第1章3節: 森の境界と次なる問い
森の中を彷徨い始めてから、どれくらいの時間が経っただろうか。太陽の位置と自身の体感から推測するに、おそらく三日か四日。幸い、食料と水の確保には慣れ、危険な生物との遭遇も冷静に対処することで切り抜けてきた。この身体の順応能力は、予想以上に高いようだ。あるいは、エルフという種族が元来持つ能力なのかもしれない。
思考は常に巡っていた。
この森の生態系、植物の分布、気候の微細な変化。それらすべてが、この世界の法則性を解き明かすための断片的な情報となる。感応魔法、精霊、そういった概念が一般的な世界である可能性も考慮に入れるべきだろう。前世の知識体系だけでは、この世界を完全には理解できない。新たなパラダイムを受け入れる柔軟性が必要だ。
そんな思索を続けながら歩いていると、不意に前方の木々の密度が薄くなっていることに気づいた。そして、これまでとは質の違う光が差し込んでいる。森の出口が近いのかもしれない。
期待、と呼ぶべきだろうか。微かな高揚感が胸の内に広がるのを、私は冷静に観察していた。森を抜けた先に何があるのか。人間の集落か、あるいは全く別の何かか。未知なるものへの好奇心が、足を早めさせた。
やがて、視界が開けた。
目の前には、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。緑の草原が風に波打ち、遠くには畑らしきものや、小さな家々が見える。煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
人間の集落だ。
ようやく、他者との接触が可能になる。それは、情報収集の大きな機会であると同時に、新たな、そしてより複雑な「問い」の始まりをも意味するだろう。
この世界の人間は、どのような思考様式を持ち、どのような社会を形成しているのか?
彼らは、私のような異質な存在(※エルフの少女)を、どのように受け入れるのだろうか?
対話は可能なのか? それとも、警戒や敵意に直面することになるのか?
そして、私自身は、彼らとどのように関わるべきなのか?
観察者として? それとも、何らかの形で社会に参加するべきなのか?
この世界で『善く生きる』という問いは、他者との関係性において、より具体的な意味を帯びてくるはずだ。
振り返ると、背後には深く暗いシオンの森が広がっていた。私が目覚め、最初の思索と実践を行った場所。そこは、孤独ではあったが、純粋な知の探求に没頭できる、ある意味で安楽な環境だったのかもしれない。
しかし、哲学は書斎の中だけで完結するものではない。現実世界との関わりの中でこそ、その真価が問われる。
改めて、自身の状況を俯瞰する。
八十八年の知を持つ、十八歳の美少女エルフ。記憶を頼りに異世界で生存し、今、未知の社会の入り口に立っている。
転生の意味? 世界の真理? それらは、まだ遥か遠くにある問いだ。
今は、目の前の現実に向き合おう。
これから出会う人々との対話を通じて、この世界を、そして『私』自身を、より深く理解していくのだ。
私は、一つ深く息を吸い込んだ。森の匂いとは違う、土と、生活の匂いが混じった空気を肺に満たす。
そして、丘を下り、人間の集落へと向かって、静かに歩き始めた。
新たな問いに満ちた世界へと、一歩を踏み出すために。