折旅 (11)
迂遠思考の傀儡も、无何之郷の前では不虞となる。
絶対的な救済こそが、視認のできない生き地獄であると今悟らせてくれる。爾来、我が身に歴訪しない素畜は只管に睥睨を繰り返す。窘めるように、戒めるように、昧者は何時までも流言蜚語を列挙する。宵寝ですっかり饐えた才覚。骸が忠魂を撫育してゆく度、日月逾邁の儚さを酷く痛感する。再び頭角を裂いていく。眩む程に感覚が迭立していく。この深傷が抬頭している限り、私の膺懲は他者を殺めてゆくのだろう。屯困、桎梏、觳觫。知った生き地獄、凋落の定め、斟酌すべし諠鬧。橈骨から萌ゆる穀潰しの全貌。雪空に埋葬された2人の夢の跡は春をまだ待っている。
現下の状況は、形成されつつある人生の型取りを支援してやる事しかできない。実に情けなく、無情だ。だが、それで良い。私はこうして、無事に邂逅を果たす事ができたのだ。豁然として、開けた世界で光に包まれたあの感覚は、なんと度し難い事か。忘却されていた記憶がもう一度姿を現す。光の先に誰かが存在している。私の手ではないものが見える。誰かの手がハッキリと見える。あぁ、繋がりたい。手を取り合って、堰を切るように号泣したい。すべてを語り合いたい。全てを受け取りたい。無くした未来を手繰り寄せ、安寧の地にて共に永眠をしていたい。目前の光は、そんな私の愚問を全て吸い込んでいった。
壅塞された空間は、より煌々と一体を照明する。遍くもどかしい拗音は2人の微笑を推進し、新たな幸福を象る。これが夢か、これが人生か、私は感涙に咽ぶ。然しこうも思う。この告解の受認は、さぞ苦しかったものだ。一辺倒の無鉄砲な打開策に過ぎない上、互いに全幅の信頼が無ければ成立はあり得ない。何故だ、何故委ねられたのだ。何故だ、何故その手を掴もうと躍起になっているのだ。これではまるで跋扈する愚人と同類ではないか。炯々とした眼差しで私は詰問を数多繰り返す。
「...違う、これは賤民の思想だ。」
おっと、この思想は禁物だ。これは本来の考えでは無かった。余計な胡乱に捕縛されていて、敢えてあの人を手放してしまう所だった。今確かにそれは存在する。だが、今だけはそれを疑ってはいけない。皎月の如く白光するその姿だけは、紛うことなき純粋そのものだったのだ。糅てるだけじゃ駄目だ。染まれなければ、渾然しなければ、この恋慕と辛抱は無為と化してしまう。簡単な話だ。信じていれば良い、2人で進めば良いのだ。少しでも視聴してみれば、答案は勝手に俗物の乙甲を抑制させてくれる。
そして、勝手で互いの姿を確かめ合える。
当然ながら、これは言語化できる問題ではない。だが答案は至って単純だ。今という空間が端緒であり、答えそのものなのだから。用紙に記された有りがちな問題と準える事こそが危険なのだ。少し前の私がまさにそうであった。轍鮒の急を愚者に訴えたって何も意味はない。思想の背離を盾に、私の全てを否認する事でしか奴らは行動できない。肯定なんてハナからやろうとしない。そんな事、とっくのとうに通暁しているのだ。
然し、実に驚いた。私のこの猜疑心も、この十数時間の内に大躍進を遂げている。疑う事そのものが未熟と言う理論は無視するとしても、気づけば私はあの人ではなく、その周囲で我々を唆る人間へとターゲットが向けられていた。違和感なんて全く無かった。謄写された人生に、煩雑な上書きを催行される事そのものが嫌だったからこそ、私はあれだけの抵抗を行使した。いや、抵抗、というより、守護、の方が近いのかもしれない。きっと、既にあの人が彫り込まれていたから。という前提があってこその行動なのだろう。
私は、自身が歴とした聖人ではない事はつとに自認できている。扶養と寵愛の底辺で蹲っているだけというのも、私は理解できている。だが私は、あの人と邂逅し実景を把握した。あの人と出会い、私は、知る由もない感動を痛感したのだ。
