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赤い約束  作者: 秋田陽子
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前編

十月の終わり、秋の深まりとともに街路樹が鮮やかに色づき始める頃、陽子の家には特別な空気が満ちていた。

窓の外では少し冷たい風が吹き抜け、カサカサと乾いた音を立てて落ち葉を運んでいくが、リビングルームの中は暖色の照明に照らされ、穏やかな温もりに包まれている。

キッチンからは、時間をかけて煮込んだビーフシチューの濃厚な香りが漂い、特別な夜の訪れを告げていた。


今日は二回目の結婚記念日だった。

玄関の鍵が開く音がカチャリと響き、続いて重厚なドアが開く音がした。

陽子はエプロンで軽く手を拭うと、努めて自然な歩調で、しかし弾むような気持ちを抑えきれずに廊下へと向かった。


ただいま、と少し照れくさそうな、けれど温かみのある声が聞こえる。夫の広樹だった。

彼は紺色のスーツを着崩すこともなく、その手には予想通り、いや、予想以上に華やかな花束が抱えられていた。


おかえりなさい。陽子が微笑むと、広樹は少しはにかみながらその花束を差し出した。


「おめでとう、二年目だね。」

「ありがとう。すごく綺麗。」


陽子は両手でその花束を受け取った。ずしりとした重みと共に、植物特有の瑞々しい香りが鼻腔をくすぐる。

薄紫色のトルコ桔梗が幾重にも重なった花弁を優雅に広げ、その周りを淡いピンクのカーネーションが愛らしく囲んでいる。隙間を埋めるようにあしらわれた小花や緑の葉が、全体を上品にまとめていた。

広樹は決して口数が多いほうではないが、こうした記念日や節目を大切にしてくれる律儀な人だった。


陽子は広樹のジャケットを受け取り、彼が洗面所へ向かう背中を見送ってから、花束を抱えてキッチンへと戻った。

大理石調のカウンターに花束を置き、包まれていたセロファンを丁寧に解いていく。シュルシュルという音とともに包装紙が剥がされると、閉じ込められていた花の香りが一気に解放され、キッチン全体が華やいだ。


花瓶はどこだったかしら。陽子は食器棚の奥から、少し背の高いクリスタルの花瓶を取り出した。結婚祝いに友人から贈られたもので、どっしりとした安定感がある。


水を張り、切り花延命剤を一滴垂らす。そして、茎の長さを揃えるためにキッチンバサミを手に取った。


一本、また一本と、花の種類ごとにバランスを見ながら生けていく。トルコ桔梗のしなやかな茎を切り、カーネーションの節を避けて刃を入れる。生花ならではの、茎から伝わる水分を含んだ感触と、プツンと切れる小気味よい音が心地よい。


ふと、陽子の指先が違和感を覚えた。


最後に残った、深紅のバラだった。花束の中心に据えられていたその一本を手に取った瞬間、指に伝わる感触が他の花とは明らかに異なっていたのだ。冷たく湿った生花の感触ではなく、どこか硬質で、乾いた手触り。


陽子はそのバラを目の高さまで持ち上げ、じっと凝視した。


花弁の縁の精巧なカッティング、葉脈の細かな凹凸、そして棘のない滑らかな茎。一見しただけでは本物と見紛うほどの出来栄えだが、それは紛れもなく、布と樹脂で作られた造花だった。


「あら、まただわ。」


陽子は小さく呟いた。記憶の扉が一年前に引き戻される。最初の一年目の結婚記念日、広樹が買ってきた花束の中にも、同じように一本だけ、赤いバラの造花が紛れ込んでいたのだ。


その時は、花屋さんの手違いか、あるいは装飾の一部として添えられたものだと思った。枯れてしまった他の花を処分する際、その一本だけが色鮮やかに残ったため、捨てるのが忍びなくなり、リビングの飾り棚にある小さな一輪挿しに移しておいたのだった。あの一本は、今も埃を被ることなく、変わらぬ赤さを保ってそこに在る。


陽子は視線をリビングの棚へと向けた。そこには去年のバラが静かに佇んでいる。そして今、手元には全く同じ姿をした、二本目の赤いバラがある。

これは偶然ではない。陽子の中で確信めいたものが生まれた。広樹は意図してこれをやっている。


リビングに戻ってきた広樹は、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろしていた。リラックスした表情でテレビのニュースを眺めている。陽子は出来上がったばかりの花瓶をダイニングテーブルの中央に置き、その隣に、抜き取った一本の造花を静かに置いた。


「ねえ、広樹さん。」

「ん?なに?」


広樹が穏やかな顔でこちらを向く。陽子はテーブルの上の造花を指先でつついた。


「このバラ、造花よね。去年もそうだったけど、今年も一本だけ入ってたわ。」

「ああ、気づいた?」


広樹は悪びれる様子もなく、むしろ少し嬉しそうに口元を緩めた。その反応に、陽子はますます不思議な気持ちになる。


「うん、生けてるときにすぐに分かったわ。でも、どうして?全部生花の方が香りもいいし、自然じゃない?どうして一本だけ偽物を混ぜるの?」


陽子の問いに、広樹は少しだけ視線を宙に浮かせ、何かを懐かしむような、あるいは言葉を選んでいるような表情を見せた。しかし、すぐにいつもの飄々とした笑顔に戻る。


「うん、まあ、そういう習慣もあるよね。」

「習慣?どこの?」

「うーん、どこだったかな。なんか、いいらしいよ。」

「いいらしいって、何が?」


広樹は詳しくは語ろうとせず、まあまあ、せっかくのシチューが冷めちゃうよと言って、話題を食事へと逸らそうとした。その態度は決して冷淡なものではなく、むしろ陽子の反応を楽しんでいるようでもあり、あるいは照れ隠しのようにも見えた。


