折旅 (9)
「っ...。」
その目だ。その目が嫌いなんだ。その憐れむような、突き刺すような目が、僕はずっと前から嫌いだったんだ。
「ねぇボク君!。そんな嫌がらないでよ〜!。」
彼女の強情さに、僕はほんの少しの揺らぎを見せました。ここまでしてくれていながら、僕は、まだ彼女を薄汚い猩々を見据えるというのか。ここから、彼女らから逃げおおせる事、それは正しい選択なのか。そう、後退という選択肢を前に、僕は恐る恐る後退りしているのです。抵抗する精神が、徐々に勢力を増しているのです。
「この街に来たの初めてなんでしょ?。私に案内させてよ!。」
聞くに堪えない汚言。ありふれた優しさは自身を取り繕う最大限の武器である事を彼女は知っている。そしてそれが、僕の弱点である事をも知り尽くしている。全てを悟られている。
「あっ...あっ...。」
懐かしい心的外傷が、私の体に大揺れを引き起こす。
「...もう。」
そしてそれは、反旗を翻す条件となる。
「僕が...。」
ここで今、この2人を遠くまで引き離す切り札を炸裂するのだ。
「何で不登校になってるかも知らない癖に...。」
「っ...。」
お互いに沈黙が生まれます。然しそれは、互いにとって意味の違う沈黙。僕は彼女の暇つぶしに付き合ってやれる程余裕のある人間じゃないという証明をしただけにすぎない。この沈黙は必然的であり、何もこの場で気負いする事もない。そして何より、これを発する事で彼女も僕から離れてくれるとそう思っていたから。然し今見れば、彼女にうっすら心を開いてしまっているようにも見えてしまいますね。もしかしたら、ほんの少しその感情あったのかもしれません。
「そう...なんだ...。」
「...。」
思いの外彼女から返ってきたのは純朴な反応。僕の脳はそれを受諾し、さらなる自責の念へと昇華させます。
不登校モンだって聞いたなら、てっきりすぐ小馬鹿にしてくるのだと思っていたから。ていうかむしろ罵倒してくるんだろうなってぐらい考えていたから。まさかそんな普通な反応するとは思っていなかったんですよ。だから、自分の算段から逸れてしまった事、そして、自分の算段がいかに傲慢で自己中心的なのか理解した事が、より僕の心臓にダメージをくらわせたのです。人付き合いに慣れていないばかりに、彼女を遠ざけるつもりが、かえって彼女に大きな衝動を与えてしまった。なんて事をしたんだ。なんでここまでやったんだ。なんて不器用なのだ。僕は、自身の情けなさに酷く打ちひしがれました。
「うん...うん...。そうだよね...。今学校に行けてないって...事だもんね...。」
彼女は必死ながらに言葉を探しています。今僕は下を向いていますけど、あからさまに何を言うべきか迷っています。そうですよね。ただの子供だってさっきまでほんとに思ってたんですから。ただの子供だって思ってた奴から、いきなりこんな闇深い話を告げられるのですから、そりゃあ困惑しますよね。
「やっぱり...。」
とっくのとうに彼女の潔白は証明されていた筈。それを無視して己の過去を掘り上げたのは、余剰な逃走手段の確保と、肉薄を避ける為に育て上げた嘘の矜持。それは愚者が皆揃って保有する感情であり、手段。そう、僕が愚者だったのだ。本当は、彼女の閃光を前に狼狽えていただけに過ぎなかったのだ。後悔が脳を侵す。この場が、どうやってもユートピアから逸脱して見えてしまっている限り、僕はもうここにはいられない。
「帰りますっ...!。」
震えているこの両足に鞭を叩きつける。彼女の声掛けを無視してでも、ここから逃げ出さなければならない。善悪も、思考も、感情も全て擲って、ただひたすらに走り続けるだけ。丹田に力を込めて、足早にここから去っていく。たったそれだけなんだ。
できる。俺にはそれができる。簡単な事だ。走るだけだ。見てろ。ここにいる女共を視界から消し去るなんぞ容易だ。勝てるんだ。足掻けるんだ。俺は生きているんだ。
「っ...。」