「...。」
「上枝君だよね...?」
「えっ...えっ。」
「だよね!。やっぱりそうだ!。」
「あ...あっ。」
「いやー久しぶりじゃん!。ほんとどこ行ってたのさぁ〜!。」
誰なんだこの人は。折角教室に入れると思ったのに、いきなり僕に向かって話しかけてきやがった。僕が対話が苦手な事を意図して話しかけたのか?。僕のこの不審な挙動を愉しむ為に接触を試みたと言うのか?。僕は引き攣った顔で彼と相対する。
「...ちょっと、何もそんな酷い顔をしなくても良いんじゃないの?。」
「初対面の人と話すのは確かに怖いかもだけど、それで言うなら僕だってちと怖いのさー。」
そもそも、今は9時15分頃。少しはあるかもしれないが、大体の学校は授業中だ。何でこの時間帯に学生が校内をウロウロしているんだ?。同じ不登校生か?。
「...。」
いや、あり得ない。白髪は見えないしフケもない。何より顔から滲み出るオーラが不登校生のものじゃない。同じ仲間だとは到底思えない。界隈の話ではなく世界線から違うと本能的にそう思える。なんだこの面は。あまりにも整っているじゃないか。僕が言うのも柄じゃないけど、あまりにもカッコいい。僕には遠く及ばない、桁違いの存在だ。
「あの...。そんな猫みたいに見つめても何かなるかな...。」
「えあっ...。」
興味がある訳じゃない。固まって動く事ができないのだ。僕はさっきも言った通り対話が苦手だ。あり得ないと思っていた結果がこうして発生したのだ。どう捌いたらいいのか僕に分かるはずが無い。ちくしょう、男とこうして対話せざるを得ない状況だなんて久方ぶりだ。
「なんで...この時間帯、に...。」
閉ざされた声帯からぼそっと声が漏れる。精一杯の勇気を振り絞り、微かな声を発する。僕は彼の事を何も知らない。認めてもいない。砕いた口調で話す事もままならない。ぎこちない今の姿で問う事だけが、僕にできる最長の努力だ。
「...?。」
「あぁ...確かに、今授業中だったね。」
彼は何故か、僕の言葉を疑問に思ったようだ。一瞬の困惑を経て、彼は次なる言葉を綴った。
「どうしてもトイレしたかったんだよぉ。流石に今の時代、授業中にトイレ我慢しなさいだなんてパワハラ気質な事、教師が言っちゃあ良くないでしょー。」
「いやー。急に尿意が来ちゃったもんで。困ったもんだよ〜。」
「っはぁー...。」
全くだ。僕はいつどの場面においても運が全くない。彼女との出会いを除けばだけど。いつもいつも勇気を振り絞って行動したにも関わらず、結局空回りする。よりにもよって今がそうだ。折角しれっとこの学校の生徒として返り咲こうとしたら、僕の事を知る人間に早速イジられる始末なのだから。つくづく、自分の日頃の行いは悪いものなのだな、と酷く落胆した。
「ところでさー上枝君、授業受けたいんでしょ?。」
「...まぁ...。」
「先生呼んでこよっか?。」
「...っひ?!。」
体内温度が急激に冷えていくのを全身で感じました。顔は青ざめ、瞳孔はガン開き。まさしく、彼の言葉にとてつもない絶句し、焦燥したのです。
「あぁぁああいいいいいいやいやいや...。だだだだ大丈ぶぶぶぶぶぶ....!!!。」
恐らくこいつは、平気でやっちゃいけない事をやってのけるタイプだ。これを絶対に拒絶しないと、このガキは平然と職員室に行って〝不登校生だった上枝君が学校に来ましたよ〜!。授業受けたいって言ってますー!。〟とか言って先生をドン引かせるんだ。いや絶対にそうだ。こいつは人との関係性とかそういうのを全くもって気にしちゃいないタイプだ。平気で人の触れちゃいけないラインにダイレクトアタックするタイプだ。対話が苦手とか言ってたけど、そんな悠長な事言ってられない。とにかくこれを阻止しなければ、僕はもう二度と学校へ行く事も、外へ行く事も難しい。
