第2章3節:問いかける者
マルクと名乗る若者に案内されたのは、村の西のはずれにある、小さな、そしてかなり古びた小屋だった。元々は物置か何かだったのだろう、壁には隙間があり、床も少し傾いている。しかし、雨風を凌ぐには十分だと思われた。
「ここだ。…まあ、見ての通りだが、ないよりはマシだろう」
マルクは少し申し訳なさそうに言った。彼は、まだ私に対して緊張しているようだが、敵意は感じられない。
「いえ、十分すぎるほどです。ありがとうございます、マルクさん」
私が礼を言うと、彼は少し顔を赤らめて俯いた。純朴な若者なのだろう。
マルクは、硬い黒パンと、干し肉のようなもの、そして水差しを置いていった。
「村長からの言いつけだ。また後で様子を見に来る」と言い残し、彼は足早に去っていった。
一人になった小屋の中で、私は早速、与えられた食料を観察した。黒パンは非常に硬く、少し酸味がある。干し肉は塩辛いが、貴重なタンパク源だろう。有り難く、少しずつ口にする。空腹が満たされると、思考はさらに明晰になる。
ボルツ村長の言っていた「不作」と「魔獣」。
まずは、不作について考えてみよう。
原因は何だろうか? 気候の問題か、土壌の劣化か、あるいは病害虫か。村人たちは、その原因をどのように捉えているのだろうか。
翌日、私はボルツ村長の許可を得て、村の様子を観察して回ることにした。もちろん、マルクが監視役として付いてきた。
畑を見て回る。確かに、作物の生育は芳しくないようだ。葉の色は薄く、茎も細い。いくつかの畑では、明らかに病気に罹っているような斑点が見られた。
畑仕事をしている初老の農夫に、マルクが声をかけ、私のことを簡単に紹介した。農夫は、私を一瞥すると、警戒しながらも口を開いた。
「エルフの嬢ちゃんかい。まあ、座って見てるだけなら構わんがね」
「ありがとうございます」
私は礼を述べ、彼の作業を観察した。
「失礼ですが、今年の作物の出来が良くないと伺いました。何か、お心当たりは?」
農夫は、鍬を持つ手を止め、深いため息をついた。
「心当たりなんざ、分かりきってらぁ。…精霊様の、ご機嫌が悪ぃんだ」
「精霊様、ですか?」
「ああ。土の精霊様、水の精霊様、太陽の精霊様…作物を育ててくださるのは、精霊様のお力だ。その精霊様が、何かに怒っておられる。だから、作物が育たん。日照りが続いたかと思えば、長雨が降ったり、おかしな病気が流行ったり…全部、精霊様の思し召しよ」
ふむ。なるほど。彼らは、不作の原因を超自然的な存在、精霊の感情に帰しているわけか。
興味深い世界観だ。
「なぜ、精霊様は怒っておられると、お考えなのですか?」
私は純粋な好奇心から尋ねた。
農夫は、少し困ったような顔をした。
「そりゃあ…俺たち人間に、何か至らぬ点があったからだろう。祈りが足りんかったのか、供え物をケチったのか…あるいは、誰かが精霊様の気に障るようなことをしたのか…」
「つまり、具体的な原因は分からず、ただ精霊の怒りという結果だけを受け止めておられる、ということでしょうか?」
私の問いかけに、農夫はムッとした表情を見せた。
「なんだと? 精霊様のことを疑うのか、嬢ちゃん!」
「いえ、疑っているのではありません」
私は穏やかに訂正した。
「ただ、理解を深めたいのです。もし、原因が人間の側の『至らぬ点』にあるのなら、その点を具体的に特定し、改善することで、精霊様のお怒りを解くことはできないのでしょうか? 例えば、祈りの方法や供え物の種類を変えてみるとか、あるいは、村の中で精霊様の気に障るような行いがなかったか、皆で話し合ってみるとか」
私の言葉に、農夫はぽかんとした顔をした。
隣にいたマルクも、目を丸くしている。
おそらく、彼らにとって、そのような発想はなかったのだろう。精霊の怒りは、いわば天災のようなものであり、人間側から積極的に原因を探り、対処するという考え自体が、馴染みのないものなのかもしれない。
「そ、そんなこと…考えたこともなかった…」
農夫は呟いた。
「精霊様のお怒りは、ただ耐え忍ぶものだとばかり…」
「本当にそうでしょうか?」
私は静かに問いかけた。
「もし、原因があり、それを取り除くことができる可能性があるのなら、試してみる価値はあるのではないでしょうか? 例えば、この畑の土ですが、毎年同じ作物を育てていませんか? 土の栄養が偏っている可能性は考えられませんか? あるいは、あちらに見える斑点のある葉ですが、病気だとすれば、その原因となる虫や菌が存在する可能性は?」
私は、前世でかじった僅かな農業知識と、論理的な推論を組み合わせ、可能性を提示した。
それは、精霊の存在を否定するものではない。ただ、現象を観察し、考えられる原因を多角的に検討するという、ごく当たり前の思考プロセスだ。
しかし、農夫にとっては、それは衝撃的な視点だったようだ。
彼は、呆然とした表情で、自分の畑と、私の顔を交互に見比べている。
「土の、栄養…? 病気の、原因…?」
彼の口から漏れる言葉は、まるで初めて聞く外国語のようだった。もしかしたらこの世界には「菌」という概念がないのかもしれない。
ふむ。
どうやら、私の「問い」は、彼の長年の常識に、小さな波紋を投げかけたらしい。これが、良い結果に繋がるか、あるいは反発を招くかは、まだ分からない。だが、思考が動き始めたこと自体は、歓迎すべきことだ。
「問い」は常に人を深めてくれる。