両肩に重い感覚がドシっと襲ってくる。パンっと音を立て、体がブルッと震え上がる。なんだ?。何をされた?。捕らえられている。捕まっている。何故だ?。どうしてだ?。この重圧を提げて、悪い自分が自問をぶん投げてくる。それは自身の全体に伸し掛かり、恐怖と焦燥、そして、疑問。汎ゆる感情を生み、そして交差させるのです。そしてそれは、己の行動を大いに抑圧させたのです。
「ねぇっ...!。ちょっと変だよっ!。一旦落ち着こう?!。」
そしてその瞬間、この重圧の正体に気づいたのです。
「あっ...。」
それは、今目の前にいる彼女の両手だったのです。分かったその時から、全身にかかっていた力が怖いぐらいにすっと消えました。ほんとに薄れていったんです。自分でも理由は分かりません。そして僕は俯く事をやめ、彼女の表情をそっと見つめました。
「ご...ごめんなさい。やっぱり何でもないです。」
彼女の目線は、末恐ろしい程にまっすぐ向いていました。そう、僕の眼に向けてです。あ、一応言っておきますが、別に僕をとってくおうだとかそういう意図はなく、異常を振る舞っている僕に対して、ほんとに心配してるんだよっていう、そういう眼差しです。にしても本当に怖いぐらい見つめているんですがね。
「...ねぇお婆ちゃん!。」
彼女は目線をお婆ちゃんに向けました。知らない内に、彼女の顔はびっくりするぐらい強張っています。そう、凄い真剣な顔つきをしていたんです。さっきまでの僕を誂っていたような表情をしていたのに、まるで別人のようです。人間、マジになるとこんなに変貌するんだと、そう思いました。
反面、僕の事をそこまで考えてくれていたのか。という衝撃もありました。単に僕の事をイジるぐらいなら、何も情報が明かされていないこの場で僕が異常である事を見抜ける筈がありません。何より、それを心配する訳もありません。
「...まさか。」
本当に、彼女は純朴な気持ちで僕と関わってくれたのか?。目前に、これでもかと言う程に眩い答案が後光を浴びて聳え立っているのを感じたのです。期待するだけ無駄なものに、僕は知らず知らずの内に巨大な期待を委ねていたのです。
「この子とちょっと話したいんだ!。ちょっと連れてくね!。」
「...。」
「...。」
場所は変わり、近くの公園にて到着しました。時間もかなり経過していて、瞻仰すれば、ほんの少しオレンジ色を滲ませた青空がもどかしい我々を遠くから俯瞰しています。
「...。」
寓意的な彼女の誘導は、軟弱な自己への忤逆を教唆させている。輔弼されるように、僕の歪んだ足元をゆっくりと、ゆっくりと矯正させている。これ程までに得難い好機を有している訳だ。決行する以外の選択などあり得ない。何より、以降の自分がこれを理由無しに果たす事などとてもじゃないけど考えられないのだ。いや、全くもって不可能だ。至極簡単な話、自分を超越する機会なんぞ、まさに今しかないのだ。である以上、これを無碍にするなど到底許される事ではないのだ。
「...いやっ。」
然し、悶々としたこの沈黙は駟馬すらも薙ぎ払う。
僕のこのどっちつかずの思考こそが、それが如実に顕れている証拠だ。口吻一つ出やしない。嘆息すらも出やしない。僕の勇気をこれでもかと言う程に遏絶させています。
「ねぇ...。」
当然、誰のせいでもない。開会劈頭、乱離するしか芸がない我が思考こそが最もの悪なのだ。
「...はい。」
ゆくりなくも巡り合った彼女と僕。この沈黙の真意には、どちらかの好意があった故のものだったのかもしれない。僕はそう思慕している。
「ちょっと...落ち着いた...かな。」
「そうですね...。ごめんなさい...。」
「ごめんじゃないよ。そんな悪い事してないでしょ?。」
「え...?。いやだって...。」
「私にそういう事言ってくれたの、凄い嬉しかったんだよ?。」
「やっぱそっち大変なんだなーって、ちゃーんと分かったし。」
「...言う前から察してたって事ですか?。」
「あはは。まぁねー。」
「だって凄い辛気臭い顔してたんだよ?。私より若い筈だろうに、なんか嫌な事でもあったのかな〜って思っちゃった。」
「...へへっ。大正解ですよ。」
「ねぇー。やっぱそうだったでしょ〜。」
