折旅 (3)
「珍しいよな...はは。」
達観であり、謇諤。自分でもこれが稀有であると自覚する程、目的の無い外出というのはあり得なかった事でした。額に衝突するばかりの東風は、冬の辛さだけでなく、社会の辛さを綴っているようでした。相変わらず前を向いて歩く事は叶いませんが、兎角私は今外界を歩いている。答案は埋没された。この事象に私は怪訝しつつ、満足していました。
「ははは...。足が怖いな...。」
外出はおおよそ2〜3週間おき。トイレと風呂以外で足を動かす事もほぼありません。私の両足はとてもおぼつかない。歩法を指導される馬の如く、足の拘攣を気にするばかりで歩行の間合いがぐちゃぐちゃになってしまいます。
それでも、帰ろうとは思いません。全くです。この足を、身体を振り返る事はしません。振り返る先には、安らぎを得られる我が家があります。それでも私は無視を続けます。
私は顔を果てしない冬空に向けました。そうだ、私はこの冬空を瞻仰し、落魄の底にある溶々漾漾の躊躇を薙ぎ払ったのだ。そこに大したロジックなどありません。これが事由などと宣えば、周囲から嘲笑を浴びせられるのは必然的でしょう。頂を視認したつもりはありません、これも過程の内の一つにすぎないと承知しています。それでも尚私は、この大きな一歩を繰り出した事を自賛するのです。何故なら、それも又過程の内の一つなのだから。
「...。」
諄いが今は10時。それも冬休みにも入っていない本当の平日である。静寂さを取り戻したこの街にも人は存在します。私のこの行動を目撃でもしやがる輩でも現れると堪ったもんじゃない。私は恐る恐る周囲を確認しました。
「なんだ...びっくりさせやがって...。」
私のこの一抹の不安はただの杞憂へと変化しました。自身を讃嘆するこの有様は、端から見れば不審者に相当するでしょう。最悪今のクラスメイトが見ていたとでもなれば、もう慶賀に堪えません。然し、私には運が付いていました。私の周囲には丁度良く人がいません。ゲートボールをする老人や、談話に没頭する主婦達もいません。さっきの犯罪者みたいな姿を見た人間はいない。巨躯の陽光に浸り、そして安心しました。
淡色のこの街と人並みに一際映えるはこの黒い足元。冷笑と鬱憤が植え付けられたこの道路を踏み締めるのは、緑青と楔を蹴り上げた情熱と覚悟の足跡。
私の躍進はまだまだ序盤に過ぎません。この一歩一歩を食い止めるには、まだ時間が早すぎます。
意識せずして、私の足取りは早くなるばかり。知らない歌を口遊んで、私は、ただひたすらに蒼穹の空を追いかけ続けました。
「...いつぶりに来たんだろう。もう何で乗ったかも憶えてないや...。」
傀儡化が進行する現世は、掟や守で窶すばかりの輪中の孤児が跳梁跋扈する。その人生と衣服にどれだけの大枚を叩いたというのか。思案を巡らすごとに、実に残念な気持ちになる。そんな私は、青春の瓦解、旅立ちの地、駅構内へと到着した。
私がどこに住んでいるのかというツッコミは一旦置いておくとして、私の最寄り駅、とても大きいのですよ。乗り換えられる路線はせいぜいバスってぐらいなんですが、皆さんが通勤なり通学する頃にはホームが人で溢れかえります。と言うのも、実は中心になっている都市部とこの駅はそこそこ近い位置にあるのですね。駅だけに注目していてもしょうがないので、周りを見てみましょう。
「...へっ。」
流石大都市に近いだけあります。少し首が痛くなるぐらいに高いビルがあちらこちらにあります。ホテルでしょうか。会社でしょうか。それともマンション?。どれであっても多くの人が住んでいる事は間違い無しです。
「...にしても、人いないなぁ。」
