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りんごおじさん

「おいしいりんご食べるかい?」


 どこの地域にも名物おじさんというものがいるが、私の住んでいた地域にもりんごおじさんと呼ばれるおじさんが存在した。


 当時小学生の頃、私も何度か遠目ながら見かけた事がある。

 見た目はどこにでもいる五十から六十代ぐらいのおじさんだが、常にスーパーの白い袋を片手に持っている。そして小さい子供を見かけると袋の中から真っ赤な林檎を取り出し嬉しそうな顔をしながら、「おいしいりんご食べるかい?」と尋ねてくるのだ。


 知らない人についていってはいけません。

 知らない人から物をもらってはいけません。


 どの子供も等しく大人から受けてきた教育のもと、当然皆おじさんを警戒し相手になどしない。だが子供の好奇心は時に簡単に大人の教育を裏切る。


「じゃんけんで負けた奴があいつのりんご食べようぜ」


 また始まったと思った。こういう事を言い出すのは決まって信二だった。

 信二はリーダー気質で頼りになるが裏切りを許さない強引さもある。この時この瞬間輪の中にいた時点で私達は仲間という名のゲームの道連れとなり、決して離脱は許されない。


「じゃーんけーん」


 だから誰も拒否も拒絶もせず拳を振り上げた。そこには信二の強引さだけではなく、皆どこかで同じ興味を持っていたからだろう。


「ぽん! うわ、まきおの負けだ!」


 その場にいたのは信二と私を含めて五人。信じがたいことに私だけがグーで他は皆パーだった。


「まきお、ちゃんと食べろよ。逃げるなよ」


 逃げたいというのがもちろん本音だが逃げられないことも分かっている。こうして私はおじさんのりんごを食べる実験体一号となった。



 皮肉なもので求めていない時はよく目にするのに、いざこちらから近付こうとするとりんごおじさんは見つからなかった。

 いつもどこかをふらふらしているりんごおじさんがどこに住んでいて本当の名前は何なのか、私達は一切知らなかった。数日おじさんが見つからない日々が続く中、別の誰かがどこどこでおじさんを見たとすれ違いが続いた。

 このまま自然消滅的に終わってくれないだろうか。そんなふうに思っていた矢先の事だった。


「あ、りんごおじさん」


 その日達也と一緒に帰っていると、りんごおじさんがいた。

 途端に緊張と恐怖が足元からじわじわと身体を侵食し始めた。

 これまではただの変なおじさん程度で、こちらが避ければ何の危険もない存在だった。だが今は違う。あのおじさんと向き合わないといけないのだ。おじさんからりんごをもらい食べなければいけないのだ。

 今すぐ逃げ出したい。でも横には達也もいる。ここで逃げ出したら達也はこの事を信二に言うだろう。達也に悪意があるわけじゃない。達也はとにかく嘘をつくのがヘタクソだしつけない人間なのだ。


 じわじわとりんごおじさんがこちらに近付いてくる。おじさんはにこにこ笑いながら私達を見ていた。私達はただ近づいてくるおじさんをじっと見たまま動けなかった。


「おいしいりんご食べるかい?」

 

 言いながら袋から真っ赤な林檎を差し出してくる。噂が本当だったと身をもって知った瞬間だった。


 りんごを食べたら全身が真っ赤になる病気になる。

 りんごを食べたら全身から血を噴き出して死んでしまう。


 噂の続きは根も葉もないものばかりだ。なにせ実際にりんごを食べた人間は周りに一人もいなかった。だからこそ信二は噂の真相を確かめたかったのだろう。私はその為の生贄というわけだ。


「た、食べます」


 するとおじさんは更に嬉しそうに顔を綻ばせた。


「そうかい。じゃあどうぞ」


 私はおじさんから恐る恐るりんごを手に取った。

 目の前で見たりんごはとても綺麗で瑞々しかった。これがおじさんからもらったものでなければおいしそうだと嬉々として噛り付いているだろう。


 ーー食べるの? これを? 本当に?