陽子はそれ以上追及するのをやめた。無理に聞き出すようなことでもないし、彼が機嫌よく食事を始めようとしている空気を壊したくもなかったからだ。


食事の間、二人はこの一年の出来事を語り合った。夏の旅行のこと、陽子が仕事で昇進したこと、広樹がぎっくり腰になりかけたこと。


笑い声が絶えない食卓の真ん中で、トルコ桔梗とカーネーションは瑞々しく咲き誇り、その傍らに置かれた一本の造花だけが、静止した時間の中にいるように沈黙を守っていた。


その夜、片付けを終えた陽子は、やはり気になって仕方がなかった。広樹が先に風呂に入っている間、陽子はスマートフォンを手に取った。


「そういう習慣もあるよね。」


広樹の言葉が頭から離れない。彼の実家の習慣なのだろうか。広樹は伝統的な行事を重んじる古い家の出身ではないが、義母のキミ子は茶目っ気がありつつも、時に深い教養を感じさせる不思議な女性だった。もし何か知っているとしたら彼女しかいない。


夜の九時を回っていたが、キミ子ならまだ起きているはずだ。陽子は迷った末に、通話ボタンを押した。数回のコールの後、明るい声が聞こえた。


「はいはい、陽子さん?こんばんは。」

「お義母さん、夜分にすみません。今、お電話大丈夫でしょうか?」

「ええ、大丈夫よ。ちょうどドラマが終わったところだから。どうしたの?何かあった?」


キミ子の声はいつも通り、包み込むような温かさがあった。陽子は少し緊張を解き、本題に入った。


「いえ、大したことではないんですけど……実は今日、結婚記念日で。」


あら!そうだったわね、おめでとう!「もう二年になるのねえ、早いわねえ。仲良くやってる?」


「はい、おかげさまで。それで、先ほど広樹さんが花束を買ってきてくれたんです。とても綺麗な花束だったんですけど……。」


陽子は言葉を選びながら説明した。去年も、今年も、生花の花束の中に一本だけ赤いバラの造花が混ざっていたこと。広樹に聞いても「そういう習慣だ」とはぐらかされたこと。


「……それで、もしかしたらお義母さんのお家の習慣なのかと思って、お電話してみたんです。何かご存知ないかなと思って。」


陽子が話し終えると、電話の向こうでキミ子がふふっと笑う気配がした。それは嘲笑ではなく、愛しい子供の成長を見守るような、慈愛に満ちた笑い声だった。


「あの子、相変わらずねえ。」

「え?やっぱり、お義母さんが教えたんですか?」

「いいえ、私が教えたわけじゃないのよ。でも、あの子がそれを続けているのは知っているわ。」

「じゃあ、どういう意味があるんですか?広樹さんは何も教えてくれなくて。」


陽子が身を乗り出すように尋ねると、キミ子は少しの間を置いてから、優しく、諭すように言った。


「陽子さん。それはね、あの子なりの言葉なのよ。」

「言葉、ですか?」


「ええ。今はただの不思議なプラスチックの花かもしれないけれど、きっとそのうち分かるわよ。焦らなくても、時間が教えてくれることってあるの。あの子も口下手だから、そういう形でしか伝えられないのかもしれないわね。」


「そのうち分かる、ですか……。」

「そう。だから、そのバラは捨てずに取っておいてあげてね。それが一番大事なことだから。」


キミ子の言葉は謎めいていたが、そこには確かな確信があった。「捨てずに取っておくこと」。それは陽子が去年、無意識に行ったことでもあった。


「分かりました。大切にします。」

「ええ、そうしてあげて。二人で素敵な夜を過ごしてね。」


通話を終えた陽子は、スマートフォンの画面が暗くなるのをぼんやりと見つめていた。結局、具体的な答えは得られなかった。しかし、キミ子の口ぶりからは、これが単なる悪戯や手抜きではなく、何かポジティブで深い意味を持った行為であることだけは伝わってきた。


陽子はダイニングテーブルに戻り、ポツンと置かれた赤いバラの造花を手に取った。


照明にかざしてみると、布製の花弁が鈍く光を反射する。命のない花。香りのない花。けれど、腐ることなく、枯れることのない花。


リビングの飾り棚へ歩み寄り、陽子は去年のバラが挿さっている一輪挿しを手に取った。そして、今日の一本をその隣に、そっと添えた。


二本の赤いバラが、寄り添うように並んだ。


まったく同じ形、同じ色。それはまるで双子のように見えたが、陽子には、去年のバラの方がほんの少しだけ、我が家の空気に馴染んでいるように見えた。一年間、この家で自分たちを見守ってきた時間のようなものが、微かに纏わりついているような気がした。


「そのうち分かる。」


義母の言葉を反芻しながら、陽子は並んだ二本のバラを見つめた。風呂場からは、広樹が鼻歌交じりに湯船に浸かる音が聞こえてくる。


その秘密が解けるのがいつになるのかは分からないけれど、来年もまた、このバラが増えるのだろうか。そう思うと、陽子の胸の中に、小さな、しかし確かな楽しみが芽生えていた。


陽子は一輪挿しを棚の元の位置に戻し、愛おしそうに指先で二つの花弁に触れた。変わらない赤色が、静かに陽子を見返していた。


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