「とにっっっかく!、もう...良いから...!。」
僕は彼女との対話、いや、それ以上の勇気と覚悟を持って、こいつの恐ろしい誘いを断固拒否した。
「ああぁぁぁー...。分かった分かった...。だからそんな暴れないでよ...。」
「じゃあ自分でできるんだね...?。それで良い?。」
僕の対応から、やっと自身がいかに愚かな行動をしていたかに気づいたようだ。やべー事しちゃったなと言わんばかりの焦った顔つきで、やっと僕の拒絶を受け入れてくました。
「...。」
「...あ。」
ほんの少しの間を起き、彼は口を開けました。次なる話題の合図を鳴らし、また僕は失念します。なんだ、今度はどんな訳の分からない事を言ってくるんだ。もっとしょうもない事を喋ったら次こそシバいてやるからなと、彼の次なる行動に対応する準備をした。
「先生来たよ...。」
「...え?。」
彼は僕の左後ろを指差しながら、そう伝言しました。
「...。」
そしてその口語が、愚劣な嘘でなく凶悪な誠である事を漏れなく証明しました。
「...っ?!。」
それは確実に、僕の左後ろに存在していました。
「あああ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ...。」
魂がふわーっと喉元から出ていくのを感じました。先生の存在を確実に視認できた段階から視界が揺らぎ始め、意識が朦朧としています。死んだのか?。いや死んでも良い。いや死んだ方が幾分かマシだ。こんな屈辱、耐え凌ぐなど無理に決まっている。頼む、ここで人生を終わらせてくれ。こんなモブキャラに完敗を強いられた僕を虐めないでくれ。たかだか会話能力ごときで圧勝されてしまった僕を嘲笑しないでくれ。その顔をこれ以上見たくないんだ。頼む。死なせてくれ。僕の尊厳をこれ以上破壊しないでくれ。
「せん...せいぃぃぃぃぃぃ。」
「ちょっと!。上枝君!。ここで倒れちゃ困るよぉ!。」
全身の力が急になくなり、私は地面に項垂れる。当然ながらだがこれ以降の事は覚えちゃいない。というか覚えていたとしても恥ずかしくてとても語れたもんじゃない。
「...よし。今日はこの辺りまでにしておこうか。」
「その...お疲れ様。」
「...あれ、もう終わりですか?。」
久方ぶりの授業を受け、気づけばもう終わりの時間に到達していたようだ。僕はふと教室の上にある時計を確認する。
「えっ...?!。もう11時半なんですか?!。」
時計の針は、さっき見た時間からかなり進んでいました。いやいや、もう2時間半なのかと、それはもうとても驚きましたよ。自分にはこんな集中力があったのかと、ふと疑ってしまうレベルですよこれは。いやはや、たまには違う事をしてみるのも良いですね。いつもの毎日よりも、ずっと有意義な一日を過ごせたんじゃないかと思ってしまいます。
「そうだよ〜11時半だよ〜。開智君流石じゃないか〜!。」
「いやいや〜。とんでもないです...へへっ。」
久方ぶりに学校に来たって言うのに、それを問い詰める事無く、いつも通りに接してくれる先生の寛大さにはいつも頭が上がらない。僕には到底できっこない。あのモブキャラも絶対に無理だろうけどね。
〝ガラガラガラッ〟
「えっ...?。」
授業が終わって2分程度しか経っていないだろう。突如として教室のドアが開く音がした。
「先生...。」
先生に何か急ぎの用事が入っているのかもしれない。ロクに登校していない僕が言えた口じゃないけど、うちの先生はとっても忘れっぽい。併合してやらないといけない用事とかをついつい後回しにしちゃって、結果他の先生に呼ばれるっていうオチを2回ぐらい見ている。今回もどうせそれなんだろう。僕はこの一瞬の間に訪問者の全貌を見抜き、前もって伝えておこうと先生に近づきました。