 ちらっと横を見ると私以上に緊張した面持ちの達也がいた。


「ほら、おいしいよ。とってもおいしいから」


 最後の晩餐がおじさんのりんごだなんて。気付けば私は泣いていた。これで死ぬかもしれない。これで終わるのかもしれない。そう思うと途轍もなく怖かった。


 ーー大丈夫。これはりんご。ただのりんご。ただのおいしいりんご。


 必死に自分に言い聞かせ、覚悟を決めて勢いよくりんごに噛り付いた。


 しゃく、しゃく、しゃく。


「……おいしい」


 しっとり上品な甘みがじゅわっと口に溢れた。普段母がスーパーで買ってくれるりんごなんかとは比べ物にならないほど美味しかった。


「ね、おいしいでしょ?」


 気付けば私は夢中でりんごを齧り、あっという間に一玉食べきってしまった。


「食べたね。しっかり食べてくれたね」


 にたぁっと笑うおじさんの顔を見て、急にすさまじい後悔に襲われた。

 食べた。食べてしまった。しかもまるまる一玉全部。


「おいしかった? おいしかったよね?」


 私の絶望的な後悔なんて無視しておじさんは満面の笑顔を絶やさない。一口も食べていないのにおじさんに気圧された恐怖なのか、達也は横でぐすぐすと泣いていた。


「ありがとうね。これで君は大丈夫。その代わり君以外の四人はダメ」


 突然達也を指差しそう告げると、くるっと踵を返しおじさんは帰っていった。


「え、何。今のどういう意味? ねぇ、ダメってどういう事? っていうか四人って何?」


 達也が早口で泣き喚く。


「知らない……そんなの分からないよ……」


 唖然としながらも、何となく私だけ助かったのだなという気がした。ただ安心はなく、何とも言えない不気味さから漠然とした不安と恐怖に包まれていた。


 君以外の四人。

 私以外の四人。

 何故この遊びを五人でやっているとおじさんは知ってるんだ。


 私は負けた。だからりんごを食べた。でも私は大丈夫と言われた。

 何が大丈夫で、四人は何がダメなのか。

 

 翌日達也はこの出来事を皆に伝えた。じゃあ俺達も食べようと信二達は慌てだしたが、不思議なことに以降りんごおじさんを地元で見る事はなくなった。

 ただ結論、その後りんごを食べた私も食べなかった信二達も、何事もなく卒業した。


 やっぱりただの変なおじさんだったんだ。

 そう、思っていた。




 五十歳を超えればどうしても身体に色々なガタがくる。

 髪は抜け始め肌はかさつき、身体の節々は痛み体力は劇的に落ちた。それでも無事に生きている事に日々感謝だった。結婚し娘一人に恵まれ、中学生の彼女は今も健やかに育ってくれている。


 だがここ数年で級友の訃報が続いた。


 牧野信二が死んだ。 

 武田和明が死んだ。

 水野良一が死んだ。

 浅野達也が死んだ。


 全員がそれぞれの人生を歩み、それぞれの幸せを形成し、それぞれが最終的に病魔によって血反吐を吐き散らして無残に死んだ。


「あなたが林檎を食べなければよかったのに」


 葬儀で初めて会った浅野の妻から憎しみの詰まった視線と共にそう言われた時、私は何も言えなかった。


“ありがとうね。これで君は大丈夫。その代わり君以外の四人はダメ”


 りんごを食べたら全身が真っ赤になる病気になる。

 りんごを食べたら全身から血を噴き出して死んでしまう。


 何の裏付けもないはずの噂話が時を経て現実となった。

 あの男は一体何者だったのだろう。確実に皆が存在を認識していた、実在している存在のはずだ。なのに起きた事象はおよそ現実を超えている。


 林檎を食べた私が血反吐を吐くならまだ分かる。

 何故食べてない四人が悲惨な死を遂げたのか。


 逃げ出したい。

 やめて欲しい。

 終わって欲しい。


 あの日、どうにか林檎を食べずに済む未来を望んだ。

 これは、そんな私の想いを屈折して汲み取ったあの男の計らいなのだろうか。

 純粋に自分の林檎を食べてほしいという想いを踏みにじられた者への罰だとでもいうのだろうか。


「また不審者が増えてるみたい。暖かくなってきたからかな」


 地元を離れ都会で暮らすようになったが、どこにいても安心できる場所というのはないものだなと思わずため息が漏れた。


「ほら、SNSでこういうの見れるのよ」


 妻が自分のスマホを私に見せてくる。

 【不審者報告版】というアカウント名が全国各地の不審者による事案報告をしている内容だった。


【■■県●●市、15時頃、子供に対して「おいしいりんご食べるかい?」と声を掛けてくる事案が発生】


 呼吸が止まった。

 今自分が見ている文字が何かの間違いじゃないかと何度も視線を文面に注ぐ。

 間違いなくりんごおじさんだった。出没場所は今私が住んでいる地域の近くだった。


「気持ち悪いわね。こんなの誰が食べるっていうのよ」


 隣にいる夫が昔食べた事があると言ったら、その男の林檎を食べたことによって生き延びたかもしれないと言ったら、妻はどんな顔をするだろう。


「そうだな」


 分からない。もしかしたら私はまだ大丈夫なだけで、信二達より酷い結末が待っているのかもしれない。

 

 あの林檎を食べたことは、私にとって正解だったのだろうか。

 その答えは、最後まで分からないのだろう。

 とりあえず娘には、絶対にあの男には近づかないように念のため注意しておこう。

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