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赤い約束  作者: 秋田陽子
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後編

「そのうち分かるわよ。」


義母のキミ子が残した言葉は、受話器を置いた後も、まるで古いレコードのように陽子の頭の中で繰り返されていた。浴室からはシャワーの音が止み、広樹が身体を拭く気配がする。彼が出てくるまでのほんのわずかな時間、陽子は再びソファに深く沈み込み、スマートフォンの画面を点灯させた。


気になり始めると、居ても立ってもいられないのが陽子の性分だった。「そのうち」を待てるほど、彼女の好奇心は穏やかではない。

陽子は検索窓に、いくつかの単語を打ち込んだ。


「結婚記念日 花束 造花 一本」

「赤いバラ 一輪 意味」

「生花と造花 混ぜる 心理」


画面をスクロールする指先が、青白い光に照らされる。無数の検索結果が並ぶが、どれも帯に短し襷に長しだった。


一輪のバラの花言葉は、「一目惚れ」「あなたしかいない」。

赤いバラは、「情熱」「愛情」。

造花は、「枯れない愛」「永遠」。


一般論としての意味は出てくる。だが、「毎年、生花の花束の中に一本だけ造花を混ぜる」という具体的な習慣についての記述は、どこを探しても見つからなかった。とある知恵袋のようなサイトには、「造花を贈るのは安っぽく見られるので避けるべき」といった否定的な意見さえある。


陽子は眉をひそめた。広樹は決して安上がりな男ではないし、手抜きをするような人でもない。そこには必ず、彼なりの、あるいは彼が育った家庭なりの哲学があるはずなのだ。

陽子は視線を上げ、飾り棚に並んだ二本の造花を見つめた。

去年の一本、今年の一本。

もし、これが来年も続くとしたら。三年目には三本になる。十年目には十本に。


ふと、ある考えが陽子の脳裏をよぎった。それは、ばらばらだったピースが、音を立てて嵌まっていくような感覚だった。


一本のバラが示す「あなたしかいない」というメッセージ。

造花が示す「永遠に枯れない」という誓い。

そして、毎年一本ずつ増えていくという事実。

陽子は息を呑んだ。


つまり、これはただの飾りではない。これは、私たちの時間の「堆積」なのだ。生花はその年の新鮮な感謝を表し、枯れて消えていく。けれど、この造花だけは残り続け、一本ずつ増えていくことで、結婚生活の年数を物理的にカウントしているのではないか。

言葉で「愛している」と言うのは簡単だ。しかし、このバラは、言わば「愛の履歴」だ。十年後、二十年後、花瓶が赤いバラで一杯になったとき、それは二人が過ごした歳月の重みそのものになる。


間違いない。これこそが、広樹が、そしておそらく義母がそのうちといった意味なのだ。

陽子は高揚した気持ちを抑えきれず、再びスマートフォンを手に取った。時計を見ると、先ほどの通話からまだ十五分ほどしか経っていない。失礼を承知で、彼女は履歴の最上段にあるキミ子の名前をタップした。


数回のコールの後、キミ子が出た。


「あら、どうしたの?忘れ物?」

「いえ、違うんです。お義母さん、私、分かった気がして。どうしても答え合わせがしたくて。」


陽子は早口で、今しがた辿り着いた推論をまくし立てた。このバラは、結婚年数のカウントであること。枯れない造花を使うことで、積み重なる歴史と永遠の愛を表現していること。生花が「現在」なら、造花は「永遠」を意味しているのではないかということ。