再三言っている訳だけど、今は10時。大体の人は、学校で勉強するなり会社で仕事するなりでとうに駅から旅立っています。私一人って訳ではないんですが、今駅構内にいる人は、主にお祖父ちゃんお婆ちゃんだったり、歳増な主婦さんだったり、私みたいな人はまず見当たりません。
「でもこの人達って、どこに用事があってこんな時間から出かけてるんだろう...。」
私もそうですが、この時間帯に駅にいる人達の行く宛ってどこなんでしょう。スーパーなら近場にあるでしょうし、公園だって近場にあるはずです。ならどこへ行くんでしょう。私と同じ様に、どこか目指している場所は無いんだけど、何となく遠くへ行きたいと思った人達なんでしょうか。
「...。」
いや、そんな事無いでしょう。私みたいな考えになる人だなんて、よーっぽど退屈な暮らしをしていない限りあり得ないでしょう。私と違って大体の人は、今日は何をするとか、明日は何をするとか、毎日が予定でずーっと忙しいからこんな考えに行き着くはずもありません。私は皆が行っていて当然の学校からも退いて家に引きこもっていた訳です。普通の人間であるとはとても言えないです。むしろ劣っていると言えるでしょう。
「あっ、もう電車来たんだ。」
そんなこんな抜かしている内、乗車する電車が駅に到着しました。駅に来る事そのものが久しぶりだったので当然乗車も久しぶりです。駅と違って車内は狭い訳ですからその分人も密集しています。あー怖い怖い。ドアが開くな否や、私はそそくさと飛び乗りました。
偸盗は重畳し、玉蟲を通読します。戒飭を行う間合いと空間は、飛び込んだ先にある明暗が滲んだこの檻で一気に無に帰します。唾棄すべき罪業を、後頭部に伸し掛かる枷を振り払いつつ算えます。冗長が好きな人間は左へ、順調が嫌いな人間は右へと目を背けます。もっとも、私はその中間に立ち尽くし、直線上の有象無象を仰視するのです。
漠然とした不安、雄弁に等しい柵、純朴な死の露。眼が反映する視界はいつも灰みたいな色で、翳したその瞬間、意味と意義を生み出している。暮雨の遥か後、目覚めない筈の夙夜を目掛け、そこの人々があり得ない程に執着しているのをどこか遠目で見ていました。この土性骨も、私が独自と英断を主張したいが為の引き出しなのかもしれません。猥雑を置き去りにしたこの空間では、却って個々の思慮の相違が跋扈します。晴天の下で鉄路を突き進むこの列車が、いつしか終点の無い濃霧を貫いている最中だと勘違いする程に。
同時、私の思考も同流してきます。周囲との接続を感じたのです。勝手な理解で歩み寄ろうとする弱視の感情もこの光景を経てふと抑圧的になります。一瞥するだけでも、この車内には無の静寂さがひしひしと広がっています。誰一人顔を歪ませる事無く、ただ手に持つ電子機器を睨みつけるばかり。直立不動の私のこの姿はまさに対照の存在。私はすぐに別の車両へ移動しました。この際、該当される感情は、主に大衆への含羞だったと振り返ります。
この由々しき事態から何とか脱出を図ろうと奔走する内、気づけば次に開扉された駅にて下車してしまいました。後ろをそっと見れば、あの仏頂面なのか無表情なのかよく分からない面構えの人々が数秒の乗り降りを行い、すぐにしてあの環境へと様変わりしました。私は壮大な安堵を実感しました。開扉を経て回避したのですから。早とちりの心臓も、今は少しばかり落ち着いているのを感じました。
階段を下っていくと、うっすらと明るい照明が駅構内を灯していました。東西南北に交差して往く人々に微かな陰りを映し、闇にも見えました。
下世話にも聞かれる世間の生きづらさというのも、各々が違う形にて露わになっているように見えました。
「...。」
日常の存在を、ふと考えました。私と彼等は何から違うのか。急行した哲学が海馬に刺激を与えます。
甘く淀んだ日常が、私の背後で少し顔を顰めているのに気が付きました。