園の古いお堀沿いには、凛とした空気の中に梅の香りが満ちていて、歩くたびに心が洗われるような静謐な時間があった。


「……そういえば、あのお堀沿い、そろそろね。今年もきっと、綺麗に咲くわ」


誰に聞かせるともなく独り言ちた言葉は、部屋の静寂に溶け込んでいった。陽子の脳裏には、白や淡い紅色の花びらが春の気紛れな風に吹かれて舞い踊る光景が、鮮やかな色彩を伴って蘇ってくる。午後の柔らかな日差しを浴びて、二人で歩幅を合わせながらゆっくりと歩いたあの穏やかなひととき。今年もまた、同じ場所を広樹の隣で歩ける日がすぐそこまで来ているのだと思うと、胸の奥が温かな期待で満たされていくのだった。


今、壁一枚隔てた台所では、広樹がかつてないほど真剣な面持ちで作業を進めているに違いない。ハマザキのバナナスペシャリーのふんわりとした生地を、壊さないよう慎重に一枚ずつ剥がして分解し、その間に丁寧に薄切りにしたバナナと、艶やかなチョコホイップを層にして積み上げていく。時折、彼は使い慣れないスパチュラをぎこちなく手に取って、皿を回しながらケーキの表面を滑らかに整えようと奮闘しているはずだ。普段は無口で、感情を表に出すことが少ない彼が、少しだけ眉間にしわを寄せてデコレーションの細部にまで没頭している姿。そんな彼のひたむきで少しだけ不器用な情熱を想像した陽子は、愛おしさが込み上げ、思わず「ふふっ」と小さな声を漏らして笑ってしまった。


やがて、冷蔵庫の扉が、その重厚な重みを感じさせる音を立ててバタンと閉まった。続いて、食欲をそそる香ばしい揚げたての鶏肉の香りと共に、山盛りの唐揚げを添えたオムライスの皿を両手に抱えた広樹が、台所から現れた。彼はどこか照れくさそうに、それでいて自分の成し遂げた仕事に少しだけ満足しているような、複雑でいて柔らかな苦笑いを浮かべて陽子の前にやってきた。


「……今週は、ケーキ週間になりそうだな。二人とも、これじゃあ確実に太るぞ」


広樹は少し困ったような声を出しながら、手際よく食卓に料理を並べた。彼のその言葉の裏には、陽子が冷蔵庫の奥深くに、彼に気づかれないようにと細心の注意を払って忍ばせていた『ふわふわ卵のシフォンケーキ』と、白く輝くホイップクリーム、そして色鮮やかなフルーツミックスの缶詰の存在を、とうに見抜いていたという事実が隠されていた。陽子は自分の隠し事が筒抜けだったことに驚きつつも、どこか誇らしい気持ちで彼の顔を見つめた。


「だって、そろそろホワイトデーでしょ?忘れたわけじゃないわ」


陽子は悪戯っぽく、それでいて真っ直ぐな瞳で微笑んで、広樹の少し困惑したような顔をじっと覗き込んだ。


「バレンタインの時、あなたがとっても素敵なチョコフォンデュを内緒で用意してくれたじゃない。あの時の驚きと嬉しさが忘れられなくて。だから今度は、私がこれを使って、あなたを驚かせる番だと思ってたのよ」


お互いに相手を喜ばせようと、同じような材料をこっそり買い込み、同じような甘い計画を立てていた。その事実が、何よりも二人の絆の深さを物語っているようで、陽子の心は幸福感で満たされていった。広樹は完敗したと言わんばかりに大袈裟に肩をすくめてみせたが、その瞳には隠しきれない優しさが灯っており、自然と二人の視線が空中で重なり合った。


「似てきたのかもね、私たち。考えることまで一緒なんて」


陽子の言葉に、広樹も深く頷くように微笑みを返した。開け放たれた窓から、春の訪れを告げる優しい風が吹き込み、クリスタルの花瓶に挿された赤いバラの造花をチリリと小さく揺らした。微笑み合う二人の穏やかな空気の中を、新しい季節の清々しい香りが、祝福するようにゆっくりと通り抜けていった。



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