彼女はやっぱり人付き合いに慣れていたんだ。僕なんかより彼女の方がずっと話術に長けている。少し彼女と会話するだけで、心中の負担がすーっと体から抜けていったんだ。凄い体がラクになったんだ。なんて技量だ。なんて能力だ。ちょっと話するだけで、こんなに良い気持ちになるだなんて、とても信じられないよ。
「あれ?。なんかめっちゃ良い顔になってない?!。」
「え...?。そう...かな?。」
「うんうん!。しかも...ボク、めっちゃカッコいい顔してるじゃ〜ん!。」
「えぇ...?。僕さっきまでブサイクだったの...?!。」
「いやそっちにツッコむんかい!。」
「顔色良くなってて、私に笑ってくれてる今のボクが凄いカッコ良く見えるって言う事だから〜!。」
「顔色...さっきまで僕幽霊にでもなってたの?!。」
「んもう〜!!。ほんっとにおっちょこちょいなんだから〜!!。」
春空の下、流れ行く雲を見あげながら芝生に寝っ転がっているような感情。これ以上ない元来からの安らぎを、今とても実感しています。誰かと話す事なんて、今の今までずっとストレスでしか無かった。でも彼女と話す今はそんな感情なんてどこにもありゃしない。楽しい。落ち着く。心が晴れやかになる。何でこんなに嬉しいのかなんて、今更理由探しにふける事はもうやめだ。
「あはは...なんだか、凄い楽しいです!。」
そうして僕は一種の魔法でも受けているんじゃないかと思うぐらいに、彼女との会話にどハマりしていきました。
「...あ~。つっかれた〜っ。」
逢魔が時を少し過ぎた頃、僕ら二人は、変わらず公園のベンチに腰掛け談笑していました。彼女の頬も、いつしか陽光を浴びなくなり、真昼時とはまた違う雰囲気を醸し出していました。
「なんか、すっごい話あって無かったですか僕ら?。」
生肌を照らすあの艶も、日も暮れてきた今は少しばかりに艶やかな様子になっています。
「ね〜。こんなに話し合えるだなんてビックリだよ〜。」
然し、いよいよ来てしまったみたいですね。
「僕も、すっっごいスッキリしたし、お姉さんの事いっぱい知れた!。」
この天国のような談笑が儚く終わりを告げる時が。
「そうだね...。いよしっと。」
彼女はどこか意味ありげの返事をし、そっとベンチから立ち上がりました。やっぱりさようならが、もう近くにあるという事なのでしょう。
「...。」
この短期間で僕の心を全て抱きしめてくれたのは彼女だけだったのです。僕は本当に、彼女を特別だと思っているのです。特別視しているのです。それは向こうにだってとうに気づいてくれている筈です。
「もう...さようなら?。」
最後くらい、とっておきのものを僕に魅せてから去っていってくれないか?。そう、彼女にアンサーを委ねたのです。確かに、いつ如何なる時に置いても、別れというのは切なく、儚いものなのです。彼女も、きっと不器用なばかりに変に距離を取ろうとしているだけで、こんなお別れで良い訳ないだろって、本人が一番理解している筈なんです。
「...だから。」
「ねぇ。」
僕の思慕を遮るようにして、彼女は僕に向けそっと呟きました。なんだ?。やっぱりここであれを叶えてくれるのか?。僕の顔はほんの少し緩みました。
「そう言えば...ちゃんと名前、言ってなかったよね。」
後ろ姿のまま、僕にそう問いを投げかけました。さっきまでのくだけた感じはまるでなく、別人のような彼女の後ろ姿。体を屈ませる事なく、直立不動の姿勢を維持しています。
「えっ...?。うっうん...。」
僕の緩んだ顔つきももう一度矯正されます。今の彼女から漂うオーラからは、さっきまでふざけあった記憶が全部消されたかのように感じました。とても物々しいものを肌から察知します。
「...。」
彼女は、ゆっくりと姿勢を変えて何かを答えようとします。左足をこちらに向け、徐々に徐々に彼女の顔が明らかになっていきます。なんだ。何を言われるのだ。やっぱりあれは罠だったのか。あの善行は全て無為だったというのか。隠れていた巨大な存在が、もう一度、僕を睥睨しだします。
「...。」
そして僕は、神からの言伝を頂くのです。
「私は池宮 聖って言うんだ!。よろしくね!。」
「っ...!。」
この時間、まさしくこの瞬間だったのです。
「...。」
私は初めて、自分の路の明るさに気がついたのです。