一気に話し終えた陽子が息を継ぐと、電話の向こうで沈黙が流れた。


「お義母さん?違いますか?」


やがて、キミ子のゆったりとした声が聞こえた。


「さあ?どうかしらねえ。」


その声色は、先ほどと同じように悪戯っぽく、しかしどこか嬉しそうに弾んでいた。


「正解とは言わないんですか?」

「野暮なことは言わない主義なのよ。それぞれの夫婦で、意味なんて変わっていくものだしね。」


キミ子はあくまで明言を避けた。陽子が少し落胆しかけたその時、キミ子が続けた。


「でも、陽子さんのその解釈、とても素敵だと思うわ。……切ったあと、ちょっとメッセージアプリを見てちょうだい。」

「え?」

「じゃあね、おやすみなさい。」


通話が切れた直後、メッセージアプリの通知音が軽やかに鳴った。

陽子はアプリを開いた。キミ子から送られてきたのは、一枚の写真だった。

陽子は画面に映し出された光景に、言葉を失った。


それは、義実家のリビングで撮られた写真だった。日当たりの良い出窓に、大きな、本当に大きなガラスの花瓶が置かれている。その中には、溢れんばかりの、数え切れないほどの赤いバラが生けられていた。

三十本、いや、四十本はあるだろうか。真紅の塊となったバラたちは、圧倒的な存在感を放ちながらも、不思議なほど調和のとれた美しさを湛えていた。造花特有の均一な赤色が、これだけの量になると、まるで燃え上がる炎のような生命力を感じさせる。


そして、その花瓶の横には、キミ子が立っていた。彼女は両手で、額縁に入った写真を愛おしそうに抱えている。写真の中の人物は、三年前に亡くなった義父だ。キミ子は、その写真の義父と一緒に、満開の赤いバラの花瓶に寄り添い、少女のように恥じらうような、それでいて誇らしげな笑顔を浮かべていた。


添えられたメッセージはなかった。しかし、その一枚の写真が、何千もの言葉よりも雄弁に真実を語っていた。

四十年以上の結婚生活。義父が毎年、欠かさずに贈り続けた一本のバラ。義父が亡くなった後も、そのバラたちは色褪せることなく、キミ子のそばで二人の歴史を証明し続けているのだ。


陽子の視界が滲んだ。

これが、答えだった。揺るぎない愛、積み重ねた時間、そして、たとえ片方がいなくなっても残る、確かな絆の証。

洗面所のドアが開き、湯気と共に広樹が出てきた。タオルで頭を拭きながら、彼はリビングに入ってくる。


「あれ、陽子?どうしたの、そんな顔して。」


広樹が不思議そうに覗き込む。陽子は慌てて涙を拭い、スマートフォンの画面を伏せた。まだ、彼には言わないでおこうと思った。彼が「そのうち分かる」と言って隠していた秘密を、もう少しだけ、二人だけの無言の約束として楽しむのも悪くない。


「ううん、なんでもないの。ただ、お風呂上がりに冷えたお茶でもどうかなと思って。」

「そう?大丈夫、自分で取りに行くよ。」


広樹はキッチンへと向かい、冷蔵庫を開けた。その背中は、いつもと変わらず少し猫背で、頼りなげに見える瞬間もある。けれど今の陽子には、その背中が、これから何十年もかけて大きな花瓶を満たしていく、誠実な愛の運び手のように見えた。


「ねえ、広樹さん。」


陽子は呼びかけた。広樹がコップを片手に振り返る。


「なに?」

「来年も、再来年も、楽しみにしてるね。」


陽子が言うと、広樹は一瞬きょとんとし、それから、すべてを察したように優しく目を細めた。


「うん。任せておいて。」


彼は短くそう答え、少し照れくさそうに視線を逸らした。


翌日の夕暮れ時。

今日もまた、鍵が開く音がして、広樹が帰ってくる。


「おかえりなさい。」

「ただいま。」


交わされる言葉は、ありふれた日常のものだ。しかし、リビングの棚、一番よく見える場所には、二本の赤いバラを活けた花瓶が揺れている。

その花瓶には、まだたくさんの余白がある。来年、また一本。その次も、また一本。そうして少しずつ埋まっていくその空白は、これから二人が共に歩んでいく、未来という名の希望だった。

陽子はエプロンを直し、笑顔で夫を出迎えた。二本のバラが、夕日を受けて静かに輝いていた。


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