第2章4節:波紋と影
農夫との対話は、すぐに村の中に広まったらしい。
私が小屋に戻ると、マルクが少し興奮した様子で話しかけてきた。
「ナギさん、さっきの爺さん、あんたが言ってた土のこととか病気のこととか、他の連中にも話してたぜ。みんな、最初は『エルフの言うことなんか』って感じだったけど、中には『確かに、言われてみれば…』って考え込んでる奴もいたみたいだ」
「そうですか」
私は静かに頷いた。
「思考のきっかけになったのなら、幸いです」
「きっかけ、ねぇ…」
マルクは私の落ち着き払った態度に、少し呆れたような、感心したような複雑な表情を見せた。
「あんた、本当に変わってるな。エルフって、もっと…こう、神秘的で近寄りがたいイメージだったんだけど」
「イメージ、ですか。人はしばしば、未知のものに対して、既存の知識や伝聞から類型的な像を作り上げ、それを現実と思い込む傾向がありますね。それは、認識の効率化という面では有用ですが、同時に、個別の事象に対する正確な理解を妨げる要因にもなり得ます」
「う、うん…?」
マルクは私の言葉の意味を完全には理解できていないようだったが、それでも何かを感じ取ったように、こくりと頷いた。
その日から、村人たちの私を見る目が、少しずつ変化していくのを感じた。警戒心はまだ残っているものの、以前のようなあからさまな敵意や恐怖は薄れ、代わりに強い好奇心や、ある種の畏敬のようなものが混じり始めていた。道で会うと、遠巻きに観察されたり、子供たちが恐る恐る近づいてきて質問をしてきたりするようになった。
私は、彼らとの対話を拒まなかった。
子供たちの素朴な疑問にも、大人の現実的な悩みにも、可能な限り真摯に向き合い、彼ら自身の思考を促すような問いかけを心がけた。
「なぜ、星は夜にしか見えないの?」
「ふむ、良い問いですね。昼間にも星は空にあるのに見えないのはなぜか、ということですね。それは、太陽の光が非常に強いため、昼間の空全体が明るくなり、それよりも弱い星の光がかき消されてしまうから、と考えられます。では、なぜ太陽はそれほど強く輝くのでしょうか?」
「隣の家のタチアナさんと喧嘩しちまって…どうすれば仲直りできると思う?」
「なるほど。喧嘩の原因は何だったのですか? そして、あなたはタチアナさんとの関係を、今後どうしたいと考えていますか? 仲直りをするためには、まず、お互いの立場や感情を理解しようと努めることが第一歩かもしれませんね」
私は答えを与えるのではない。
ただ、問いを投げかけ、彼らが自ら考え、答えを見つけ出す手助けをする。
それが、私の役割であり、哲学の実践だと考えていた。
しかし、すべての村人が私を好意的に受け入れているわけではなかった。
特に、村の古い慣習や権威を重んじる者たちの中には、私の存在と思考を快く思わない者もいた。
ある日の夕暮れ時、ボルツ村長が私の小屋を訪ねてきた。その表情は、いつも以上に厳しかった。
「ナギよ。お前に少し、話がある」
小屋の中に入った村長は、私の向かいに腰を下ろした。
「お前が来てから、村の空気が少し変わった。それは、認めよう。お前の言うことにも、一理あるのかもしれん。だがな…」
彼は言葉を区切り、鋭い視線を私に向けた。
「事を急ぎすぎるな。変化は、時として混乱を生む。特に、この村のように、厳しい状況にある場所ではな」
「混乱、ですか?」
「そうだ。お前の問いかけは、人々の心に波風を立てる。それは、良い方向に向かうこともあるだろう。だが、悪く転べば、村の結束を乱し、余計な対立を生むことにもなりかねん。それに…」
村長は声を潜めた。
「お前が言っていた、不作の原因を探る、という話。あれは、精霊様への不敬だと考える者も少なくない。もし、それで精霊様の怒りをさらに買うようなことになれば、どうするつもりだ?」
ふむ。変化への抵抗と、未知なるものへの恐怖。
そして、既存の信仰体系への固執。
人間社会における、普遍的な力学がここにも働いているようだ。
「ボルツ村長のお考え、理解できます」
私は静かに応じた。
「私の意図は、混乱や対立を生むことではありません。ただ、現象を正しく認識し、より良い解決策を見出すための思考を促したいだけなのです。精霊様への敬意を欠いているつもりもありません。むしろ、その存在を認めるからこそ、その御心や、世界の法則性を深く理解したいと願うのです」
「理屈は分かる。だが、理屈だけでは世の中は回らん」
ボルツ村長は、深いため息をついた。
そこに彼の深い人生哲学の一端を垣間見た気がした。
「それに、不作だけではない。影狼の問題もある。奴らの動きが活発になっている原因も分からん。お前ほどの知恵者なら、何か分かるのではないか?」
影狼。不作と並ぶ、この村のもう一つの脅威。その問いは、私にとっても興味深いものだった。なぜ、彼らは活発化したのか? 生態系の変化か、縄張りの移動か、あるいは、何か別の要因があるのか?
「影狼について、私が何かを知っているわけではありません」
私は正直に答えた。
「ですが、もし情報があれば、考察することは可能です。彼らの習性、最近の目撃情報、森の変化など、何かお気づきの点はありますか?」
私の問いに、ボルツ村長は再び考え込むような表情を見せた。彼もまた、私の問いかけによって、思考を巡らせ始めているのかもしれない。
異世界での最初の邂逅と対話は、静かな波紋を広げ始めていた。それは、希望の光となるのか、それとも新たな混乱の始まりとなるのか。
いずれにせよ、私の「問い」は、まだ始まったばかりだ。