第1章1節: 内面の覚醒と自己認識
意識は、静かな湖の底から水面へと浮上するように、ゆっくりと形を取り戻していった。最後に感じていたのは、安らかさ、とも言える奇妙な解放感だった。八十八年の生を駆け抜け、病床に横たわる老いた肉体から解き放たれる瞬間の、あの不思議なまでの平穏さ。死とは、このようなものだったか。思考の残滓が、水面に広がる波紋のように揺蕩う。
ふと、瞼を持ち上げる感覚があった。いや、持ち上げた、というよりは、自然に開かれた、という方が近い。視界に飛び込んできたのは、鮮やかな緑の天井だった。幾重にも重なる木の葉の間から、金色の木漏れ日が降り注ぎ、空気中の微細な塵をきらきらと照らし出している。
……森、だろうか。
微かに首を動かすと、さらさらと何かが頬を撫でる。自身の髪のようだ。前世の、短く刈り込んだ白髪とは全く異なる、驚くほど軽く柔らかな感触。鼻腔をくすぐるのは、湿った土と草いきれの匂い。小鳥のさえずりや、風が木々を揺らす音が、やけに明瞭に鼓膜を震わせる。
明らかに、異常な状況だ。
私は、しがない哲学の研究者であり、八十八歳という高齢まで生きた男性であったはずだ。それが、なぜこのような場所に? いや、それよりも先に確認すべきことがある。この五感を通じて得られる情報が、どうにも自身の記憶と一致しない。身体が、軽い。軽すぎるのだ。まるで羽毛のようだ、と言えば大袈裟だろうか。
おそるおそる、自分の手を視界に入れてみる。
そこにあったのは、老人のそれとは似ても似つかぬ、細く、白く、瑞々しい手だった。指は長く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。驚愕、という感情が湧き上がるよりも早く、冷静な分析が始まっていた。
――この身体は、私の知る『私』の身体ではない。
ゆっくりと上体を起こす。驚くほどスムーズに動く関節に、再び違和感を覚える。衣服は、簡素な、植物の蔓か何かで編まれたような粗末なものだった。近くに、澄んだ水面が陽光を反射している小さな泉があった。誘われるように、そこへ這い寄り、水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、見知らぬ少女の姿だった。
最初に目に飛び込んできたのは、光を含んだように輝く銀色の髪。
それは水面に触れるほど長く、細い絹糸のように風のない森の中でさえも微かに揺れていた。指先で触れてみると、前世の記憶にある最高級のカシミアよりもさらに柔らかく、まるで雲を撫でているかのような感触だった。
耳に目を向けると、人間のそれとは明らかに異なる尖った耳朶が、銀髪の間から覗いている。触れてみると、驚くほど敏感で、指先が触れただけで森の奥深くから聞こえる小鳥のさえずりがさらに鮮明に聞こえた。この聴覚の鋭敏さは、前世の衰えた老体では想像もできないものだった。
そして、水面に映る瞳は、濃密な森の緑を凝縮したかのような翠色。その大きさは顔の三分の一ほどを占め、光を受けて琥珀のように透き通っている。瞳の奥には、八十八年分の知識と経験が宿っているにもかかわらず、表面上は初々しい少女の無垢さを湛えていた。その不思議な二重性に、私自身が魅入られる。
肌は、まるで上質な磁器のように透き通るような白さで、傷一つない。手のひらを返してみれば、前世で長年のペン執筆による硬い肌と曲がった指関節とは違い、まるで彫像のように完璧に整った指が、私の意志に従って優雅に動く。
顔立ちは、現実離れした整い方で、どこを見ても不均衡や欠点がない。高く通った鼻筋、薄く優美な唇、緩やかなカーブを描く顎線。それは人間界の美の基準をはるかに超え、まるで長い時を経て完璧に磨き上げられた精緻な工芸品のようだった。美術館で見た古代の女神像を思い起こさせる。
体格は華奢でありながらも、その姿勢には不思議な威厳がある。年齢は…十代後半、といったところだろうか。少女というには大人びた雰囲気を漂わせつつも、若さの輝きを失っていない絶妙な年頃に見える。
これは前世の私が書物で読んだエルフという種族の特徴と完全に一致している。長寿で自然と共生し、優れた感覚と美しさを持つ種族。その神話上の存在が、今、この水面に、私自身の姿として映っている。
その反射像に向かって、思わず微笑みかけると、少女も同じように微笑み返してきた。その表情には不思議な違和感がある。微笑みの形は完璧だが、その奥には八十八年の人生で培った静謐な思索の色が滲んでいた。若々しい外見と年経た魂の不思議な調和。
ふむ。
これが、現在の私の姿、ということになるらしい。
八十八歳の男性哲学者が、死後(あるいはそれに準ずる状態を経て)、異世界の森で、エルフの美少女として覚醒した。
常識的に考えれば、発狂してもおかしくない状況だろう。しかし、不思議と心は凪いでいた。長年の哲学的探求は、感情の起伏を穏やかにする訓練でもあったのかもしれない。あるいは、この若い肉体が持つ精神への影響か。それ自体も興味深い考察対象だ。
「これは……どういう状況か?」
思わず、声が漏れた。自分の声とは思えない、鈴を転がすような、高く澄んだソプラノ。これもまた、違和感の一つだ。
しかし、混乱に身を委ねるのは非生産的だ。状況を受け入れ、分析し、次の一手を考えるべきだ。
死後の生か? あるいは転生という現象か? それとも、これは死の間際に見る精巧な夢なのだろうか?
いずれの可能性も、現時点では否定も肯定もできない。だが、どの可能性を追求するにせよ、この状況そのものが、存在、意識、自己同一性、そして生と死の意味について考察するための、またとない「良き問い」を提供してくれていることは確かだ。
「実に、興味深い」
自然と口角が微かに上がるのを自覚する。これほどの知的好奇心を刺激されるのは、久しぶりのことだ。
さて、現状を整理しよう。
第一に、私は存在している。この肉体と意識をもって。
第二に、ここは未知の環境である。森の中。
第三に、私には過去(前世)の記憶と、それを基盤とした思考能力がある。
第四に、この身体には、特別な力(魔法のようなもの)は、今のところ感じられない。脆弱と言ってもいいだろう。
となれば、当面の課題は明確だ。
生存。そして、情報収集。
この世界がどのような法則で成り立っているのかを知らなければ、適切な行動は選択できない。
そして、より根源的な問いも生まれる。
この未知の肉体と環境において、私(この意識、この精神)は、いかにして存在し、思考し、行動すべきか? 言い換えれば、この新たな生において、『善く生きる』とは、どういうことか?
ふむ。実に、深遠なる問いだ。探求のしがいがある。
まずは、立ち上がることから始めよう。
そして、歩き、観察し、情報を集める。それが、今の私にできる、最も合理的で哲学的な第一歩だろう。
ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、私は大地に足を踏みしめた。エルフの少女の、華奢な身体で。