「えーっとー。」
然し、私のその全貌は、まさに浅はかなものであったと今思い知らされました。
「あーいたいた!。上枝君いた〜!。」
「ゴミがああぁぁぁぁぁぁぁ....!!!!!。」
振り返った先に佇んでいたのは、まさにさっきのモブキャラ。2時間半前の出来事がまるで無かったかのような振る舞いで、また僕の前に現れたのだ。僕をいたぶって悦楽に浸っていた奴が、今こうして平常な面をして僕の前で笑顔を見せるのだ。一体いつまでこの僕をイライラさせたら気が済むんだこいつは。このクソッタレが。
「上枝君さ!。一緒にご飯食べようよ!。」
つくづく殺したくなるような事しか言ってこないなこいつは。悲しみや憔悴よりも怒りが勝ってしまう。こいつの要望だけは死んでも受け入れたくない。いや目の前で自害してその愚行を証明してやりたい。あっ、また死んだ方がマシって言っちゃった。
「くっ...。」
断りたいのは山々だ。然し、さっき先生には憔悴しきった哀れな姿を披露してしまった。端から見たら、ただの介護を受けてるジジイみたいなもんだ。僕が彼を心の底から嫌っているという証明は何より難しい。きっと先生からすればだが、〝彼の補助が無ければ何をしでかすか分からない。立場では彼の方が上なんだ。〟とかそういう事を間違いなく思っている筈だ。
「分かったよ...。一緒にご飯食べるよ...。」
彼のオーラから、立場とかそういうものは痛い程に伝わってくる。こんな人間に逆らったりでもしたら、僕はこの教室にすら在室していられなくなってしまう。ここだけは僕の孤城なのだ。下手に突き放してヘイトを買われたりでもしたら一貫の終わりだ。侵害されない為には、上手いこと付き合っていくしかないのだ。とても認められたもんじゃないけど、社会ってそういうものだからね。こればっかりは容認せざるを得ないよ。
「...。」
「上枝君〜。今日の給食に好きなおかずあるかな〜。」
相変わらず腹立つ口調で問い詰めるモブキャラ。久方ぶりに食堂に訪れただけに緊張しっぱなしだ。そんな中でこの問いかけだ。火に油を注いれるようなものだろう。
「い...いや。」
飯にそんな興味持ってる奴がいるか。気色悪い。
「えー残念。ま、余ったら俺が食べるよから安心してよ!。」
「さ、あっこの机空いてるからそこで食べようよ!。」
「...うん。」
ムカついてしょうがない。なんであの人以外の人間は決まってこうなんだ。僕を確定的に下部の人間だと思って対応しやがる。これを友達の交流かなんかだと勘違いしているのか?。お前は頭が悪いのか?。こんなの交流じゃない。介護か介護。僕がまるでこいつの補助がないと何もできないかのような人間に見られるじゃないか。
「さて...と。席に着いた所で〜、いただきま~す!。」
待てよ。こいつはそれが狙いなのか?。こいつは何かしらの理由があってクラスや生徒からの信用度が薄い。僕はそれの奪還の為に利用されているのか?。偽善者の彼を見て、あの子偉いじゃんってそう思わせたいのか?。
「もぐもぐ...。上枝君嫌いって言ってたけど、美味しいじゃんこの給食〜。」
もう良い。こんな奴の言葉、聞いているだけで食欲が失せてくる。食欲よりも、殺戮欲が勝手に高まっていくんだからな。そうかそうか。僕という1人の尊い命を、君は1つの物とでしか見ていないんだな。そうかそうか。とっととくたばっちまえ。
「そーいや気になってたんだけど、何か、上枝君凄いワクワクしてたじゃーん。」
「...。」
「...ふーん。」
「なになに...。彼女でもできちゃった感じ〜?。」